島村英紀が撮ったシリーズ 「不器量な乗り物たち」その4:日本編

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1-1:敗戦国日本の「庶民のための車」その1・フジキャビン5A型 (1955年)

第二次世界大戦の敗戦国として焦土から立ち上がった日本とドイツは、1950年代には経済成長を遂げ、戦争の傷跡も消えかけていた。

ファミリーカーは、当時の人々にとって、とうてい手の届かないものだった。このため、メーカーとしては、少しでも安く、少しでも簡素に作った質素な車を一生懸命作り上げた。これは日本に限らず、ドイツも、また戦勝国ではあってもやはり焦土から立ち上がったフランスでも同じだった。

車である以上、1人乗りというわけにはいかない。しかし4人乗りだと大きくて高くなってしまう。こうして2人乗りになった。ヘッドライトは、1つのほうが、もちろん2つよりも安い。タイヤは4つよりも3つのほうが安い。そのうえ、後輪を1つにすることによって、ディファレンシャル・ギヤのような複雑で高価なメカニズムが不要になる。こうして、あちこちを切りつめていって、このフジキャビンが出来た。

設計したのは富谷龍一氏である。なお、氏は下の2-1のフライングフェザーも設計した。日本では有数のすぐれた設計者だと思う。初期のシトロエン(フランス)の名車を作ったフラミニオ・ベルトーニにも匹敵するかもしれない。車を作ったのは、日産自動車系のエンジンメーカーだった富士自動車であった。オートバイも作っていた。いまはなくなってしまったメーカーである。

つまり当時は、フランスも日本も、一人のすぐれた設計者が存分に腕を振るえる時代だったのだ。オースチン・ミニを作ったアレック・イシゴニスもその一人だ。 近年のように、マーケットリサーチだ、コンサルタントだ、重役の承認だ、といった数々の障壁ゆえに、時代を超えた特徴のある車が出せなくなったばかりか、どの車も横並びで面白くなくなってしまった時代からは考えられない、良き時代なのであった。長年の「スバル党」である私が近年のスバル車に、以前ほどの魅力を感じなくなってしまったのも、同じ理由からである。

小型車には小型車のデザインがある。しかし、大型乗用車にあこがれて、ちまちまとした物真似になってしまった哀しい姿の車、たとえば、ドイツのロイト600や日本の二代目トヨタ・パブリカと比べれば、この車のデザインは、なかなかユニークで優秀だ。

外装はプラスチック(FRP樹脂)で、軽くて、安く作れる。この車の重さはわずか145kgしかない。モノコックボディという、軽くて強いボディ形式を採った。当時としては先進的な構造で、日本の乗用車がモノコック構造を普通に採用し始めたのは1960年代だった。

(2005年に、愛知県愛知郡長久手町のトヨタ自動車博物館で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは44mm相当、F2.8, 1/25s)

 この車の尻尾は、なんとも愛らしい。エンジンを中に入れ、その熱気を抜くためのルーバーを3つ切り、そしてエンジンを点検したり修理したりするためのフード(蓋)を、蝶番で両側に着けただけの必要最小限の装備だが、巧まざる愛嬌になっている。フードは蝶の羽のように両側に開く。

初期モデルでは、運転席のドアは左側にしかなかった。モノコックボディの強度を確保するためだったろう。しかし、あまりに不便だったので、後のモデルではこの写真のように左右1枚ずつのドアになった。

なお、いちばん上のルーバーの左側はガソリンを補給するための燃料注入口である。エンジンの上にガソリンタンクがあり、そこに発火性が強いガソリンを補給するのは危険なことだったが、それはほぼ同時期に作られた「僚友」、ドイツのハインケルでも同じだった。

じつは富谷氏はドイツの小型車を研究していた節がある。前2輪、後1輪という構成といい、後部にエンジンをおくことといい、ドイツから学んだのであろうか。

ハインケルの後部も可愛らしい。しかし、ちゃちなものとはいえ、バンパーが前部と後部に着いているのは、ドイツのほうが、少しは衝突安全性を考えていた、ということであろう。

エンジンは2サイクルエンジンで、空冷単気筒。121ccで、わずか6.5馬力(125ccで4.75馬力という説もある)だった。

(2005年にトヨタ自動車博物館で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは36mm相当、F2.8, 1/25s)

この車のハンドルは、世界でもユニークな形をしている。似ているのは、ドイツのメッサーシュミットくらいのものだ。

たしかに、考えてみれば、ハンドルが丸い必要はなく、近年ではやや楕円型のハンドルも出てきたが、これほど極端な楕円のハンドルは珍しい。馴れるのに時間がかかりそうだが、他方、走り出すときに、前輪がどちらを向いているか直感的に分かる、という利点もある。

また、1本スポークという意味では、フランスの初期のシトロエンとも似ている。

メーターは一つしかない。速度計だけだ。公称最高速度は60km/hだった。速度計と対象的に左側にあるのは、イグニションスイッチ(鍵穴)である。ハンドルの中央部に滑稽な形で運転者に向かって突きだしているのは、ライトのスイッチと、方向指示器のスイッチだろう。

この車の全長は295cm、幅は127cmである。かろうじて2人が横並びで座れる幅だ。

この車は1955年に発表され、23万5千円で翌1956年に発売されたが、わずか85台しか作られずに1957年に生産を終えてしまった。日本人は、こんな質素な車でさえ、まだ買えるだけの収入や余裕がなかったのであった。

(2005年にトヨタ自動車博物館で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは36mm相当、F2.8, 1/50s)


1-2:「フジキャビンの先生」、フランス・ルノー4CVのお尻

上の、あまりにも質素なフジキャビンには、「先生」がいた。

第二次世界大戦後のフランスでは、すでに庶民のための優れた車がいくつか作られていた。これは、ルノー4CV。

CVとはエンジン容積の単位で、フランスでは自動車税の税額の区分になる
。同じくフランスの庶民の車としてたいへんな傑作だったシトロエン2CVは、このルノーの半分の容積のエンジンだったことになる。

シトロエン2CVがフロントエンジンで前輪駆動だったのと違って、このルノー4CVは、リアエンジンで後輪駆動だった。エンジンが車体の後部にあり、 その熱気を逃がすために、まるで昆虫の身体の一部のようなエンジンカバー(フード)が着いていた。

このルノーもなかなかの傑作で、約750ccほどの小さなエンジンながら、卵形のモノコックボディーが軽いこともあって、なかなか俊足であり、燃費もよかった。30年間も作られ続けて850万台を売ったほどだ。

また、このルノーは日野自動車で国産化され、日本国内でも広く使われた。これが上の写真だ。しかし、当時は自家用車の需要はごく少なく、タクシー用途がほとんどであった。はじめはノックダウン方式で、フランスから輸入された部品を組立て、のちには部品も国産化された。

私が尊敬する南極科学者(地球電磁気学者)の小口高さんは、国産化されたものではない、フランス製のルノー4CVを持っていた。

国産化されて追加された運転席側のドアの内張りがなく、そこには、厚さ20cmを優に超えるものが入る巨大なドアポケットがあり、運転席回りも、国産化でつけられた余計な装飾が一切ない、質素だが機能的なレバーやスイッチが付けられていた。

右の写真はフランス製の、オリジナル・ルノー 4CV 。日本で国産化されたのよりも後ろの窓が小さい。また、バンパーも小型で余分な飾りがないし、日本でつけられた、ごてごてしたクロームメッキの飾りがない。また、テールランプも違う。しかし、いちばん違っているのは、後ろドアのすぐ後ろにある、腕木式の方向指示器だ。

また、国産化されたものでは、エンジンフードの上に二つの注入孔があるが、オリジナルはひとつしかない。ガソリンと、ラジエターの冷却水の注入孔だが、ラジエターのほうを、あとから付け足したのであろう。

このフランスのルノーを撮影したのは1984年7月、フランス・パリのグラン・パレ展示場で開かれた「自動車の生誕100年展」で。

なお、日野自動車は、このルノーの国産化で学んだあと、同じリアエンジン方式の純国産車、コンテッサを作った。エンジンは900ccで、とてもよく走る車だった。

なかでも、エンジン容積が1300ccになった二代目のコンテッサは、日野自動車が総力を挙げて作った名車だった。当時の国産車には見られない、優雅な車体と、鋭敏なステアリング特性と広い室内とを持っていた。私は以前、所有していたことがあるが、弱小メーカーの悲しさで、販売力が追いつかず、日野自動車は、乗用車生産から撤退してしまった。トラックしか作らなくなって、日野自動車の志気は落ちたといわれている。

日野自動車と同じように、当時の日本では、英国のヒルマンをいすゞ自動車が、また同じく英国のオースチンを日産自動車がノックダウンから始めて、国産化の道を歩んでいた。

後部の窓の下に着いているキャップは、中央が水冷エンジンの冷却水、右はガソリンの注入口である。


(2005年にトヨタ自動車博物館で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは36mm相当、F2.8, 1/30s。フランスのルノーの撮影機材はOlympus OM1、レンズは Tamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはサクラカラー R200 ネガフィルム))


1-3:お尻の巨大さは、このタトラにはかないません。

フジキャビンもルノーも、リアエンジンを収めるための、愛嬌のあるお尻を持っていた。しかし、このチェコ製のタトラ・サルーン・モデル77aの巨大なお尻には脱帽するしかあるまい。

しかも、このお尻は、まるで飛行機の垂直尾翼のようなフィンまでついている。

このタトラは、1936年製。当時のタトラは、時代をはるかに先取りした、6人乗りのこの大型乗用車を作っていた。世界のどのメーカーよりも、すぐれた車であった。

それにしても、なんと巨大なエンジンフードだろう。積んであるエンジンも、上のルノーよりもずっと大きい空冷V形8気筒、3,380cc、出力70HPとはいえ、このフードは、ポルシェやフォルクスワーゲン・ビートルよりもずっと大きい。後輪のホイールアーチを覆うカバーといい、この巨大なフードといい、エアロダイナミックスを、当時の車としては極限まで考えたデザインだった。

このタトラの後部のエンジンフードには、上のルノーに倍加したくらい一面のルーバーがあり、真ん中の「垂直尾翼」と合わせると、まるで恐竜の背中のような光景になった。

じつは、SOHC (Sinlle Over Head Cam)エンジン、バックボーンフレーム、スイングアクスル式の4輪独立懸架、空冷エンジン、リアエンジン方式、流線型の車体など、その後の世界の乗用車に引き継がれた革新的な技術は、みなタトラに発している。このタトラ77aも、サスペンションは、前は横置きリーフスプリングの2段重ね、後ろはスイングアクスルと横置きリーフスプリングによる4輪独立懸架だった。日本車でいえば、すべての乗用車が4輪独立懸架になったのは、タトラから半世紀も後の、つい1980年代のことであった。

また、前部の中央には第三の前照灯があり、これは、ハンドルに連動して進行方向を照らす機構になっていた。これも時代をはるかに先取りしていた。

右の写真に見られるように、フロントウインドは中央と、左右の3枚つなぎになっている。当時は曲面ガラスは作れなかったから、視界を広くするための工夫だった。

正確に言えば、このタトラ77aは、1934年に発表された、タトラ77が1935年に改良されたもので、77と77a合わせて250台あまりしか作られなかった。世界的な珍車である。私が見たときには、この車はスクラップ寸前を「救出」されたばかりなのか、ツヤもなく、前のバンパーやワイパーアームもなく、レストアの途中のように見えた。

じつは、この時代は、過去、チェコがもっとも輝いた、しかし、ごく短い期間であった。

この時代のチェコは、17世紀の宗教戦争でカトリックのハプスブルグ家の勢力下に置かれてから3世紀、第一次世界大戦でハプスブルグ家のオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊して、ようやく独立を果たして、当時の欧州でももっとも進んだ民主主義を実現した理想の国だったのである。当時のチェコの民主主義は、米国が自分の国益のために、中東や中南米に押しつける「民主主義」とはまったくちがう、本質的で良質のものだった。

そのときの指導者は初代チェコ大統領になったトマーシュ・ガリッグ・マサリクだった。バーナード・ショーは「もしもヨーロッパ連合を作るとしたら、その大統領としてはマサリクがなるべきだ」と主張したと言われている。

このころのチェコは精神も文化も輝いていた。そして、ヨーロッパ屈指の工業国にもなった。その「作品」のひとつが、この先進的なタトラだったのである。しかし、この輝きも、わずか20年で、ヒットラー率いるドイツにチェコが占領されて、地獄の日々をむかえることになってしまった。

なお、タトラは、乗用車を作るのはやめてしまったが、現在でも大型トラックではヨーロッパを代表するメーカーのひとつである。

(1994年1月に、ニュージーランド・ウェリントン郊外のサウスウォード自動車博物館で撮った。南半球最大の収集を誇っている自動車博物館である。撮影機材は、Olympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5、コダクロームKL200)


2-1:敗戦国日本の「庶民のための車」その2・フライング・フェザー (1954年)

この車も、上のフジキャビンと同じく、富谷龍一氏の設計になる。ただし、作ったメーカーが違い、住江製作所(日産車のボディーを作る工場)だった。

タイヤは細く、ほとんどオートバイ(バイク)のタイヤである。スポークもまるで自転車のようだ。これは、重量物運搬用のリヤカー(自転車や人力で牽引する二輪の荷物車)のタイヤをそのまま流用したものだった。

名前のように、出来るかぎりの軽量化を図った車だ。屋根は布地(キャンバス)だし、バンパーは、まるで自転車のフェンダーなみの薄い金属である。2シーター(2座席)である。

しかし、こちらはエンジンは350cc、12.5馬力で、V型空冷2気筒のOHVエンジンだった。ヘッドライトは2つ、タイヤは4つあり、車体の長さは277cm、幅は130cm、車体重量は425kgあった。

上のフジキャビンと同じく、この車も時代よりは早く世に出すぎた。1954年に発表され、生産されたのは1955年の1年だけで、生産台数は、200台にも達しなかった(一説には48台というものもある)。 当時の価格は38万円だったが、庶民に手が出る値段ではなかった。

(2005年に、愛知県愛知郡長久手町のトヨタ自動車博物館で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは39mm相当、F2.8, 1/15s)

なんとも不器量なハンドルと、その軸(ステアリングポスト)の上に、これほど実用一点張りのスイッチはない、というほど簡素なホーンボタンが付いている。

ライトのスイッチはダッシュボードの右端に見える。ハンドルの右隣に駐車ブレーキのレバーがある。つまり、自動車に必要なものは、簡素だが、すべて揃っていたのである。

メーターは左が速度計、右は電流計である。速度計は100km/hまで刻まれているが、まさか、そこまでの速度は出なかっただろう。

電流計は、電池の充電状態を監視するためで、当時の電装品や電池の品質からいえば、運転者がいちばん気にしなければならなかった計器である。

じつは、このハンドルは、フランスの戦後の名車、シトロエン2CVのプロトタイプのハンドルと瓜二つである。偶然の一致なのか、欧州の小型車を研究していた富谷氏が、独創性を発揮できなかったのか、いまとなっては分からない。

(2005年にトヨタ自動車博物館で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは36mm相当、F2.8, 1/50s)


3-1:敗戦国日本の「庶民のための車」その3・コニー・グッピー (1961年)

これは、上の二つの車よりはあと、1960年代の車だ。1962年にはモノコックボディーでフラッシュサーフェスのブルーバードP312型が日産自動車から出ていた(1959年から発売されたP311型を改良したもの)が出たから、日本の自動車の技術が、あちこちで芽を出したころの車の一つである。

この車は、愛知機械工業が作った。下にあるスバル(富士重工)と同じく、戦時中は飛行機を製造していた工場が母体になった会社だ。

そのせいか、 この車は、当時としては先進的な4輪独立サスペンションや、トルクコンバーターを導入したクラッチペダルのない2ペダル方式など、新しい技術を使っていた。

会社は三輪車のトラックで業績を伸ばし、1959年には軽自動車の3輪トラックに進出した。業界で初めて丸ハンドル(下の4-1を参照)を採用した軽自動車{ジャイアント・コニー」だった。そのエンジンは当時の軽自動車の枠、360ccだった。

その後、1961年になって、軽自動車の枠よりも小さな、つまりなるべく安く、軽くした軽トラックがこのコニー・グッピーだった。当時流行っていた二輪のスクーターからの乗換需要を期待したものだった。


コニー・グッピーは軽トラックとしては初めてのピックアップトラックだった。そもそもは積載量100kgの小型のトラックとして作られたものだが、この写真のものだけは、屋根を切って、2シーターのオープンカーに改造されている。

エンジンは2サイクルの空冷単気筒。199ccで11馬力。当時のブルーバードは1200ccで55馬力だったから、ずっと非力だった。しかし、22万5千円という、ブルーバードの半額以下という低価格を売り物に、約5000台を売った。しかし、庶民に手が届く価格ではなかった。わずか1年あまりで生産は中止されてしまった。

車の全長は263cm、幅は126cm、重さは275kgであった。 上のフライングフェザーとほぼ同じ大きさだが、ずっと軽かったことになる。

小型車には小型車のデザインがあるはずで、フジキャビンと同じく、この車のデザインにも志が感じられる。

(2005年に、愛知県愛知郡長久手町のトヨタ自動車博物館で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは49mm相当、F2.8, 1/15s)

4-1:敗戦国日本の「庶民のための車」その4・ダイハツ・ミゼットMP5貨物車(1963年型)

焦土から日本が立ち上がったのを支えたのは、じつは乗用車ではなくて、物流を担ったトラックであった。それも、小企業や商店の荷物輸送のためには、小型で安いトラックが活躍した。

これは大阪のメーカー、ダイハツが作った初代のダイハツ・ミゼットである。前1輪の3輪車で、四角くて大きな荷台をとり、しかも安価にするために前を1輪にしたデザインだ。

そのうえ、添乗や荷扱いのために、助手を乗せなければならない。
そのために、かなり無理をして、丸ハンドルを導入し、二人乗りとしている。また、当時で言う「全天候キャビン」も採用した。運転席の横側が吹きさらしで、雨が降り込むようなそれまでのキャビンと違って、ドアもガラスもある運転席だったからである。

それまでは、このミゼットの旧型(1957年に発売されていたDK型)を含めて、バイクのようなバーハンドルの一人乗りの3輪トラックばかりだったのが、この最終型のミゼットは、それなりの「高級感」をアピールするのに成功して、ベストセラーになった。

写真のMP型は1959年10月に発売された。ハンドルはDK型のバーハンドルから丸ハンドルになった。車体寸法は全長2970mm、全幅1295mm、全高1455mmだった。

エンジンは最初は250ccの単気筒、2サイクルエンジンだった。その後、軽自動車の枠一杯の360ccになった。たくさん売れて、みんなの役に立ったという意味では、これこそ日本の国民車であった。

もちろん、急ハンドルを切ると転覆するという3輪車として避けられない欠点もあった。しかし、そんなぜいたくは言っていられない時代だったのである。

(2005年に、愛知県愛知郡長久手町のトヨタ自動車博物館で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは41mm相当、F2.8, 1/25s)

4-2:小型三輪車が、1990年代にまだ輝いていました。中国の「庶民のための車」

上のダイハツ・ミゼットのように、焦土から日本が立ち上がったのを支えたのは、じつは乗用車ではなくて、三輪車だった。このミゼットなど、小型の三輪車が活躍したのは1960年代だった。1972年には、軽4輪のダイハツ・ハイゼットに席を譲って、ダイハツ最後の三輪車としての生産を終えた。

しかし、中国では1990年代に入ってからも、写真のような小型三輪車が、底辺の物流を支えていた。持ち主にとっては、かけがえのない宝だから、ぴかぴかに磨き上げられていて、翼のついたヘッドマークも、誇らしげだ。ヨーロッパの小型の三輪車が、「下駄」のような実用車だったのと、大事にされ方がちがっているのである。

(1991年に、中国・北京市内で。撮影機材はOlympus OM4Ti。レンズは Tamron Zoom 28-70mm F3.5-3.5。フィルムはコダクロームKR)

5-1:日本の「庶民のための車」その5・日本としては名車だったスバル360

上の車たちが庶民には高価すぎたことと、車としては未熟で、ほとんど実用には耐えなかったのと違って、戦後の日本で初めて作られた実用車が、このスバル360だった。最初のモデル(K111型)は1958年に出た。戦時中の飛行機メーカーだった富士重工が作った。飛行機屋らしい設計があちこちに見てとれる軽量で高性能の車だった。

一見、ドイツの国民車フォルクスワーゲン・ビートル(カブトムシ)に似ている。空冷のエンジンを車体後部に置き、後輪を駆動するRR方式であることも同じだ。 これらが似ていることは日本人の独創性の限界かもしれない。

しかし、それまでの日本車と比べれば、段違いによくできた車であった。卵形のモノコックボディは軽くて丈夫なうえ、大人4人がそれほど窮屈ではなく座れるという、外寸サイズの割には居住性も高かった。これは、エンジンの配置や、サスペンションの形式や配置を巧みに工夫した設計の妙であった。天井とリアウィンドウは、軽くするためにプラスチックである。
車体重量は、わずか385kgであった。

なお、外寸サイズは、当時の軽自動車の枠いっぱいの長さ3メートル、幅1.3メートルであった。

この軽量化のおかげで、当時の軽自動車の枠であった360ccのエンジンでも、当時のレベルとしては十分に走らせることができた。エンジンは空冷2気筒、これは珍しくはなかったが、エンジンがアルミ製だったのは当時としては珍しかった。エンジンの出力は16馬力/4600rpm、公称最高速度は83km/hであった。 この後数年にわたって、このスバル360をしのぐ性能や居住性を持つ車は出なかった。

メーターはスピードメーターひとつだけ。シートも金属パイプの枠に布を張っただけ。燃料計もなかった。ボンネットの上部、前面ガラスの前にある四角い蓋は、暑い日に開けると風を取り込む仕掛けである。燃料計も警告ランプもない代わりに、18リットル入りのガソリンがなくなってエンジンがストップすると、車を降りてエンジンフードを開け、燃料コックを「通常」から「予備」に切り替えることによって、ガソリンの予備タンクにある残りの2リットルを使って走る、という単純な仕掛けであった。

なお、実際には、エンジンが2サイクルだったから、「混合油」と言われたガソリンとエンジンオイルをあらかじめ混合した燃料だった。この2サイクルエンジンはエンジンの容積や重量のわりに出力やトルクが大きかったので、他メーカーにも広く使われたが、エンジンの構造上、吸気側の混合気の一部が排気側に吹き抜けてしまうので、その後の排気ガス規制をクリアーできず、姿を消している。

私が初めてこの車に接したのは、私が大学院生のころ、指導教官だった浅田敏氏が持っていたスバル360に乗ったときだった。燃費がいい車だったから、予備の2リットルになってからも結構な距離を走るので、浅田氏は、燃料補給を忘れたままストップしてしまうことがよくあった。「出足では、隣に並んだタクシーには絶対に負けない」というのが浅田氏の自慢であった。結構なスピード狂というべきだろう。ミニカーに乗った白髪の老紳士が、アクセルペダルを床まで踏みつけて、エンジンの音が変わるまで(*)回転を上げて全力加速をしているのを見て、タクシーの運転手は、さぞ驚いたことだろう。


*)2サイクルのエンジンだったから、回転を上げすぎても4サイクルエンジンのようにカムシャフトやバルブまわりから苦しそうな音が出る(バルブのサージングとかバウンシングと言われる現象)ことはなかったが、「回転数を限度まで上げると、突然、力が抜けてしまうのだよ」と浅田敏先生は話しておられた。

なお、このバルブ(吸入バルブと排気バルブの2種がある)のバウンシングを防いで、エンジンの許容回転数を上げる簡単な手法は、バルブを押さえているバルブスプリングを強いものに取り替えることだ。私も、昔乗っていたコンテッサ1300(これも名車だった。日野自動車が渾身の力を傾けて作ったが、トラックメーカーの哀しさで、乗用車の売り上げは伸びなかった)のシリンダーヘッドを自分で外して、バルブスプリングを取り替えたり、吸入する空気の抵抗を少なくするために、吸入ポートを磨いたりしたものだ。

この頃の車は構造が単純だったし、当時の車の通例として、よく故障もしたので、私たちも、地球物理学教室の前庭で、よくこの先生のスバル360を分解して、部品をまわりいっぱいに拡げて故障部分を修理したものだった。 また、私たちがいた地球物理学教室を車で訪れた東京大学地震研究所の萩原尊礼所長の自家用車(英国のモーリスだった)のエンジンがかからなくなったので、みんなで車を押してエンジンをかけるようなことも、よくあることだった。

(2005年6月。東京清瀬市の加藤自動車で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは36mm相当、F2.8, 1/125s。高く突き立ったボンネットミラー、自転車にぶつかってもへこみそうな細いクロームメッキのバンパー、薄くてちゃちなフォグランプなど、この車はオリジナルの状態をよく保っている。しかし、自走できなくなってしまったのか、牽引されるためのヒモが結びつけられているのには、なんとも哀れを誘う。)

6-1:名車スバル360の改良を試みて無惨にも失敗したスバルR2

スバル360は、はじめは必要最小限のメーターやアクセサリーしか着いていなかった。ドアの内張りもなく、ドアの内側には下部にポケット状のプラスチック板があるだけだった。このため、このドアポケットには、厚さにして20cm以上の巨大なものが入れられた。

しかし、年とともに、スバル360も「豪華」になっていった。燃料メーターや、ドアの内張りも着き、ヘッドライト周りにも瞼(まぶた)状の飾りが付けられ(上の5-1は、この瞼が着けられた後期モデルである)、豪華さを求める大衆に媚びる「改良」が続けられた。

もちろん、それとともに、車重は増え、軽飛行機を操縦しているような運転者との一体感が失われていったことも確かなことだった。

それには、スバル360を追撃してきていた軽自動車のマツダ・キャロルや小型自動車の日産ブルーバード(1960年のP311型や1962年のP312型)やトヨタ・パブリカなど、「小さくても豪華な」車の影響が大きかった。小さな車には最大限の実用性を求めて見かけの「豪華さ」を求めない欧州の大衆と比べて、日本の大衆は成熟していなかったのである。

そして、スバルは営業分野に押されたのか、初心を忘れた。スバル360をやめて、1969年に、二代目であるこのスバルR2に切り替えたのであった。 RR方式や、エンジン、車体の大きさはそのままであった。

しかし、なんという変哲のない車になってしまったのであろう。当時の流行であったフラッシュ・サーフェスや、広くて四角いボンネットを無定見に取り入れただけで、緊張感のないデザインに堕してしまった。

(写真のR2は、砲弾型のボンネットミラーや両側のチンスポイラーなど、発売当時のオリジナルにはなかったものを着けている)

スバル360の「本家」であるドイツ・フォルクスワーゲン社が、ビートルから初代ゴルフへ、見事な転身を遂げたのとは対照的だった。初代ゴルフは、RR方式からFF方式(エンジンを車体前部に置き、前輪を駆動する)に転換し、極めてすぐれた居住性と一流の操縦性を得たのと比べると、このR2は、単に表の皮を着せ替えただけのようにしか見えない。(しかし、肥大化して質実剛健さをなくしていったその後のゴルフの変遷は、私には、やはり堕落に見える)。

じつは、このR2は、出初めこそよかったものの、その後、販売は急落した。初代のスバル360が12年も続いたのに、このR2は、わずか3年足らずで、次のモデルを出さざるを得なかったのであった。

スバルが再び名車と言われる車を出したのは、のちのスバル1000(やエンジンを強化したスバル1300)になってからである。

(2005年6月。東京都清瀬市の志木街道で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは53mm相当、F2.8, 1/125s)

じつは、このスバルR2には「偉大な」先輩がいる。右の写真にあるイタリアのフィアット500 (Fiat 500)である。 1957年に発売され、1975年に生産中止になるまでに世界中で340万台も売れた、大変なベストセラーだった。

この時代に、ヨーロッパの他の国でも、質素だが必要十分な性能を持つ、すぐれた車が作られていた。フランスではシトロエン2CVが累計で500万台を売ったし、フランスの対抗馬、ルノー4CV(1-2。ルノーR4)も30年間も作られ続けて850万台を売った。また、英国のオースチン・ミニは、もっぱら日本市場のために、2000年まで製造されていた。

このフィアット500も、RR方式だった。車体の長さは3メートル、幅は1.3メートルで、当時の日本の軽自動車とほとんど同じだった。エンジンは 空冷直列2気筒OHVで、479ccだったが、後年は 499ccに拡大され、18馬力を生んだ。

日本やドイツと同じく、第二次大戦の敗戦国だったイタリアで、庶民のための、最小限度だが、しかし設計の妙で、十分な性能や居住性を持った車として作られた名車だった。可愛らしい顔つきと相まって、いまだに日本にもファンクラブがいくつもあるほどだ。

しかし、フィアットFiatも、その後経営危機にさらされ、欧州各メーカーの生き残り競争の中で、売らんかな主義に堕落した。2007年5月に発売した「新型500」は、50年前に発売した「旧」500の外形だけを、しかも、みっともなくなぞっただけの、不格好な車として登場することになった。

事情はオースチン・ミニも同じだ。英国ローバー社の破綻とともにドイツBMWに買い取られたミニは、その後、外形だけノスタルジー、中身はBMWの安物セダンという新型ミニになった。

しかし、初代ミニを作った優れた設計者、アレック・イシゴニスの旧ミニとは違って、まず外形ありき、の消費者に媚びるデザインに堕した。内容の必然がないデザインは不毛である。新型フィアット500とともに、見かけの一見可愛らしさにすがろうとするのは、かつての日産Be-1やパオやフィガロと同じく、すぐ飽きられる。伝統ある欧州の自動車メーカーがすべきことではあるまい。

また新型ミニは、ストロークの少ないサスペンションの欠点を補うために、固いバネを入れたために、乗り心地は極端に悪くなってしまった。

1958年にスバル360を生み、その後、1969年にスバルR2を売り出すまでのスバル(富士重工)の開発陣が、この「旧」フィアット500を知らなかったわけがない。当時の日本の他のメーカーと同じように、参考になりそうな外国の車を輸入して(*)、徹底的に分解して研究していたにちがいない。もっとも、これは当時の日本ではよくあること、たとえば、ニコンのようなカメラメーカーでも同じであった。

(*当時の通産省が輸入して、国産車奨励のためにメーカーに提供したことも多かった。また、ノックダウンという、部品を欧州から輸入して、日本で自動車を組み立てる生産方式を奨励して、いすゞ、日産、日野が、それぞれ英国のヒルマン、同じく英国のオースチン、フランスのルノーを「国産化」していた時代でもあった)。

しかし、フィアット500の発売から14年も経って出したスバルR2が、フィアットを超えられないどころか、後追い、いや、正直に言えば、かなりの物真似にしかならなかったことは哀しい。

(2004年10月。ドイツ・ブレーメンハーフェン市内で。ボンネットを止めているゴムのストラップはおしゃれのためで、オリジナルではない。なお、このボンネットを開けてもエンジンが入っているわけではない。スペアタイアや、前席に座っている人の足が入るスペースが必要なために、リアエンジン車のトランクは、がっかりするほど小さいことが多い。たとえば、初期のポルシェは、歯ブラシしか入れられない、と言われていた。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは92mm相当、F2.8, 1/80s)

6-2:ベストセラー、初代マツダキャロルも、やはり真似でした。

スバル360を追う他のメーカーのうち、マツダは「豪華さ」を売り物にした。軽量で質素、運動性能がいい戦闘機のようなスバル360に正面戦争を挑んでも、勝てないことがわかっていたことを踏まえての、いかにも日本人好みの
戦術であった。それがマツダ・キャロル Carol (初代、KPDA型)だった。

まず、デザインは、当時のマツダが好評を博していたマツダ・R360クーペ(大人二人と子供二人の4人乗り)のデザインの流れを汲む、可愛くて洒落たデザインだった。また、上下を別の色で塗り分けるツートーンカラーも豪華さを演出した。

このほか、トラックや三輪のトラックや乗用車も含めて、当時のマツダのデザインは品がよく、日本人好みのデザインで売っていた。

そして ドアは4つ。これで後部座席への出入りは格段に楽になった。軽自動車としては初めてだった。1962年にはじめてキャロルが発売されたときは2ドアだけだったが、その後すぐの翌年から4ドアモデルが発売された。

そして、全長3メートルという軽自動車の制約の中で、後部座席を少しでも広くするために、右下の写真のように、後部窓ガラスを「後ろ上がり」の、普通とは逆の傾斜にした。これで、普通の後ろ下がりの傾斜の後部窓ガラスのスバル360にくらべて、いくぶん広くなったように見える。車体の幅は、当時の軽自動車の枠一杯の1.3メートルだった。

マツダはこの後部窓をクリフカットと称した。クリフは断崖絶壁という意味だ。しかし、この逆傾斜の後部窓ガラスは、じつは、左下の英国フォード・アングリアの明確なパクリであった。真似をできるものは臆面もなく真似をする、のが、いまに至るまでの日本の工業の常套手段だ。


ずっと後年、21世紀になってからも、フランスのプジョー Peugeot 307が、天井いっぱいのガラス天窓を備えた車を出してヒットしたら、たちまち、ホンダ・エアーウェイブやトヨタが真似をし、2008年初夏になると、かつては独創性を売り物にしていたスバルまでが、エクシーガ Exiga で追随した。

かつては、遅れた工業国が、先進工業国に追いつくための苦しまぎれの手段だったという弁解はあろう。しかし、それがいまだに続いているのは哀しい。

さて、そのせっかくの真似も、じつは、それほど後部差席を広くはしてくれなかった。右の写真を見て想像してもらえばわかるように、無理をして逆傾斜のガラスを置かなくても、ハッチバック(2ボックス)のほうが、むしろ車室を広くとれるからである。

スバル360でさえ、後部座席はキャロルにくらべて狭くはなく、しかも後部座席の後ろ、つまりエンジンの上に、結構深い荷物入れがあったほどである。

そのほか、マツダキャロルは、当時の軽自動車としてははじめての4気筒エンジンだった。容積は軽自動車の枠一杯だった360cc。スバル360は2気筒2サイクルのアルミニウムのシリンダーを持つエンジンだったが、マツダは水冷、4サイクルのアルミエンジンで、コストがかかっていた。しかし、スバルのエンジンにくらべて、いくぶん静かではあったものの、非力であった。

なお、両車とも、エンジンは車体後部にあって後輪を駆動する、RR(リアエンジン、リアドライブ)だった。これは当時としては、車体のわりに車室を広くとれるデザインだった。その後、小型車では世界を席巻したFF(フロントエンジン、フロントドライブ)は、必須の部品である等速ジョイントに信頼性があってコストの安いものがなく、実用にはなっていなかったのである。

この、ややごてごてした、しかし一見可愛いキャロルは、ベストセラーになり、スバル360を蹴落とした。どんな小さい車にも豪華さを求める日本人の好みを熟知していたマツダの勝利であった。そして、悪あがきした富士重工が作ったのがスバルR2だったが、これはさんざんの失敗作に終わった。

左が、マツダキャロルの「先生」だった、英国フォードの大衆車、フォード・アングリア 105E。一見似ていないようだが、この車の後部窓ガラスは、キャロルと同じように、というよりキャロルが真似したとおり、逆の傾斜になっている。

当時は、雨が当たらないので後方視界がいいともいわれた。なお、アングリアとは、英国のラテン語名である。

なお、アングリアは1939-1967の間に4世代の車が作られた。この105Eは1959-1967に作られたアングリアの最終モデルだ。

後部窓の逆傾斜だけでもみっともないのに、この車の目であるヘッドライトは、まるで蛙の目だ。横に引き伸ばされたラジエーターグリルも、しまりがない口を思わせる。

たぶん、このデザインは、1940年代後半の米国のスチュードベーカーを真似したかったのであろう。米国車としては珍しく、ごてごてした飾りが少なく、伸びやかなデザインだったスチュードベーカーをモデルにしたのにちがいない。

スチュードベーカーは第二次大戦直後の1947年に レイモンド・ローウィ(Raymond Loewy 1893-1986)のデザインになる新型モデルを発表して売り上げを伸ばした。 ローウィは工業デザイナーの草分けで、日本の煙草「ピース」もデザインした。当時、日本人の常識から言えば高額なデザイン料が話題になったものだ。

このローウィのスチュードベーカーは「どちらに向かって走っているのかわからない」などと評判がたつほど斬新で、世界的にもすぐれたデザインだった。彼は次のフルモデルチェンジに当たる1953年モデルもデザインしたが、その後、関係を絶った。それとともに、
ビッグスリーの新車開発と値下げ競争によってスチュードベーカーはジリ貧の一途をたどることになる。

ところで、スチュードベーカーのデザインは、米国のフルサイズの大型乗用車にあって、はじめて映えるデザインだった。それを、このアングリアのような小型車に応用することは、所詮、無理だったのである。小型車には小型車のデザインがあり、それを無視した英国フォードのこのデザインには、本来持つべき、伸びやかさが感じられなくなってしまっている。

なお、このアングリア105Eのエンジンは 997 cc、4サイクル直列4気筒。ホイールベースは2311 mm、全長は3912 mm、全幅は1473 mm、全高は1448 mm、重さは737 kgだった。日本でいえば5ナンバーの小型車である。

しかし、人間とはおろかなものだ。車はもちろん、鳩までも競争の道具にしてしまう。このアングリアも、非力なエンジンながら、スチュードベーカー「譲り」の空力に助けられて、7日7晩走り続けて時速134kmという(1000cc以下のエンジンのクラスでの)世界記録を1962年に、フランス・パリ南郊にあるMontlheryサーキットでうち立てた。車の歴史も、ある意味ではおろかな、競争の歴史であった。

(上の写真は2005年6月。東京都清瀬市の加藤自動車で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは53mm相当、F2.8, 1/125s、中の写真は2005年にトヨタ自動車博物館で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは36mm相当、F2.8, 1/5s。下の写真は1995年夏、英国ロンドンの北郊カムデンロックのフリーマーケットで。撮影機材はOlympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm F3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR。ASA64)


7-1:貧しかった時代を支えたボンネットバス(いすゞBX341、1950年代)

焦土から日本が立ち上がったのを支えたの乗り物には、バスもあった。自家用車などは夢の夢だった時代に、人々の輸送をもっぱら担ったのは、このようなバスだった。

当時の日本には4つのバスのメーカーがあり、 なかでも日野自動車のバスは、もっとも鼻が高くて高貴な顔をしていたが、いすゞのバスのほうが売れていた。また、最後までボンネットバスを作っていたのもいすゞで、最終型は1970年まで作られていた。しかし、1962年からは、いすゞバス(とトラック、BXDシリーズ)は、アメリカナイズされた、なんとも品のない顔つきになってしまった。

この種のボンネットバス(車体の前部にエンジンがあり、それをボンネットでカバーしているバス)は、車体の長さの割に客を乗せる客室の長さが短くなってしまう。その後のバスがリアエンジン(エンジンが車体後部にある)やアンダーフロア(車体の下部にエンジンを詰め込んである)に変わっていったのは、そういった理由であった。

当時の日本の道のほとんどは、舗装していなかった。土ホコリを舞いあげながら走る車のエンジンにとっては、エンジンの燃焼用にエンジンのシリンダーに取り込む空気にホコリが混じるのは大問題だった。土ホコリは、つまり、細かい岩でもある。エンジンの内部をすり減らしてしまう。

もちろん、その防止のために、エアクリーナーという、空気中のホコリを取り除く濾紙(
や、あるいは油の中を空気を潜らせるオイル・バスという方式の装置)がついていたが、エンジンが一回転するごとに6リットルも空気を吸い込むものだから、ホコリが多いと、すぐに目詰まりしてしまう問題が大きかった。

ところで、このいすゞのバスは全長8.3メートル、幅は2.4メートル、車体重量は5.5トンである。エンジンはディーゼル。途方もなく長いボンネットミラーを付けている。これは運輸省の「ご指導」で、現在のような、あるいは下のメルセデスのようなバックミラーが許されていなかったせいである。

ボンネットの中央前端にあるのは、ラジエターキャップだ。当時の車にとっては、オーバーヒートは日常茶飯事であり、エンジンの冷却をつかさどるラジエターの水の管理は、運転者にとって、もっとも必要で緊急度の高いものだった。エンジンフードを開けなくても、ラジエターキャップだけは、しょっちゅう開け閉めして、中の状態を見たり、水を補給したりしなければならなかったのである。

ところで、バンパー中央にある小さな穴は、セルモーターでエンジンがかからなかった場合、クランク棒を差し込んでエンジンをまわして、エンジンをかけるための穴である。 小さなエンジンならともかく、バスの大きなエンジンを手でまわすのは、大変な重労働だったにちがいない。かつて私が乗っていた1962年型の日産ブルーバードP312型や1966年型日野コンテッサ1300にも、セルモーターではエンジンがかからないときのために、このクランク穴が常備されていた。

エンジンがかかったとたんに、うまくクランクを外さないと、クランクで二の腕の骨を折ることがある。日本でも外科医の間では、運転手特有のこの骨折の患者が多くて、有名になっていた。

このバスは福山駅から鞆の浦へ行く定期観光バスに使われている。その他、レトロブームとやらで日本各地で古いボンネットバスが観光用に走っているが、そのほとんどはこれよりも後期の、つまり顔つきに品がなくなった時代のいすゞのBXD型のバスだ。

7-2:貧しかった時代を支えた全輪駆動のボンネットバス(いすゞTSD40、1950年代)

もっと悪い道のためには、写真に見られる全輪駆動のバスもあった。これもいすゞで、トラックにも同じ顔つきをしたものがあった。上のBX系のバスに比べて、いかつい顔つきをしている。

じつはこの顔つきは、戦後、日本にたくさん入ってきた米軍の軍用トラックの顔に似ている。カーキ色に塗られた米軍の車輌は、占領下の日本を我が物顔に走り回っていた。

このバスは悪路や不整地用に、最低地上高が高く、腰高である。また、小回りを利かせるために、驚くほどホイールベース(前後車軸間の距離)が短い。ほとんど大型乗用車なみのホイールベースである。

このバスは高知駅から桂浜や五台山へ行く季節定期観光バスに使われている。土佐電鉄の系列会社が運航している。リーフ板バネだけのサスペンションで、ショックアブソーバーもないらしく、ホイールベースが短いことと相まって、恐ろしく乗り心地が悪い。

前のフェンダーの上に付いているオレンジ色の方向指示器は、当時にはなく、後付である。当時の方向指示器は腕木式で、運転台の三角窓の横についていて、今でも作動している。

いすゞのこれらのボンネットバスが1970年代まで製造されていたのは、当時、日本中にあった舗装していなかった道を走るためにすぐれていたからだ。

リアエンジンバスは、どうしてもエンジンの近くから空気を取り入れるために、自分で舞いあげた土ホコリを吸い込んでしまう。つまり、日本の道が十分舗装されるまで、リアエンジンバスは出番がなかったのである。

もちろん、その防止のために、エアクリーナーという、空気中のホコリを取り除く濾紙(
や、あるいは油の中を空気を潜らせるオイル・バスという方式の装置)がついていたが、エンジンが一回転するごとに6リットルも空気を吸い込むものだから、ホコリが多いと、すぐに目詰まりしてしまう問題が大きかった。

じつは、このために、旧ソ連のリアエンジンバスは、空気を天井から取り入れるという苦肉の策をとったものもあった。日本でも試験的に作った「飛鳥」という飛行機が、滑走中の土煙やゴミをなるべく吸い込まないために主翼の上にエンジンを置いた不格好な形だったことがあるが、このソ連のバスもそれに匹敵する。

なお、「飛鳥」は当時の運輸省主導型の低騒音STOL(短距離離着陸)実験機だったが、1985年に初飛行して以来、わずか数年で計画が打ちきりになった。

じつは、この「飛鳥」には先輩がいる。
。1977年に初飛行した旧ソ連のアントノフ72とアントノフ74や、もっと前には1971年にドイツで作られたVFW614という双発ジェット旅客機だ(右)。

ヨーロッパでも舗装されていない滑走路が多かった当時としては、やむをえない設計だった。アントノフや飛鳥は上翼式で、その主翼にエンジンが「載っている」形だったが、このCFW614は、低翼式の主翼の上にエンジンを突っ立てる、というドイツ人らしい極端さで突っ走る設計だった。
エンジンを支えるパイロンも頑丈で重いものにしなければならず、それ以上に不格好であった

外を見たい乗客にも、なんとも迷惑なエンジンだった(左下の写真)。エンジンしか見えない窓に座った客は、うるさいし、なんとも不愉快な経験をしたにちがいない。また、非常の時にも、他の飛行機と違って、機内から主翼の上に逃げ出しにくい欠点もあった。しかし、背に腹は替えられなかったのである。

なお、このVFW614は40-44人乗り。幅は22メートル、長さは21メートル。巡航速度は700km/h、航続距離1200km、最大離陸重量は20トンという中短距離旅客機だった。


(いすゞBXのバスは2004年に、広島県福山駅前で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは113mm相当、F3.7, 1/100s。いすゞTSDのバスは2005年に、高知駅前で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは70mm相当、F4.6, 1/500s。ドイツVFWのジェット機は2004年8月にドイツ・ブレーメン空港で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは36mm相当、F4.0, 1/400s。VFWのジェットエンジンは。レンズは230mm相当、F4.0, 1/320s)

7-3:同じく敗戦国だったドイツの戦後を支えたメルセデスの傑作(ボンネットトラックとボンネットバス。1950年代-)

日本と同じく、第二次大戦の焦土から立ち上がったドイツ(当時は西ドイツ)では、このメルセデス(ベンツ)のトラックが、復興を支えた。また、これと同じ顔をしたバスもあった。

上のいすゞや日野のバス(トラックも同じ顔をしていた)と比べて、 鼻が短いのが特徴だ。平べったい顔の日本人は(人間の顔に限らず)高い鼻に無条件に憧れ、他方、ドイツ人は鼻の長さは気にしなかったということだろうか。実際、西洋人には、鼻があまりに高すぎて、バランスを失っている顔も多い。

このトラックやバスはとても頑丈に出来た傑作だった。また、構造も簡素で、修理もしやすかった。このため、世界各国に多数輸出されて、その後永らく活躍した。

たとえば1990年頃のアルゼンチン・ブエノスアイレスの町を走り回る、ほとんどすべてのバスや大型トラックは、このメルセデスだった。古くなったディーゼルエンジン特有の黒煙をまき散らしながら、狭い町中を走り回っていた。

なお、このトラックのフロントウィンドウの庇(ひさし)とそれを支える棒、ボンネット横側の翼状の飾りは、オリジナルではなく、あとから飾りのために付けられたものだ。

製造から半世紀もたった今でも、数は減ったものの、南米各地や第三世界でこのメルセデスのトラックがたくさん走っている。

(2004年9月に、アルゼンチン・ブエノスアイレスのコロン劇場前で。コロン劇場は、アルゼンチンの黄金時代に作られた欧州にもないような豪華な劇場だ。とくに内部が豪華だ。落ちぶれてしまった現在のアルゼンチンにとっては古き良き時代の象徴になっている。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは138mm相当、F2.8, 1/125s)

7-4:そのメルセデス以前のトラック(アルゼンチンの裏町で)

その頑丈なメルセデスのトラックより前は、このような米国のトラックが各地で使われていた。

いまから見れば、上のメルセデスのトラックより、ずっと品がいいたたずまいをしている。エンジンの形を正直になぞったボンネット、機能をそのまま形にしたフェンダーとヘッドライト。エンジと黒の配色もいい。

じつは、日本でも、トヨタや日産で、この真似をした形の車が作られていた。知的所有権などまったく考えもしない「後進国」の自動車工業の黎明期だった。

いや、というよりは、戦争にやみくもに突入していった日本の軍需産業の要としての自動車産業にとっては、選べる唯一の道だったのだろう。

南米アルゼンチン・ブエノスアイレスの裏町にはわびしさが漂う。ほかの大都会の裏町もそれなりにわびしいものだが、ブエノスアイレスはほかのわびしさよりも深くて暗い。

それは、かつてアルゼンチンが黄金時代にあって、そのころに作られた欧州にもめったにないような豪華な町並みや大劇場が残っているまま、落ちぶれてしまったからだろう。

この写真は1990年の末に撮った。かつては美しかった欧州風の町並が続く石畳の裏通りに、すでに動かなくなった車が止まっている。向こう側のトラックは、いったい何年、いや何十年、ここに止まっているのだろう。1930年代に作られたトラックである。右後輪が外されて、代わりに木箱が支えになっている。

日本をはじめ、「先進」国では、リストアして復元する需要が多いから、まちがいなく高価で引き取られていくはずのこの車も、ここアルゼンチンでは、あまたのゴミのひとつにしかすぎないのである。

手前の1960年代の米国車も、ヘッドライトもフロントグリルも、片方のワイパーも、どこかの別の車に使われるために、持って行かれてしまったのだろう。

しかし、アルゼンチンの人々はこちらが驚くほど楽天的だ。それがせめてもの救いなのである。


(1990年12月に、アルゼンチン・ブエノスアイレスのうらさびれた裏町で。撮影機材はOlympus OM2N。レンズはコシナ28-70mm。フィルムはコダクロームKR)

7-5:上のいすゞ・BXボンネットバスの質素な運転台

このころの車の運転台は、どれも質素なものだった。今のバスと違って、計器やスイッチやパイロットランプが、なんとも簡素である。

当時の車は、トランスミッション(変速機)にシンクロメッシュがなく、ギヤの切り替えには、ダブルクラッチという特殊な操作を必要とした。いまではダブルクラッチができる人はごく少なくなってしまったが、私がいまだにマニュアルミッションの車に乗っているのは、ダブルクラッチを楽しむためでもある。

また、ハンドルは、もちろんパワーステアリングはなく、大変な腕力を必要とした。ハンドルの径が大きいのはだてではない。

エアコン?そんなものは、まったくない時代だった。フロントウィンドウの下端についているパンタグラフ型のものは、ウィンドウの上端にある蝶番(ヒンジ)を支点にして、下部を外側に押し出して開くための装置だ。

現代のWRCラリーカーが天井につけているのと同じように、ここから外の空気を車内に入れる、という単純明快な仕掛けである。運転席右前の三角窓も、外気を取り入れるためのもので、この方向(前開き)にしか開かない。

上の7-1の写真で見えるように、運転席の右足許(と対称側)には、やはり外気を取り入れるための開閉できる「蓋(ふた)」がついている。運転手の水虫予防には役立ったにちがいない。

その装置の左側に、左右対称についているのは、フロントウィンドウの曇り止め(デフロスター)のための暖気吹き出し口だ。今の車にも、もちろんついているが、このように機能そのままで装置の存在を単純明快に示しているわけではない。

(2004年に、広島県福山駅前で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは36mm相当、F2.8, 1/60s)


7-6:上のいすゞ・TSDボンネットバスの質素な運転台

このバスの運転台も質素なものだ。速度計が120km/hまで刻んであるのはご愛敬に違いない。当時の最高速度は、エンジンもタイヤも、せいぜい60-70km/sしかもたなかったに違いない。

この車には、(悪路や急坂用の)全輪駆動と(平坦路用の)後輪駆動を切り替えるための副変速機を操作するためのレバーが床から生えている。運転手のすねの左側に立っている2本のレバーである。しかし、復元に困難があったのか、このレバーは操作できないよう、今は、金具で固定されている。

このバスは前進4段のトランスミッションで、近年のバスのものよりずっと少なかった。非力なエンジンと4段しかないトランスミッションでこのバスを操るのは、なかなかの技量を必要とした。もちろん、坂道になれば、歩くような速さになってしまった。

上のBX系バスと違って、ハンドルの軸が立っている。 トラック的である。また、ワイパーモーターも直接露出している。美観よりも機能優先なのである。

なお、このバスは現在使われているバス用の洗車機が使えないので、手洗いで洗っているという。

(2005年に、高知市内で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは45mm相当、F2.8, 1/50s)


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