島村英紀が撮ったシリーズ 「不器量な乗り物たち」その6:戦前・戦中編

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「不器量な乗り物たち」その4:日本編はこちらへ
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1−1:第二次大戦前のフランスの、「美しさのために割り切った」車

世の中が第二次世界大戦へ突入していく直前は、ある意味では華やかな、爛熟した時代だった。あちこちできな臭い戦争の火種がくすぶっていたときも、現世を楽しみ、贅沢を楽しんでいた人々がいた。

これは1937年のプジョー402(Peugeot。フランス)。翌年
に始まったヨーロッパでの世界大戦の直前にデビューした、華やかな車だ。

大戦でフランスはドイツに攻め込まれて焦土になることなど、予想しないで作った車であろう。

流れるようなフロント・フェンダーのラインを大事にしたかったに違いない。 その上に乗る無粋で邪魔なヘッドライトを、熟慮のあげく、ラジエターグリルの中に追いやってしまった、見事な「割り切り」というべきであろう。

もちろん、ヘッドライトの間隔は広いほど、前方が立体的に見えるから、すぐれている。 しかし、すこしくらいの不便や見えにくさは、この美しいデザインの前では、なにほどのものであろうか。それがフランスらしい割り切りなのである。

エンジンは4気筒、シリンダー径83mm、ストローク92mmの1991cc。当時としては、最高級車には敵うべくもないが、比較的大型のエンジンだ。

なお、この車はプジョー社の所蔵である。

(1984年、フランス・パリのグラン・パレで開かれた「自動車の歴史100年展」で。撮影機材はOlympus OM2、レンズはTamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


1-2:フランスでなければ生まれなかった”退廃の”厚化粧、パナールの「ディナミク」

この色、この飾り立て。なんという趣味であろう。アール・デコの余韻が残っている本家・フランスでなければ生まれなかった車だ。

まず、形からいえば、ラジエターグリルの縦の桟は、鳥や虫が飛び込まないための意味は、それなりにあろう。中央部にクロームメッキの幅の広い桟を配し、そのまわりに、ずっと細かい桟を並べたのは、まあ、それなりのデザインではあろう。

この細かい縦の桟と、それがボンネットの上面にまで湾曲してかかっていることは、1934年に発売された米国・クライスラー社の画期的な流線型の車、エアフローに影響を与えたのではないだろうか。

なお、エアフローは商業的には売れずに失敗した。なお、トヨタが誇らしげにトヨタ博物館に飾っている国産第一号の乗用車、トヨタ AA(1936年)やAG(1943年)は、このエアフローの明確な真似である。

さて、このフランス車では、同じ桟をヘッドライトにもかぶせることから、この車の嫌味は始まる。不整地で石ころでも飛んでくる道を走る車ならいざ知らず、どう見ても、これはデザインのためのデザインにすぎない。

しかし、それでもまだ、飽き足りなかった。エンジンフード(ボンネット)に、機能的にはなんの意味もない、やはり桟仕立て風の翼をひとつつけ、それでも足りなくて、さらに二つ目を加えた。いや、もしかしたら、エンジンルームの熱気を抜くダクトかもしれない。しかし、もちろん、こんな形をしなければならない必然性は、これっぽっちもない。

そして、なお、フロントとリアのフェンダーアーチに、まるで巨大なナポレオン帽のような、飾りまで取り付けてしまった。車に乗り込むときに踏み台にするサイドステップも、デザイン偏重で、実用性がない、形だけのものにされてしまった。

これに色が輪をかけた。深緑と薄紫色。服なら、その日の気分で着替えることができる。しかし、この色の車に、平然と毎日乗る、というのはどういう神経なのであろう。

じつは、驚くなかれ、これもパナールなのである。絶対に他人と同じものを作らないというユニークな車作りをして1965年に消え去ったパナールが第二次世界大戦(欧州では1939年に始まっている)前に作った高級車の「ディナミク」である。

しかも、形だけがユニークなのではない、前席が3人掛けで、なんと運転席が中央にあるセンター・ステアリングなのである。ワイパーが三つあるのは、中央に座る運転者の視界を十分に確保するためであろう。

(1984年、フランス・パリのグラン・パレで開かれた「自動車の歴史100年展」で。撮影機材はOlympus OM2、レンズはTamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


1−3:第二次大戦中のフランスの質素な電気三輪車

1938年に始まったヨーロッパでの世界大戦は、ナチのドイツ軍が周辺の国々へ侵略を続けていた。フランスも例外ではなく、ドイツ軍の脅威にさらされ、結局はドイツ軍の手に落ちた。

その戦時中に、少しでもガソリンを節約しようとして、このプジョー、1941年型の三輪の電気自動車が作られた。形式名はVLV。二人乗り。1KWの電気モータを使い、30km/hで80kmだけは走ることが出来た。1941年から1945年まで377台が作られた。郵便配達にも使われていたという。

節電のためか、ヘッドライトはひとつしかない。

運転席前部ガラスの両端についているのは、腕木式の方向指示器である。ネクタイの形をした赤い標識が出てきて水平に上がるこの腕木式は、それ以前の、運転手が手を挙げる動作をそのまま機械化したものだ。当時としては普通の方向指示器だった。

現在のようなランプの点滅式になったのは、1950年代になってからである。

なお、この車はプジョー社の所蔵である。

(1984年、フランス・パリのグラン・パレで開かれた「自動車の歴史100年展」で。撮影機材はOlympus OM2 、レンズはTamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


1-4 :ガソリンがなかった第二次大戦中のフランスの「代用燃料」自動車、シトロエン11CV

しかし、翌1938年に始まったヨーロッパでの世界大戦は、フランスをたちまち窮地に陥れることになった。

その戦時中に、乏しいガソリンの代わりに、このシトロエン Citroen 11CV (type 11B)は、木炭を燃料に使う改造をしていた。

燃料といっても、木炭を直接、燃やすわけではない。木炭を不完全燃焼させて一酸化炭素を発生させ、それを、普通ならキャブレター(気化器)で気化したガソリンの代わりに使おう、というのである。

このため、車の背中には、木炭を「蒸す」ための大きな釜が取り付けられている。じつは、この木炭自動車は、日本でも、戦中、戦後に使われた仕掛けである。

木炭から出す一酸化炭素は、しかし、ガソリンに比べれば、なんとも非力なものだった。日本で使われた木炭バスは、坂が上れなくて、乗客が降りて、皆でバスを押し上げたという話があるほどだ。

このベースになった車はシトロエンの戦前の名車、トラクシォン・アバン 、天才設計者フラミニオ・ベルトーニが作り上げたシトロエン 11CV 、すぐれた前輪駆動車であった(左の写真)。

それまでの車に比べると、地を這うように低く、それでも内部は広く、天才でなければ作り得ないデザインだった。

これは、前輪駆動を採用したために後輪を駆動するためのプロペラシャフトがなくなって広い車内スペースが得られ、それと同時に、四輪独立懸架と低い重心のおかげでロードホールディングやハンドリング、そして乗り心地が、当時の車としては圧倒的にすぐれていたのであった。

このトラクシォン・アバン11CVは1934年に発売され、のちに英国やベルギーでも作られ、結局、革命的なシトロエンDS/ISにその席を譲ることになって、1957年までの長い間、作られた名車だった。総生産台数は76万台という、当時としては大記録だった。

エンジンも名エンジンで、シトロエンDS/ISの時代にも、つまりはじめからは30年間も作られ続けた1.9リットル、4気筒のOHVエンジンだった。

しかし、この名車が、なんと不格好な「荷物」を背中に背負うことになったのだろう。 しかも、性能はガソリンエンジンに敵うべくもなかった。

上の木炭車はフランスの個人蔵だ。

【2018年3月に追記】11CVは、1957年までの長い間、作られた。戦後になって、右や下の写真のような2人乗りのぜいたくなクーペまで作られた。エンジンの排気量は1.9リットル、4気筒のOHVエンジンで、標準の11CVと同じだ。

これは1953年に作られた車で、長らくフランス領インドシナとしてフランスの影響下にあったベトナムにあった個体を日本人が輸入したものだ。いまは、東京・台場のトヨタ・ヒストリー館でレストアされて、展示されている。

だが、シトロエンはあくまで実用車で、内部が広く、たくさんの人数と荷物を載せるべくデザインされていた11CVをぜいたくな車に仕立てるのは、所詮、無理があった。


11CVは前の窓が平面ガラスだったこともあり、無理矢理に飾ってクーペ仕立てにしたといっても、かなり不格好な車だ。後部座先を潰した後部も不当に長い。

(上の木炭車は1984年、フランス・パリのグラン・パレで開かれた「自動車の歴史100年展」で。撮影機材はOlympus OM2、レンズはTamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR。下の黒色のシトロエン11CVは、2005年に、トヨタ自動車博物館で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは52mm相当、F2.8, 1/4。一番下の肌色のクーペは2018年3月に、東京・台場のトヨタ・ヒストリー館で)


1−5:砂浜も駆け回れる旧ドイツの海難救急車

戦時中は、もちろん、戦争に直接使うための車も作られていた。これは、そのひとつ、第二次大戦中のドイツ赤十字が持っていた救急車だ。

後輪はクローラー(キャタピラー)がついているので、砂や不整地でも走れる。しかし、救急車というには速度が遅かったにちがいない。

車体の基本は不整地用の軍用トラックである。船舶の遭難を海岸部分で支援するために、必要な装備をドイツ人らしい合理性で積み上げていったら、このように背高のっぽの滑稽な形になってしまったのであろう。

車体の側面は、まるで移動販売車のように窓が開くようになっている。また、その窓には強固な蓋が付けられている。

(2004年10月、北ドイツ・ブレーマーハーフェンの船舶博物館で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは40mm相当、F2.8, 1/80s)


2-1:第二次大戦前のフランスの「格が違う」高級車

しかし、そのちょっと前には、フランスは、世界でも、もっとも高級な車を作っていた。たとえば1929年に作られたこのイスパノ・スィーザは、世界に冠たる高級車だった。

この威厳。この端正さ。この塗装とクロームメッキ。6リットルという、当時は図抜けて大きなエンジンを積んだこの車は、もちろん、誰にでも買ってもらう車ではなかった。

特別な階級の人に、少数だけ売る、という真の意味での高級車だったのである。若造がときとして乗っているようなセルシオやプレジデントとは、しょせん、格が違うのである。

私の恩師の一人である浅田敏氏の父君は外交官で、世界各地をまわられたが、その公用車が、このイスパノ・スィーザだった、と聞いたことがある。

(1984年、フランス・パリのグラン・パレで開かれた「自動車の歴史100年展」で。撮影機材はOlympus OM2、レンズはTamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロー ムKR)


2-2:ドイツの車の威厳とはちがう、古き良き時代のフランスの高級車

1935年製のVoisin。2-1にあるイスパノ・スィーザのような高級車である。6気筒、3リットルの大きくて贅沢なエンジンを持っている。

社会的な地位の威厳を示すための、この種の高級車は、ここフランスのほか、ドイツでもメルセデスなどのメーカーで作られていた。ヒットラーや側近たちが群衆の前に姿を現すとき、乗っている車の威厳は、大衆の心理操作の重要な小道具だったのであった。

あちこちに光るクロームメッキの装飾、サイドステップの豪華さ、ボンネット中央にあるラジエターキャップからフロントフェンダーまでの、機能的には無駄な飾りのバー。どれもが、軍人の正装の上着を飾る装飾品のように、誇らしげにちりばめられている。

しかし、このフランス車の「救い」は、ドイツ車の堅苦しい威厳とはひと味ちがう、優雅さの表現であった。キャビンから後ろの造形に、それが表れている。とくに後部座席から後部にかけては、初期のシトロエン2CVに似ていなくもない。

(1984年、フランス・パリのグラン・パレで開かれた「自動車の歴史100年展」で。撮影機材はOlympus OM2、レンズはTamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロー ムKR)


【2017年12月に追記】2-3:ドイツともフランスとも違うイタリアの匂いをまとった高級車ブガッティ

1909年、イタリア出身の自動車技術者、エットーレ・ブガッティがアルザス(当時ドイツ領、いまはフランス領)に設立した自動車メーカー、ブガッティは1940年代初頭まで、高性能スポーツカーやレースカーを作った。

写真は1937年に作られたブガッティ・タイプ57ヴェントー。いかにも当時の高級車然としている。

このほかブガッティの有名なモデルとしては、タイプ35、タイプ41ロワイヤル、タイプ57クーペ・アトランティーク、タイプ55などがある。

だが、ブガッティは創始者が亡くなり、その息子が事故死すると衰退の一歩をたどった。現在は飛行機のブレーキやホイールを細々と作っている会社になってしまった。

現在あるブガッティは別会社で、1987年、イタリア人の実業家がブガッティの商標を手に入れ、イタリアのモデナにブガッティ・アウトモビリ(Bugatti Automobili SpA )を設立。1991年にはEB110GTを発表。1993年にはEB112とよばれるセダン型も作っている。

(1994年1月に、ニュージーランド・ウェリントン郊外のサウスウォード自動車博物館で撮った。南半球最大の収集を誇っている自動車博物館である。撮影機材は、Olympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5、コダクロームKL200)


2-3:ドイツともフランスとも違う、米国はやはり大衆車でした

1934年に売り出されたクライスラー・エアフロー Airflow。画期的な流線型の車として衝撃を与えた。上の Voison のようにラジエターグリルが直立しているのが普通だった当時の車とは違って、ラジエターグリルを流線型にした、もっとも空気抵抗が小さくなるデザインだった。当時としては珍しく、風洞実験までしてデザインを練ったといわれている。

トヨタが誇らしげにトヨタ博物館に飾っている国産第一号の乗用車、トヨタ AA(1936年)やAG(1943年)は、このエアフローの明確な真似である。

【追記】 また、大ベストセラーになったフィアット500(愛称トポリーノ)も、これに倣ったものだ。

しかし、このエアフローはあまりに斬新すぎて、人々には受け入れられなかった。20年以上、早すぎたデザインだった。このため、商業的には、売れずに失敗した製品である。

しかし、このデザインには「先生」がいたのではないだろうか。もっと嫌味で、もっと装飾的だが、ラジエターグリルの上端がボンネットに這い登っているところは、よく似ている。あまりにも嫌味な厚化粧を、米国流の実用主義でリメークしたのがこの車では、というのが私の推理である。

この、エアフローをデザインしたのはフランス・パリで学んだ建築家だといわれている。それを考えると、なかなかもっともらしい説というべきではなかろうか。

(1994年1月に、ニュージーランド・ウェリントン郊外のサウスウォード自動車博物館で撮った。南半球最大の収集を誇っている自動車博物館である。撮影機材は、Olympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5、コダクロームKL200)

【2017年12月に追記】2-4:ジープで有名なウィリスは、こんな乗用車を作っていました

これは1937年に米国ウィリス社が作って売っていたウィリス・オーバーランド・セダン。ラジエターグリルに特徴があり、一目でウィリスの車だと分かる。

ボンネットを開けるためのレバーが前方に突き出してしているのはご愛嬌だ。このレバーにもウィリスと書いてある。なお、その下に開いている丸い穴は、エンジンをかけるためのクランク棒を入れるための穴だ。国産車にも、1960年代まで、この種のエンジンをかけるための穴が開いていた。

ワイパーは2連だが、その連動のメカニズムが露出しているのは素朴だが、いかにも無骨だ。フロントフェンダーやヘッドライトまわりの造形とそぐわない。フロントフェンダーやヘッドライトまわりは優雅だと思って作ったに違いないが、いま見ると、滑稽な形をしている。

このウィリス・オーバーランド・セダンはオーストラリアでも作られた。また米国では、前席だけの短縮版のクーペや、トラックもあった。

第二次世界大戦が始まり、ウィリス社は軍用のジープを大量に作る軍用メーカーになった。戦後はしばらく、ごく普通のセダンも作っていたが売れず、軍用ジープから派生した角張ったセダンやSUVに活路を見いだしている。

(1994年1月に、ニュージーランド・ウェリントン郊外のサウスウォード自動車博物館で撮った。南半球最大の収集を誇っている自動車博物館である。撮影機材は、Olympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5、コダクロームKL200)

【2019年8月に追記】2-5:米国に高級車はなかったわけではありません

これらは1920-1930年台に作られた米国の高級車。ただし、どれも台数はごく少なく、自動車としての出来も、それほどよくはなかった。

この切手には、当時の米国の高級車、Locomobile、Pierce-Arrow、Cord、Packard、Duesenbergが描かれている。

このうち、Cordは当時としては珍しく前輪駆動だったが、等速ジョイントがなかった時代ゆえに、転舵時にブレーキがかかったようになってしまう欠点を克服できなかった。また、当時の高級車のデザインに倣って、前輪駆動としてはあまりに前輪が前に出過ぎていたために、坂道を上るのに苦労するありさまだった。

Cordは1970年代に東京大学の11月の学園祭で工学部の前に展示してあったことがあるから、ごく少数は日本にも輸入されていたのだろう。

これらは欧州の高級車の真似以上のものではなかった。のちの「自動車王国」米国は、当時は欧州の後塵を拝していたのである。

(「United States Postal Servide」の「Mint Set of Commemorative Stamps 1988」から。撮影機材は、Olympus OM-D E-M1)


3-1:古き良き時代のフランスのレーサー。エンジンの化け物

1926年製のルノー Renault。エンジンのお化けのような車だ。人間が乗るスペースよりも、エンジンのスペースの方が、はるかに大きい。速度記録をうち立てるための特別車だったのである。

直列6気筒の巨大なエンジンで、最高215km/h、24時間平均で173.6km/hという当時としては大記録をうち立てた。いまにして思えば、このころの貧弱なブレーキと高速では危ないタイヤで、よくも、この速度を出す気になったものだ。

人間は、なんでも競争の道具にしてしまう。自分の身体で走ったり飛んだり、に飽きると、この車のような”道具”を使い、さらに、家畜、そしてついには鳩まで競争の道具に仕立ててしまった。飽くなき闘争本能は、まちがいなく、戦争の動機の一つでもある。

速いスピードを出すためには、空気の抵抗を少なくしなければならない。鼻先をちょっと流線型にし、ボンネットやボディーの凸凹をなくしてのっぺらぼうにすることで、精一杯のデザインをした。もちろん、30年後の空気抵抗の少ないデザインは、想像すべくもなかったに違いない。

しかし、顔の大きさよりも高さが低いフロントウィンドウ、すさまじかったに違いないエンジンの轟音と熱、激しい振動に耐えながら、24 時間も、この車のアクセルを床まで踏みつけたままにするのは、どんな栄光が待っていたにせよ、ほとんど拷問のようなものだったに違いない。人間とは、愚かなものなのである。

この車は ノルマンディー博物館の所蔵である。

(1984年、フランス・パリのグラン・パレで開かれた「自動車の歴史100年展」で。撮影機材はOlympus OM2、レンズはTamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロー ムKR)


3-2:空気抵抗を考えなかったフランスのレーサー。まるで戦車

上のルノーの一年先輩、1925年製の Chenard et Walcker。ただし、こちらは、ひたすら孤独に耐えて走り続ける速度記録車ではなく、多くの仲間と競ってレース場を走るレーサーである。

しかし、なんという不格好な姿なのであろう。空気抵抗などというものは考えなかったのだろうか。まるで、小型戦車のような、あるいは機動隊の戦闘車のような、ブルドッグのような姿だ。

エンジンは4気筒1.1リットルという小型のエンジンだった。ボア66mm、ストローク80mm。スーパーチャージャー付きで、172km/hを出したという。しかし、このエンジンで、もし空力的にもっとましな姿をしていれば、あと20-30km/hは楽に稼げただろう。

また、この短いホイールベース(前後車輪の軸距)のせいで、直進性も悪かったに違いない。高出力のエンジンだけを頼りに相手をねじり伏せる、という剛腕のレーサーだったのである。

この車はMans A.C.O.博物館の所蔵である。

(1984年、フランス・パリのグラン・パレで開かれた「自動車の歴史100年展」で。撮影機材はOlympus OM2、レンズはTamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロー ムKR)


3-3:1924年にも、すでに大衆車がありました。ドイツのハノマグ

自動車が、まだごく一部の人たちのものだった1920年代に、驚くべきことに、すでに大衆車があった。写真(左)のハノマグ(Hanomag) である。

エンジンは単気筒。499ccで、出力は10馬力。非力とはいえ、馬10頭分だから、当時の普通の乗り物だった馬車とは比べものにならない速度を誇ったに違いない。

ドアはなく、天井は幌だ。タイヤホイールは、まだ、馬車の車輪の面影を残している。

しかし、もうひとつ驚くべきは、そのデザインの先進性である。右に写っている1956年のグラース(Glas, ドイツ製)にも、ほとんど劣らない。つまり30年も時代よりは進んだデザインだったのである。

不可解なのはヘッドライトが3つあることだ。当時はすでに二つというのがほとんどだった。まだランプや電気回路の信頼性が低かったせいなのか、あるいは車体デザインだろうか。

じつはこの12年後に作られたチェコのタトラも、3つのヘッドライトをつけていた珍しい車だ。しかし、これは操行方向に照射の向きを変えるヘッドライトだった。

一方、貧しかった時代の日本車も、節約のためにヘッドライトが一つだけのものもあった。

なお、写真の二つの車の下に噛ませてあるのはジャッキ(通称「ウマ」)である。バネの懸架装置がへたって車体が傾かないよう、展示時に車体を支えているものだ。

(1989年8月に、ドイツ・ハンブルグ駅前にあった民間の自動車博物館で。なお、この博物館は、残念なことに、その後なくなってしまった。撮影機材はOlympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


3-4:その1924年には、日本でどんな自動車が作られていたのでしょう。オートモ号

写真は1924年から発売されて4年間で300台を売ったという「オートモ」号。もちろん自動車が、まだごく一部の特権階級の車だった時代のものだ。

じつはオートモ号は実物が残っていない。残っていたのはエンジン、図面といくつかの部品だけだった。これは東京・上野の科学博物館とトヨタ博物館が共同で1999年に復元したものだ。

車体の全長は3.03メートル(当時は尺貫法だったが、ちょうど10尺)、全幅は1.21メートル(ちょうど4尺)、車体重量は450kg(120貫)だった。車体の構造は木骨鋼板。

幌は後部座席の後ろにたたまれている。しかし、上のフランスの同時代の車に比べると、あまりにまっとうで、なんともデザイン不在の形と言わざるをえまい。

エンジン(左下の写真)は4気筒で空冷だった。排気量は943cc。 ボア(シリンダー径)59×ストローク(行程)86mm。OHVだ。2600rpmで12HPが出せたという。写真左側に空冷のためのファンがついている。空冷は当時は珍しかったが、欠点も多く、のちに水冷エンジンのものも少数、作られた。

当時はもちろん、セルモーターはなく、クランクハンドルで人力で始動する仕組みだった。

オートモ号は東京 - 大阪間を40時間かけてノンストップ走行したことで知られる。当時としては驚異的な新記録だった。

だが、この国産車も、当時日本に工場を建設してノックダウン生産を開始したフォードやシボレー(下の5-4)には価格面でも性能面でも歯が立たず、1927年に販売を止めざるを得なかった。

(2015年1月に、国立科学博物館で。撮影機材はOlympus OM-D M-5)


4-1:三輪車の系譜、その1。エンジンフードには何が入っているのでしょう?フランスの三輪車

かつての世界的なベストセラーでロングセラーだったフォルクスワーゲン・ビートルは、リアエンジン、リアドライブだったから、普通の車だったらトランクがある後部のフードを開けてみたご夫人が、「あら、この車はスペアエンジンが載っているのね」といった話がある。

たしかに、「普通」の車は、前にエンジンがあり、それをボンネット(フロントフード)が覆っている。

しかし、この車のエンジンは、後部でも前部でもなく、車の前部にむき出しになっている。V型2気筒のエンジンだ。

だとすると、ボンネットにはなにが入っているのであろう? 写真で見ると、前半分だけが開くようになっているように見える。

その後ろ半分は、運転者と助手席の人間の足が入るところだろう。残りの前半分は、ガソリンタンクだろうか。

これは 1929年製の Darmout。見るとおり、後輪が1輪しかない三輪車である。三輪車は四輪車より安く作れるので、世界的にも、かなり作られた。いわば、貧しかった時代の象徴的な車であった。

とくに、後輪が1輪しかない三輪車は、デイファレンシャル・ギヤがなくてもいいので、安く作れるのが取り柄だった。また、前一輪の三輪車よりは転覆しにくいだろう。しかし、後は狭まってしまうので、後席はとれない、つまり前席だけの二人乗りになってしまうのが欠点であった。

(1994年1月に、ニュージーランド・ウェリントン郊外のサウスウォード自動車博物館で撮った。南半球最大の収集を誇っている自動車博物館である。撮影機材は、Olympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5、コダクロームKL200)


4-2:三輪車の系譜、その2。英国の三輪車Morgan も、むき出しのエンジンを誇っていました

これは、英国の有名なスポーツカーメーカー、モーガン Morgan が1921年に作って売り出したスポーツ三輪車 Morgan Aero。上の5-1のフランスの三輪車よりも8年、兄貴分に当たる。

エンジンは、上のフランス車と同じに、車体の最前方に、誇らしげに威容を誇っている。それだけではない、赤いガソリンタンクまで、最前部に鎮座している。この車は、正面衝突するかもしれない、ということをてんから考えていなかったに違いない。

精悍な面構えだ。たぶん、英国の名門のルーカスのヘッドライトであろう、巨大なヘッドライトが前方を睨み、二気筒水冷V型エンジンからの排気管は、排気干渉を避けるために、別々に、車体の両側を通って後ろに抜けている。

エンジンはOHV (Over Head Valve) で、当時としては進んでいる高出力エンジンだった。シリンダーヘッドにあるバルブを、シリンダーの底部にあるクランクシャフトから駆動するための長いプッシュロッドが4本、見える。

【追記】 じつは、このプッシュロッドは右の写真にあるように、「剥き出し」である。つまり、動いているのがそのまま見える仕組みだ。

マニアには、動いているのを見るのは楽しみなのだろうが、布や髪の毛が巻き込まれないか、心配になる。


これは、当時としては最先端のスポーツカーであった。なんでも競争の道具にしてしまう人類のことだから、なかでも競争好きの英国の人々にとっては、この滑稽な姿は、それなりに美しいものだったのだろうか。

この Morgan Aeroは自動車スポーツ「先進国」そして、保守的な英国ゆえ、1920年代のはじめから、なんと1950年まで作られ続けていた。多くは二人乗りだったが、なかには家族向けの4人乗りも、わずかにあった。

さて、英仏、どちらが勝ったのであろう。

(上の写真は、1994年1月に、ニュージーランド・ウェリントン郊外のサウスウォード自動車博物館で撮った。撮影機材は、Olympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5、コダクロームKL200。下の写真は、2012年6月に、愛知県のトヨタ博物館で撮った)


4-3:三輪車の系譜、その3。これは「よそ行きのための」英国の三輪車。でも、どう見ても豚の鼻ですねえ。

これも、英国の有名なスポーツカーメーカー、モーガン Morgan が1921年に作って売り出した三輪車。しかし、上の5-2とは違って、屋根も、また幌張りとはいえ、キャビンもある。つまり、これは、よそ行きの車なのである。

むき出しのエンジンも、よそ行きとあらば、カバーをかけた。色も、おとなしい紺色に塗った。雨の日の外出のために、ワイパーもつけた。

ボンネットの上、運転席のすぐ前にあるのは、たぶん、ゴムの球を押して鳴らす手動のラッパであろう。警笛である。

しかし、さすがモーガンというべきか、V型のエンジンと、その下の銀色に光るクランクケースを、なんとか見せびらかしたい。丸見えである。見る人が見たら、尊敬してくれるからである。

しかし、この鼻先は、どう見ても、漫画に出てくる豚の鼻である。デザイナーは、すぐれたデザインだと思ったのだろうか。

なお、車の下部に見える皿は、エンジンやトランスミッションのオイルがしたたり落ちるのを受ける、受け皿だ。また、サスペンションの下にあるジャッキ(日本語ではウマ)は、車のバネがへたらないための補助具だ。車齢80年の「老人」への気遣いである。

(1994年1月に、ニュージーランド・ウェリントン郊外のサウスウォード自動車博物館で撮った。撮影機材は、Olympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5、コダクロームKL200)


4-4:三輪車の系譜、その4。目の前に赤い風車がまわっているドイツの三輪車。これはほとんどオモチャです。

これはドイツの三輪車、Phanomobil、1932年に作られた。1932年だから、上の5-2や5-3はもちろん、5-1よりも後に作られたものだ。

しかし、ドイツは遅れていたのだろうか。上の3つの三輪車よりも、ずっと古めかしい。

真鍮で縁取りをした前照灯は古めかしいし、まるで船の舷灯のような古色蒼然としたランプが、ボンネットの左右に立っている。

エンジンも古めかしい。エンジンを冷却する赤い風車がむき出しだ。これでは運転の目障りに違いない。

またし、エンジンの横には、巨大なクラッチかフライホイールのようなものが、これもむき出しで、前輪をチェーンで駆動している。

前輪が1輪しかない三輪車で、しかもエンジンが前にあって重いこの車では、転覆しやすく、とても鈍重な走り方しかできなかったにちがいない。上のフランスや英国のスポーツカー的な三輪車には、かなうべくもなかったのである。

(1994年1月に、ニュージーランド・ウェリントン郊外のサウスウォード自動車博物館で撮った。撮影機材は、Olympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5、コダクロームKL200)


4-5:三輪車の系譜、その5。「怪力」を必要とした三輪車 Dreirad-Kleinlastwagen(ブレーマーハーフェン・ドイツ。1931年製)

三輪車には、「後輪駆動」と「前輪駆動」の二種類がある。ほとんどは「後輪駆動」でエンジンが後輪を駆動し、前輪は操舵だけのものだ。

しかし、1931年にドイツ・ザクセン州で作られたこの貨物用三輪車 Dreirad-Kleinlastwagen(小容量の荷物を載せるための三輪車という、なんの変哲もない地味な名前である)は、前輪の上にエンジンを載せて、チェーンで前輪を駆動する、という、上の4-4のドイツ車と同じ、世界的には珍しいメカニズムを持っている。

エンジンは、見られるように直列2気筒で、それぞれの気筒からマフラー(消音器)が下に延びている。排気管の間にあるものはホーン(警音器)である。

気筒容積は二気筒合わせて192cc。出力は、たったの6馬力だった。空冷のエンジンである。

エンジンの下には、ギヤボックスがあり、エンジンのすぐ上には、ガソリンタンクがある。つまり、オートバイを「上向きに縦」にして、それに後部の荷室と二つの後輪を付けたのが、この三輪車なのである。 もし、運悪く正面衝突したら、火の車になる危険を抱えている。

この方式の利点は、上の4-4と同じく、エンジンから後輪を駆動するための複雑なメカニズム、たとえば、プロペラシャフトや旋回時に左右の後輪の回転差を吸収するための差動ギヤが不要になるうえ、荷台が最大限に利用できることである。

しかし、ほかのほとんどの三輪車が 「後輪駆動」であるのは、それなりの理由があった。

それは、重い荷物を荷台に乗せて坂を上りにくいことだった。これな前輪駆動の宿命である。

それだけではない。前輪に、エンジンの重さも駆動力もかかるために、ハンドルが極端に重くなることもあった。

右の写真を見てほしい。これは、キャンバスの仕切を貫いて車室内に突き出した「ハンドル」だ。

この太くて頑丈な「ハンドル」を左右に押すことで、前輪が向きを変え、ハンドルを切ることが出来る。てこの原理を使って軽くしようとはしているが、さぞかし怪力を必要としたことだろう。力を入れる部分の塗装がすり減って地金が出ているのが、それを明瞭に示している。

また、右に曲がるためには、この「ハンドル」を(右の写真のように)左に押さなければならないのも、まぎらわしい。

なお、「ハンドル」の上部にはホーンボタン、下部にはスロットルレバー(自動車のアクセルにあたる調整レバー)がついている。床から生えているのはブレーキペダルである。

速度計はない。どんな規制のところでも、速度超過になる恐れはないのであろう。

なお、ウィンドウレギュレーター(窓ガラスを上げ下げするメカニズム)は、ない。車室の外に手を出すためには、写真のように、横のキャンバスをまくり上げて手を出すという、なんとも原始的な仕掛けになっている。

10年以上も前に、フランスでも英国でも、ずっと進んだ三輪車が作られていたというのに、このドイツの貨物三輪車は、なんとも無骨なものだった。

(撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。2004年10月にブレーマーハーフェンの歴史博物館で撮影。レンズは42mm相当、F2.8, 1/30s。右はレンズは35mm相当、F2.8, 1/80s)


4-6:三輪車の系譜、その6。ところで、これは「三輪車」なのでしょうか。う。

この車は、1941-44年にドイツで作られていた NSU Kettenkraft HK100、見られるとおり、不整地用の軍用車だ。

4-4から4-5までのドイツの三輪車の系譜からいえば、草原や泥や雪の中や海岸の砂の上を走るために、後輪が潜らないよう、滑らないよう、当然の「進化」をした三輪車と言えなくもない。

後輪が、無限軌道(キャタピラ、あるいはクローラー、メーカーによって呼び名が違うのが紛らわしい)になっていて、それを駆動することで前進する。

しかし、無限軌道は、たとえば雪上車のように、それだけで操行が出来る。 左右の回転を違えることで、車両の向きを変えることが可能なのである。

それなのに、この車には、ごく普通の前輪とハンドルがついている。無限軌道に「逆らって」操舵することは、ほとんど不可能なはずだ。 また、後輪が直進しようとしているのに操舵するのもむつかしかろう。

つまり、この「三輪車」は、素直に走れるのは、まっすぐ直進しているときだけで、曲がるときには、どこかをごまかして折り合わせないと、曲がれない車だったのである。

それにしても、こんな重装備をしてしまったこの小さな車は、いったい、なにが運べたのであろう。おそろしく小さな「荷物」しか、運べなかったに違いない。

(1994年1月に、ニュージーランド・ウェリントン郊外のサウスウォード自動車博物館で撮った。撮影機材は、Olympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5、コダクロームKL200)


5-1:ほとんどアール・デコの消防車。でも何人乗れるのでしょう。

1929年製のデライエDelahaye。当時の高級車メーカーである。この消防車も直列6気筒エンジンを積んでいた。

世界のどの国でも、現代の消防車が機能だけの形になってしまったのとくらべて、この消防車は、なんと優雅なのであろう。梯子を支えているフロントウィンドウの曲線は、ほとんどアール・デコのものだ。

また、ヘッドライトやラジエターグリルも、また、前後のフェンダーも、「実用車」というものがなく、世の中の車は、みな「高級車」だった、その作り方を踏襲している。

しかし、気になることは、消防車は、行った先で仕事があるわけだから、この消防車には、いったい、何人が乗れたのだろう、ということだ。ほとんど二人乗りのオープンカーのようなデザインだから、せいぜい、あと一人か二人が車の後ろに掴まるくらいしか出来なかったのではないだろうか。

梯子の長さも時代を感じさせる。二段重ねに見えるこの長さでは、せいぜい3階くらいにしか、届かなかったに違いない。もっとも、読者のみなさんも安心してはいけない。東京の区部にある25階建ての、ある会社の社長室や役員室は9階にある。これは、地元の消防署にある日本でも最新鋭の梯子車が届く高さなのだという。それ以上の高層階にいたら、消防車による救出は期待出来ないのである。

(1984年、フランス・パリのグラン・パレで開かれた「自動車の歴史100年展」で。撮影機材はOlympus OM2、レンズはTamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロー ムKR)


5-2:同じ時代、英国はアール・デコとは無縁でした。

上のデライエDelahayeと同じ1929年に英国で作られたオースチン・スワロー・スポーツクーペ Austin Swallow Sports Coupe。

しかし、デライエの伸びやかな美しさにも気品にも、足元にも及ばない。

スポーツクーペとは名ばかりの、まるで小型のバスのような地味で実用的な形だ。へんに厚いラジエターグリルの金属メッキも、なんのためのデザインかわからない二重になっているバンパーも、全体のデザインの中での必然性がない。鳥打ち帽をかぶっているような屋根も不細工だ。

せめて色だけは、と二色に塗り分けてみたが、この色では、映えないことおびただしい。

つまり、英国ではヨーロッパ大陸を風靡したアールデコとは無縁だったのである。

(1994年1月に、ニュージーランド・ウェリントン郊外のサウスウォード自動車博物館で撮った。撮影機材は、Olympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5、コダクロームKL200)


5-3:これも同じ時代。米国はアール・デコをはき違えていたのでしょう。

しかし、上の英国車も、この醜悪な米国車に比べれば、ずっとましだった。全身、赤銅色に光り輝く、この成金主義の固まりのような車は、1938年製の「銅の車」、Copper Car。

真ん中で溶けたように垂れ下がっているラジエターグリルとフロントウィンドウ。微妙な曲線を描くヘッドライトカバー。これほど目立ちたがって、これほど、見たら忘れられない車も、まずほかにはあるまい。

もしかしたら、米国では、欧州のアールデコを、まったくはきちがえていたのだろうか。

(1994年1月に、ニュージーランド・ウェリントン郊外のサウスウォード自動車博物館で撮った。撮影機材は、Olympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5、コダクロームKL200)


5-4:これも同じ時代。やはり米国には飾らない実用車が似合っていました。

これは1931年型のA型フォード。米国の大衆車メーカーとしてT型フォードで大成功したフォードが次に出したモデルだ。

ヘンリー・フォード(Henry Ford, 1863-1947)は、それまでにはなかった安い実用車、T型フォードを1908年に生み出して、大成功を収めた。これによって自動車は、はじめて大衆のものになった。

T型が発売されたとき、当時の自動車は高級車しかなく、3000〜4000ドルしたのに対して、T型フォードは850ドルという価格を、大量生産と合理化で可能にして、1500万台も売れたという未曾有の記録を作った。ベルトコンベアを使い、労働者を会社の歯車にしてしまった近代的な工業は、ここに始まったのであった。

生産性を上げるために、T型フォードは1912年型から、それまでは3種類を選べたボディの色を、黒のエナメル塗り1色だけにしてしまったほどだった。黒塗りがいちばん乾きが早いという理由だった。

その後、1927年12月に写真のA型フォードが登場し、1931年まで販売された。さすがに古びたうえ性能も時代にそぐわなくなったので作られた第二弾であった。いかにも実用車然としていて、華がない。しかし安くて丈夫だった。やはり、米国としては、この種のものが性に合っていたのだろう。

写真のものは日本に輸入されて昭和初期のタクシーになったA型フォード。1931年製。東京市内は一律に1円の料金たったので、「円タク」と呼ばれた。1936(昭和10)年には、東京のタクシーの44パーセントがフォード製、27パーセントがGMのシボレーだったという。

じつは日本初のタクシーはT型フォードだった。1912年に東京で運行がはじまり、その後も1920年代までT型フォードがタクシーの主流だった。

1923年の関東大震災で東京市内の市電や線路が破壊されてしまったとき、その代替えとしてフォード社から800台のT型フォードを緊急に輸入してバスに改造した。「円太郎バス」である。

当時としては800台はたいへんな大商いだった。これだけの注文に応じられる自動車メーカーは、当時世界でフォード社1社しかなかった。

日本市場が儲かる、と見たフォードは1925年には横浜に組立工場を設立し、米国製の部品を組み立てるノックダウン生産が始まった。フォードを追うGMも、2年後の1927年に大阪に組立工場を設立してシボレーのノックダウン生産を始めた。当時の日本の自動車メーカーはこの両者に太刀打ちできず、ほとんどフォードとGMによって席巻されていた。

(2007年に、東京・両国の江戸東京博物館で撮った。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは36mm相当、F2.8, 1/4s)


6-1:車に屋根が必要なことを考えなかった時代

これは、下の6−2や6−3や6−4とともに、世界でもっともはじめに作られた自動車の一つである。

設計した人々の頭にあったのは、明らかに馬車だった。座席の構成といい、車輪の作りといい、これは馬車そのものだ。真鍮製でで磨き上げられた石油ランプも、馬車と同じものに違いない。

唯一ちがうのが、ハンドルである。運転者の右横にあるブレーキレバーも、もしかしたら馬車時代からのものかもしれない。

ハンドルが上下二重になっているのは、私には謎である。下のものは、アクセルペダルの代わりか、エンジンの点火タイミングの進角の手動調整だろうか(いまの車は自動調整だが、ある時期には手動調整のレバーがハンドルポストから生えていた)。

1898年、フランスで作られた Audibert Lavirotte。エンジンは2気筒で16馬力を出した。

それにしても、車には屋根が必要だ、ということをまったく考えていない時代だった。雨も、髪や衣服を乱す風も、要するに、車に乗るべき天候ではないときは乗らなかったのであろう。

でも、フェンダー(車輪の泥よけ)だけはあった。雨はあがっても、ぬかるみの道が多かったのであろう。

この車は、リヨンのH.Malartre博物館の所蔵だ。

(1984年、フランス・パリのグラン・パレで開かれた「自動車の歴史100年展」で。撮影機材はOlympus OM2、レンズはTamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロー ムKR)


6-2:車の先祖は「電動車椅子」とそっくりだった。

人が最初の自動車を作ったときには、何を、どう考えたのだろう。

駆動するためのエンジンは出来た。また、いままでの一般的な乗り物としての馬車がある。これをどう組み合わせようか、と思ったに違いない。

でも、まさか、馬に当たるエンジンだけを前に走らせて「牽引」させるわけにはいくまい。

このため、馬車の中にエンジンを組み込んで、裸の馬車を走らせることにした。人々にとって見慣れないエンジンは不格好なものだし、音もうるさいから、見えないところに隠してしまいたい。後席の下に入れることにした。

こうやって出来たのが、写真の、車の先祖であった。

考えてみたら、車の向きを変えるのは馬ではなくて、自分だった。そのため、前輪の向きを変える「操行装置」を付けた。また、夜のために、石油ランプもつけた。足がぶらぶらしているのも困るので、足置き台も付けた。

こうして出来たものは、現代の電動車椅子によく似ている。

1896年、フランスで作られた Leon Bullee。4サイクル単気筒のエンジンで駆動した。1895-98年に作られていたうちの一台である。

この車は Mans A.C.O.博物館の所蔵だ。それにしても、ビーバーの尻尾のような、後ろのタイヤのフェンダーは、なんと優雅なのだろう。さすがフランスである。

(1984年、フランス・パリのグラン・パレで開かれた「自動車の歴史100年展」で。撮影機材はOlympus OM2、レンズはTamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロー ムKR)


6-3:誰を、どう座らせるのでしょう。車の先祖は不思議なシート配列でした。

上の 6-1 や 6-2 の車なら、4人なり2人なりが前に向かって座っているから、現代の私たちにとっても自然に見える。

しかし、この車の前席は、どう見ても、後ろ向きに座るようにしか見えない。汽車の座席でもあるまいに、「団欒型」である。

運転者は、左後部に座っていたのだろうから、前席に人が座っているのは、前を見るのに、多大な邪魔だったに違いない。

この、現代の車から見れば滑稽な座席配列は、まちがいなく、馬車から来たものだ。前席には、侍従を座らせ、主人は後部座席でそっくりかえっている、という座席配置なのである。

こうして、車の先祖には、あらゆる混乱があった。どれも、馬車からの発想を超えられなかったために起きた悲劇である。

この車には、幌がある。雨の時は幌をかぶせたに違いないが、さて、フロントウィンドウのガラスはない。つまり、この幌は、まるで傘を差すように、上からだけの雨を防ぐものだった。所詮、車のスピードは、せいぜい、自転車並みだったのである。

写真に見られるとおり、この車は、磨き込まれた木が、あちこちに使われている。フェンダー、座席の枠、そして車輪も木である。その意味でも、これは馬車が、自動車に「なりかかったもの」なのであった。

この車は 1897年にフランスで作られた Berliet。エンジンは単気筒で15馬力だった。

(1984年、フランス・パリのグラン・パレで開かれた「自動車の歴史100年展」で。撮影機材はOlympus OM1、レンズは Tamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはサクラカラー R200 ネガフィルム)


6-4:せめてもう少しましなデザインは考えなかったのでしょうか。馬車への思いがあまりに強かった車の先祖。

人が最初の自動車を作ったときに、馬車への思いは断ちがたかったに違いない。

ウマにしては何とも小さいけれども、馬の代わりはエンジンだから、それを馬車の前につける。

すると前輪はエンジンより前にいってしまうから、やむをえず、なんとも長大なレバーをつけて、前輪を操行することにした。ハンドルの切れ角が小さいのは、どうしようもない。そのかわり、ハンドルは上の4-5のドイツの三輪車と違って、軽かったろう。

そして、夜の走行のために前照灯もつけよう。

こうやって馬車の発想から飛躍することなく、「論理的に」順に考えて出来たのが、写真の、車の先祖だったにちがいない。1902年にフランスで作られた Lacroix de Laville。

写真に見られるとおり、この車の基本構造は、木で作られていて、形も馬車そのものだ。 前輪を外して、ウマに引っ張らせれば、そのまま馬車になるのである。

ウマの代わりに、「馬車」の前に鎮座するのは単気筒939ccのエンジン。馬車に乗って、ウマの尻を眺め続けるのもいい眺めではないが、このエンジンをいつも眺めているのも、考えてみれば、滑稽なことだ。

この車は、リヨン博物館の所蔵である。

(1984年、フランス・パリのグラン・パレで開かれた「自動車の歴史100年展」で。撮影機材はOlympus OM1、レンズは Tamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはサクラカラー R200 ネガフィルム)


7-1:世界でもっとも遅い乗り物(ドイツ・ブレーマーハーフェンの歴史博物館に展示してある自転車の先祖たち)

一般客を乗せるものとしては、かつて人類が作ったことがある最速の乗り物よりも2桁以上、ほとんど3桁近くも速度が遅い乗り物を人類が発明したことがある。

しかし、化石燃料も電気も使わず、人力だけで走るというこの乗り物は、周知のように、いまは全世界で愛される乗り物になった。「機材」もそれなりに進歩していて、私がふだん乗っているロードレーサーという、タイヤの幅が2センチしかない高速車は、平坦地で35km/hを出すことはそれほどむつかしくはない。

この先祖たちは、しかし、ギヤもチェーンもない。つまり幼児用の三輪車のように、前輪を直接、ペダルで回す仕掛けだ。このため、人が速めに歩くくらいの速度しか出なかったにちがいない。

そのうえ、向こう側の先祖は、走っている間はともかく、いったいどうやって乗り降りするのであろう。いくら足が長い北ドイツの人間でも、サドルに腰掛けたままでは、地面に足が届くまい。なお、この「先祖」は日本にも入っていた。

(2004年10月。ブレーマーハーフェンの歴史博物館で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。レンズは84mm相当、F2.8、1/80s)


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