島村英紀が撮っていた歴史的な写真・その2・1970年代半ば以降

1970年代半ば以前の写真はこちらへ


1-1:1977年4月、イラン南部・カルグーの地震直後-1

この地震は1977年4月に起きた。 ちょうど私たちがイラン人科学者との共同海底地震観測のために、イラン南部の港湾都市、バンダレアーバスに到着して、観測の準備を始める数日前に起きた。

バンダレアーバス
でも、建物にヒビが入るなどの小被害があったが、車で4時間ほど内陸の砂漠に入った震源地近くのカルグーでは、息を呑むほどの被害だった。「日干し煉瓦」の悲劇である。下の1-2の文章を参照してほしい。

【2008年5月追記】 家が弱くて、甚大な被害を出すことが、2008年5月に、中国・四川省で起きた地震(四川大地震、四川省地震)で、また、くり返されてしまった。地球物理学者としては胸が痛む。

 しかし、私がトルコで見たように、ビルや公共の建物は別にして、大地震の後に庶民が建て直す家は、やはり手持ちの安い材料を使った、同じように地震に弱い家なのである。

(ともに撮影機材はOlympus OM2。レンズはZuiko 28mm f3.5。フィルムはコダクロームKR ISO (ASA) 64)

なお、この2枚の写真は、島村英紀『日本人が知りたい地震の疑問66----地震が多い日本だからこそ、知識の備えも忘れずに!』サイエンス・アイ新書に使った。


1-2:1977年4月、イラン南部・カルグーの地震直後-2

以下は島村英紀『公認「地震予知」を疑う』(柏書房)から。

「私は以前、イランで起きた別の地震の被災地に行ったことがある。息を呑む風景だった。日干し煉瓦を積んだだけの家は、土の山に帰ってしまっていた。

  怪我人というのはあまりいないのです、と言った土地の人の暗い声を思い出す。家の中にいれば助かる見込みはほとんどない。たまたま屋外にいた人だけが助かっていた。

 しかし、庶民の家は、世界のどこでも、手元の材料を作って作る。木材も、もちろんコンクリートもない中近東や中央アジアの国々では、泥をこねて太陽で干しただけ、つまり焼き固めていない煉瓦で家を造るのが普通である。


撮影機材はOlympus OM2。レンズはZuiko 28mm f3.5。フィルムはコダクロームKR ISO (ASA) 64)

なお、このほかのイランの地震と「日干し煉瓦の悲劇」の文章はこちら

 

2-1:1977年8月、北海道・有珠(うす)火山の噴火と地殻変動

1977年8月7日9時12分に有珠火山の山頂付近で噴火が始まった。噴火は約1年で消息したが、地震と地殻変動は1982年3月まで5年近くも続いた。

有珠火山の北側の山麓にある3階建ての県営アパートが、火山活動にともなう地殻変動で、激しく変形したほか、写真に見られるように、人の背ほどもある崖が作られてしまった。

地殻変動がゆっくりしたものだったために、このアパートでは、幸い、死傷者は出なかったが、アパートそのものは人が住めなくなり、その後取り壊されてしまった。

この二枚の写真を比べてみればわかるように、アパートの変形は、約2年後に撮った右下の写真では、一層、進んでいる。赤い屋根の変形が違っているのがわかるだろう。幸い、この一連のアパート変形では、怪我人は出なかった。

このほかに、この写真の左手に当たる洞爺湖(とうやこ)畔では、国道が地殻変動のために、大きく崩れた。

その後、2003年3月に有珠火山は再び噴火した。そのときの火口は、この写真のすぐ右手であった。有珠火山は、噴火のたびに、別の火口から噴火する。 もし、ここに新しいアパートが建てられていたら、大きな被害を受けたかも知れない。

(上の写真の撮影機材はOlympus OM1。レンズはZuiko 28mm f3.5。フィルムはコダック Tri-X pan ISO (ASA) 400。下の写真は1979年10月に撮影。機材は撮影機材はOlympus OM2。レンズはTamron Zoom 35-80mm。フィルムはコダクロームKR.)


3-1:1978年1月、伊豆大島近海地震の被害(伊豆半島・稲取(いなとり)町で)

この地震は1978年1月14日に起きた。マグニチュード7.0。伊豆半島南部と伊豆大島の間にある海底で起き、25名の方がなくなり、伊豆半島各地で土砂崩れが起きて家が壊れるなど、大きな被害を生じた。家屋の全壊は96戸、道路の損壊は1141ヶ所に達した。

写真は地割れで大被害を出したガソリンスタンド。

撮影機材はOlympus OM1。レンズはZuiko 28mm f3.5。フィルムはコダック Tri-X pan ISO (ASA) 400.)


3-2:1978年1月、伊豆大島近海地震の被害(伊豆半島・稲取町で)

1978年1月、死者25人を出した伊豆大島近海地震が起きた。地震でこれだけの死者が出たのは1964年の新潟地震以来、14年ぶりのことであった。

 しかも場所は問題の東海地震の震源に近い。もし本当に東海地震が襲ったら、という恐れが皆の頭をよぎった。これがまた地震予知計画の強い追い風になったのである。」(島村英紀『公認「地震予知」を疑う』(柏書房)から)

撮影機材はOlympus OM1。レンズはZuiko 50 mm f1.8。フィルムはコダック Tri-X pan ISO (ASA) 400.)


3-3:1978年1月、伊豆大島近海地震の被害(伊豆半島・東伊豆町で)

写真は崩壊した海際のドライブイン。非常階段だけが残っている。

「 この地震予知研究協議会のパンフレットに最初に掲げてある前兆の例として、1978年伊豆大島近海地震のときに記録されたものがある。

 この地震はマグニチュード7.0。伊豆半島南部と伊豆大島の間にある海底で起き、25名の方がなくなり、伊豆半島各地で土砂崩れが起きて家が壊れるなど、大きな被害を生じた。

 このパンフレットによれば、伊豆半島の6カ所で、井戸水中のラドンという放射性元素の量、地下水温、地下水位、体積ひずみ(地下の岩盤が延びたり縮んだりする体積の変化)の4種目のデータが前兆を示したことになっている。」(島村英紀『公認「地震予知」を疑う』(柏書房)から)

撮影機材はOlympus OM1。レンズはZuiko 28mm f3.5。フィルムはコダック Tri-X pan ISO (ASA) 400.)

ほとんど同じときに撮ったカラーの写真はこちらに


4-1:1976年7月に起きた中国・唐山地震の惨状(北京の北東約200kmの唐山市で)

この地震は中国・北京市の北東約200kmにある河北省唐山市を襲った直下型地震で、政府の公式統計でも24万人、非公式には60万人以上が死亡したのでは、と言われている。

この1年前の海城地震では地震予知に成功して、人々を避難させていたときに地震が起きた、と言われたが、この唐山地震では地震予知はできなかった。

唐山はこのあと10年あまり、外国人には閉鎖された。この写真は閉鎖の解除後の1987年9月に撮ったものだ。大きな被害を出した一角は、地震の遺跡として、そのまま残されている。

(3枚とも、撮影機材はOlympus OM4。レンズはZuiko 28mm f3.5。フィルムはコダクロームKR ISO (ASA) 64)


4-2と4-3:1976年7月に起きた中国・唐山地震の惨状(中国・唐山市で)

島村英紀『公認「地震予知」を疑う』(柏書房)から)

「このように1960年代から70年代にかけては、いろいろな国で前兆の報告が相次いでいた。そして、1975年に海城地震(マグニチュード7.3)が中国東北部にある遼東半島の北にある遼寧省で起きた。これが日本の地震予知に及ぼした影響は計り知れない。

 地震の前には、数多くの前兆があったとされる。震源から約200km離れた観測点では、地震の前年から地殻変動(土地の傾斜)の変化があり、地電流の報告もあった。また、震源を中心とする200kmの範囲で、井戸水の異常な変化が地震の3ヶ月ほど前から報告されはじめ、地震発生まで続いた。井戸水の水位や水質の変化が観測されたほか、水を噴き上げはじめた井戸もあった。また地下からガスが噴き出してきて燃えた。

 地震が起きたのは早春だったが、前の年の年末には冬眠中のヘビが出てきたり、大量のネズミが現れたり、飼っていたブタが餌を食べなくなって垣根によじ登るなど、さまざまな動物の異常な行動も記録されている。

 地震が起きたのは2月4日、現地時間の午後7時すぎだった。地震の4日前から初めて起き始めた微小な地震は、前日の午後から活動が活発化し、有感地震(人体に感じる地震)も発生するようになった。地震当日の午前には微小な地震が1時間あたり60回を超えたうえ、マグニチュード4.7や4.2といった大きめの地震も発生するようになった。じつはこの地震観測所は地震の5年前に作られて以来、観測された微小な地震はわずかに9個、最大のマグニチュードも1.8だった。つまり、いままでにない異常が集中して起きてきたわけであった。

地震当日の午前10時に地震警報が出された。人々を屋外へ避難させて、家に帰らないように屋外で映画を上映しているときに海城地震が発生し、死傷者を大幅に軽減できたと言われている。

 このように、1970年代の半ばまでは、世界各地で前兆の報告が相次いだ。中国では海城地震を含めて12の地震が予知されたという。日本でも諸外国と同じ方法を追試する科学者も多く、地震予知計画にも、さまざまな手法による前兆捕捉の研究が取り入れられた。いわば、地震予知が熱気を持っていてバラ色の未来が見えていた時代であった。

 しかし、地震予知のバラ色の未来が消えるのに時間はかからなかった。世界のどの国でも、観測を続けているうちに、地震があっても、前に記録されたような前兆がない例や、もっともらしい「前兆」が記録されたのに、肝心の地震が来ない例が、次々に現れてきてしまったのである。

 海城地震で輝かしい地震予知に成功した中国では、早くもその翌年に事態は暗転した。1976年7月に河北省唐山で起きた唐山地震では、避難勧告を出すことができず,公式統計でも24万人、非公式の情報では60〜80万人近くの死者を生んだと言われている。唐山は北京から北東へ約200km、海城地震の震源から南西に約400km離れた大都市である。


 じつは、地震の被害者数は政治的に操作されることが多い。政治体制に深刻な影響を与えたことを外国に知られたくないためである。チャウシェスク大統領の独裁体制下の1977年に起きたルーマニア大地震は、当時は死者1700と報じられたが、じつは6000を超えていたことが体制崩壊後に明らかになった。

 1999年にトルコのイズミットで起きたトルコの大地震でも、死者1万5000と報じられたが、私が懇意にしているトルコの地震学者によれば、少なくとも3万5000人の犠牲者が出た、という。日本は例外的に「正直」なほうなのである。唐山地震では地震後、地震学者を含めて外国人の立ち入りが許されるまでに10年もの年月が必要だった。」

5-1:1975年頃。静岡県清水港にあった巴川にかかる可動橋(巴川橋)

当時、船を通すために、単線の鉄道橋を平行に持ち上げる珍しい仕組みになっていた。巴川にかかっていた、清水港線という支線の橋であった。この線は清水〜三保間 8.3kmを結んでいた臨港貨物線という位置づけの線で、1970年代からは、旅客列車は1往復の混合列車のみという特異な線だった。

もともと列車や貨物列車の通行は多くはなかったが、1972年から旅客列車が1日1往復に削減され、1984年3月31日限りで廃止されてしまった。

私は1984年にこの橋の上を貨物列車が走っている写真を撮ったが、汽車が通っているときにはただの橋にすぎない。写真としては、やはり上がっている状態のほうが、可動橋らしい。

なお、1985年6月には線路が撤去されてしまって、上がった状態の橋だけが残っていたが、いまは、橋そのものが撤去されてなくなってしまった。

じつはこの橋は、私がたびたび、海底地震観測で乗せてもらった『東海大学二世丸』と『望星丸』が係留してあった埠頭のすぐ近くにあったので、しょっちゅう、ここを訪れていたのである。

撮影機材はOlympus OM1。レンズはZuiko 100mm f2.8)


5-2:フランスには同じような可動橋の「先輩」がある

フランス西部、大西洋に面した海岸にブレストという町がある。古くからフランスの大西洋の出口として栄えてきた。写真のような造船所も、海軍の基地も、フランス海洋研究所も、海洋科学が盛んな大学もある。

ちょっと分かりにくいが、写真左側に、巴川橋よりはずっと大きな可動橋が見える。手前は造船所のドックである。

この町は第二次大戦でドイツ軍に徹底的に破壊されて廃墟になった。そこから立ち直った街だから、パリのような由緒のある石造りの建物はない。

(1994年8月に撮影。撮影機材はOlympus OM-4。レンズはTamon Zoom 28-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


5-3:ドイツの運河にかかる近代的な可動橋(跳ね上げ橋)

橋の両側をそろそろと揃えて上げ下げしなければならない上のような可動橋と違って、近年の可動橋は、油圧で鉄の橋を跳ね上げるものが増えた。

これは北ドイツの海岸沿いの町、ブレーメンハーフェンの運河にかかる跳ね上げ橋。

左側を支点にして、一挙に跳ね上げる。橋の右側には通行する船のための交通信号や、川底までの深さを示すスケールが置かれている。もちろん、道路側にも、目立つ信号機と赤白に塗り分けた遮断機がある。

(2004年夏に撮影。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10、レンズは132mm相当)


6 -1:東京都杉並区高円寺にあった気象庁気象研究所

気象庁の研究部門を受け持つ気象研究所は、国電中央線の高円寺駅の北に拡がる住宅街の中、高円寺駅から北西に500mほどのところにあった。

写真の正門に見られるように、のどかな研究所であった。門の扉の上には写真に写っているように鉄条網が張ってあったが、中に職員住宅もあり、この門が閉められることはなかった。門衛もおらず、誰が出入りしてもよかった。

じつは、この気象庁気象研究所は第二次世界大戦中は陸軍気象部であった。1938(昭和13)年の「陸軍気象部令」によって設置されたものだ。戦後陸軍が解体されると中央気象台研究部(昭和21年からは気象庁気象研究所)になった。こうして統合された気象庁は一時は1万人近い職員に膨れあがった。

サクラなど多くの樹木がある広い敷地だったが、肝心の建物は、私の出身校である東京第三師範附属大泉小学校と同じような、戦時中からある木造の古い建物だった。

また、この敷地内には、職員住宅もあったが、「ハモニカ住宅」と言われていた。ハーモニカのように、二階建てで狭い、安普請の木造集合住宅だったからである。

1960-1970年代当時は、政府が茨城県筑波に研究学園都市を作るのに躍起で、多くの国立研究所が半ば強制的に筑波に移され、また東京教育大学も、筑波大学と名を替えて移っていった。

気象庁やその労働組合である「全気象」は、この筑波移転問題に強く反対し、あらゆる理屈を並べて反撃を試みた。しかし、結局は刀折れ矢が尽きて、1980年に、研究・教育機関としては最後の43番目に、筑波に移ることになった。筑波移転が閣議決定されたのが1961年だったから、約20年も抵抗したことになる。

なお、全気象の幹部は、たとえ気象業務や気象研究の業績がすぐれていても、昇進は遅かった。これは他の官庁でも同じだった。「お上に逆らった」者への報復人事である。

現在、もとの敷地の一部には建て直された気象庁の宿舎があるが、敷地の大部分は30年後の右の写真のように、馬橋(まばし)公園になっている。同じ木が大樹になって残されているのは幸いなことである。

(上の写真は1978年4月に撮影。撮影機材はOlympus OM1。レンズはZuiko 28mm f3.5。フィルムはコダック Tri-X pan ISO (ASA) 400。下の写真は2008年5月に撮影。撮影機材は Fuji Finepix S602 デジカメ。レンズは40mm相当。f3.6, 1/210s, ISO (ASA) 200)


6-2:東京・六本木にあった東京大学物性研究所と生産技術研究所

1970年代には、都心にも、あちこちに、「戦後」が残っていた。六本木に東京大学の物性研究所と生産技術研究所(六本木キャンパス)があり、これは戦時中には歩兵第三聯隊兵舎として使われていた古ぼけた建物だった。

第二次大戦後の混乱期に、東大は、これだけ広大な土地と建物を自分の研究所として仕入れてしまった。さすがに権力に近いところにいて顔も利いた東大、というべきであろう。

この東大の建物は、関東大震災(1923年)後の震災復興建築であるとともに、日本で最初の本格的鉄筋コンクリート造りの兵舎建築でもあった。聯隊本部、3個大隊、12中隊と炊事場や浴場などを収容する「中」の字の型をしていた。 また、この兵舎は1936年の日本軍部によるクーデター、2.26事件の舞台となった建物でもあった。

右手の広大な土地は、じつは米軍の管理下にある。敗戦後米軍が接収し、その後「全面返還」が決まり、約3分の2は返還されたが、2012年になってもまだ基地の部分は返還されず、米軍が使用している。たとえば東京都は1963年には基地も含めて公園をつくることを決めており、本来は基地全体が青山公園予定地なのだ。いまでも、毎日、東京西部の米軍基地から、大型ヘリコプターの定期便が、すさまじい爆音とともに、飛んできている。つまり米軍関係者や米国政府関係者は、まず米軍基地に降り立ち、地上の混雑を通らないで、都心や虎ノ門の米国大使館に直行できるのである。

上の写真の右手、つまり右の写真の奥に六本木の繁華街があり、すぐ手前には、地下鉄乃木坂の駅がある。物性研究所では秋本俊一博士らのグループが、超高圧実験を行って世界的な業績をあげた。

地球内部の高温高圧を実験室で作り出したのである。その秋本さんは、昼食を食べるのには、この辺は高くてねえ、とこぼしておられた。

当時の国立大学の教授の給料で、しかも理学部系の貧しい教授にとっては、六本木界隈で食事をするのは、なるほど、大変だっただろう。なお、秋本氏は2004年7月14日に78歳で逝去された。

いま、この写真の奥は六本木ヒルズなど、高層ビルが目白押しになって、すっかり空が狭くなってしまった。写真左手の空き地には国立新美術館とその先には政策研究大学院大学が建ち、向こうへ向かう道も、六本木トンネルで地下を通すように変更した。

また手前を左右に横切る道も地下道として開通した。 つまり、地上の景色は、ほとんどすべてが変えられてしまったのである。

また、学術会議のビルのすぐ北側を東西に通る道(左写真)も、このころから工事が進み、最終的には、左手の青山墓地から写真の奥手まで、首都高速道路の乃木坂トンネルになった。

写真の右手は、東大の生産技術研究所と物性研究所の建物の一部だ。

2000年3月、生産技術研究所と物性研究所がここから目黒区駒場にある東大の第2キャンパスと千葉県の柏キャンパスヘの移転を終え、ここ六本木キャンパスは38年間の歴史を閉じた。

建築関係者から保存を求める声が挙がっていた旧生研の建物(歩兵第三聯隊兵舎)は、ごく一部を取り壊さずに保存し、建築当時の姿に復元することになった。

この広大な土地には、国立新美術館が作られることになり、2003年頃から工事が始まった。右の写真は2003年11月に撮ったもの。左手に東大の古い建物が残っているが、右手のテントの中とその周辺では、新築工事が始まっている。一方、後方の六本木では、まだ摩天楼はふたつしかない。その後ここには、驚くほど多くの高層ビルが、立ち並ぶことになる。

なお、写真に見えるいちばん高いビルは六本木ヒルズ森タワーである。地上54階地下6階で、2003年に完成した。高さは238mあ る。

そして、2007年春に新国立美術館が開館した。内部は左下の写真のように、モダンなデザインになっている。しかし、高所恐怖症の人には、ちょっと怖ろしい光景かもしれない。

この新美術館は、自分では所蔵 品を持たない美術館である。つまり場所だけを提供するという、人が集まる六本木という土地の立地条件だけが売りの、安上がりの美術館である。

近辺が昔にはこんな景色だった人を知る人は、もう、少ない。

そして、その六本木ヒルズ森タワーの52階から2012年に見下ろしたのが右の写真だ。画面右に見えるのが、国立新美術館で、その手前のビル群は政策研究大学院大学だ。左手奥に拡がるのが、都営の青山墓地である。国立美術館のすぐ左手に半ば隠れて見えるのが、日本学術会議のビルである。

そして、画面左に見える広大な平地は、上の写真にあった米軍のヘリコプター基地だ。その広さは3万平米もある。昔からそのまま、まだ残っているのである。

ここは米国大使館にも近く、首都圏の横田、厚木、横須賀などの米軍基地からヘリコプターで十数分で来ることが出来る便利さで、いまでも日に数回以上、すさまじい騒音をまき散らしながらヘリコプターが往来している。

そして、不思議なことに、この施設のことは、google地図にもmapion地図にも出ていない。そのうえ、この飛行場はまわりの道路より一段高くなっているうえ、美術館からも、青山墓地からも見えず、そして写真に見える飛行場の地下を通る道路からも、もちろん見えない。日本人には見せたくない施設なのであろう。

(上3枚は1974年に学術会議のビルから撮影。撮影機材はOlympus OM1。レンズはZuiko 28mm f3.5。フィルムはコダクロームKR64.。下から2枚目の写真は2003年11月に撮影。撮影機材は Panasonic FZ10 デジカメ。レンズは36mm相当。f4.0, 1/320s, ISO (ASA) 50。美術館内部の写真は2008年5月に撮影。撮影機材は Panasonic FZ20 デジカメ。レンズは27mm相当(Minolta wide conversion lens ZCW-100)。f2.8, 1/80s, ISO (ASA) 80。一番下の写真は2012年2月に撮影。撮影機材は Panasonic DMC-G2 デジカメ。レンズは60mm相当。f4.9, 1/60s, ISO (ASA) 250)

この付近の現在の地図は


6-3:1976年6月。東京・新宿区戸山から見た夕方の都心。

山手線の新大久保の駅から1kmほど東に行ったところにある国立病院医療センターから東南東を見た。

左端のビルが霞ヶ関ビル、中央左に見える丸い塔屋を載せているのが赤坂のホテルニューオータニ、二つあるテレビ塔の左は芝公園の東京タワー、右は四谷の日本テレビ。つまり当時の東京にあった高い建築物がすべて一望できた。中央手前の黒いビルはフジテレビ、右下のネオンは青春出版社である。

いまは、下の写真6-4のように、都心に高層ビルが林立したせいで、こんな遠くの建築物が見えることはない。

撮影機材はOlympus OM1。レンズはZuiko 100mm f2.8。フィルムはコダクロームKR。ISO (ASA) 64)

この付近の現在の地図は


6-4:2005年11月。上と同じ東京・新宿区戸山から見た夕方の都心。

山手線の新大久保の駅から1kmほど東に行ったところにある国立病院医療センターから東南東を見た。上の写真の約30年後になる。

上の写真で一番高くそびえていた東京タワーがはるかに低くなってしまい、画面右1/3くらいのところ、ビルの谷間にわずかに見えているだけになった。

上の写真で左端に目立った霞ヶ関ビルも、中央左に空に突き出していた赤坂のホテルニューオータニも、まわりの高いビルに囲まれてしまい、それと指摘されなければ、ほとんど見えなくなってしまった。

東京の空は、かくも狭くなっていっているのである。

(撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは 100mm相当。 f2.8、1/60s)


6-5:1974年2月。東京・中野から新宿方面を望む

中野駅の南方2.5kmにある東京大学海洋研究所(中野区弥生町)から。港区芝公園にある東京タワー(1958年建造)の下部までよく見えた。つまり新宿方面には、高い建物がなにもなかった。

甲州街道はこの右手になる。当日は東京には珍しい雪の日だった。

撮影機材はOlympus OM-1。レンズはZuiko 100mm f2.8)

この付近の現在の地図は



7-1:1972年10月。北海道大学の西側を削って道路を作る工事。

北海道大学の西側に沿って西11丁目通り(下手稲通り)が通っているが、これは北海道大学の敷地を削って作ったものだ。これは鉄道(函館本線)のすぐ北側での工事状況。

この道路工事で北海道大学の敷地が飛び地になってしまうので、それを繋ぐための陸橋の橋脚を作っているところ。当時は鉄道は地表を走っていたので、この道はアンダーパスになっていた。

冬は凍って、車にとっては坂を上るのが大変だった。いまは鉄道が高架になり、道はほとんど平らになった。

赤い車は初代の日産サニー1000。軽くてよくできた車だったが、100cc大きい容積のエンジンを積み、見かけだけ豪華だった初代カローラには勝てなかった。

その後、サニーはトヨタを追って肥大化して、なんの取り柄もない車になってしまった。先方には日本有数の名車スバル360も見える。

撮影機材はOlympusPen-FV。レンズはZuiko 25mm f4。フィルムはハーフサイズ。フジクローム。内式フィルムなので色褪せしたのを補正した)

この付近の現在の地図は


7-2:1976年夏。北海道大学正門前から北を望む。

札幌駅から歩いて10分ほどのところに北海道大学の正門がある。この写真の左手に正門があり、その先には北海道大学が拡がっている。

当時は、この北大前通り(西5条通り)に面しているのは、ほとんどが2階建て、まれに3階建て以上のビルが交じっていた。中央の白いビルは北海道拓殖銀行の北大前支店だったが、その後駅前支店と統合され、ここは閉鎖された。

その右の木造2階建ては、沢田商店。屋根に雪の崩落を防ぐ桟が取り付けてあるのは、当時の家としては普通だった。沢田商店は酒の小売業だが、子息は札幌NHKの局長を勤めていた。

中央右を走っているのは日産セドリックのタクシー、その左で後ろ姿はトヨタ・カローラである。ともに後輪駆動のメカニズムを持っていた。当時は前輪駆動や、ましては四輪駆動の車はごくまれで、冬になると立ち往生する車が目立った。そもそも、冬用のタイヤが普及したのは、やっとこのころで、それまでは、夏タイヤに縄を巻いて冬道を走っていた時代であった。

撮影機材はOlympusPen-FV。レンズはZuiko 25mm f4。フィルムはコダック tri-X pan ISO (ASA) 400。ハーフサイズだが、十分尖鋭である)


7-3:上の写真と同じところ。2004年初夏。北海道大学正門前から北を望む。

かつての沢田商店は、いまは建て直して、巨大な沢田ビルになっている。そのすぐ先には、さらに巨大なビルが建った。

さらに向こうにはマンションを建設中だ。

いまコンビニが入っている、交差点の角の沢田ビル一階の店は、テナントが転々とした。一時は、札幌には珍しいプラスチック製品のアンテナショップ、パソコン屋などになったが、いずれも経営には失敗したらしく、店は次々と撤退していった。北大生は、企業が期待するほど、時代の最先端を行くセンスも、十分な小遣いもなかったのであろう。

交通信号が横型から縦型になったのは、雪害(雪をかぶって見えにくくなる現象)を少なくするためだ。

この付近の現在の地図は


7-4:1976年夏。北海道大学正門前から南を望む。

同じく、正門から南を見たところ。右手が北大になる。

この北大前通り(西5条通り)は写真に見られるように、先方で坂になっていて、平地を走っていた函館本線をまたぐ陸橋になっていた。この陸橋はやがて取り壊されて、函館本線は高架線になる

こちら側も、全部が2階建てで、駅の近くだけにビルが見える。ビルが建ち並んでしまった今とは違って、空がずっと広い。

なお、この北大前通り(西5条通り)にはかつて市電が走っていたが、1972年に札幌で開かれた冬季オリンピックに合わせて地下鉄南北線が開通し、市電は撤去されてしまった。なお、地下鉄は一本東の通りを、かつての市電と平行に走っている。

撮影機材はOlympusPen-FV。レンズはZuiko 25mm f4。フィルムはコダック tri-X pan ISO (ASA) 400。ハーフサイズ)


7-5:上の写真と同じところ。2004年初夏。北海道大学正門前から南を望む。

同じく、正門から南を見たところ。右手が北大になる。「ヤマハピアノ」の看板だけが(ほとんど厳密に)同じところにかかっている。

この道は平坦になり、先方には函館本線が高架になっている。正門から駅まで、すべての建物が入れ替わった。

函館本線から北の札幌市街地は泥炭地だから、地盤は軟弱だ。このため、北大の教養部を作ったときは、法規が許すかぎりの高さ、つまり3階建てだった。また、北大の別の建物をつくったときには、基礎工事中に、かつての地震の液状化の跡が見つかったこともある。 地震学者としては、いささか心配なビルラッシュである。


8-1:1978年の仙台駅。駅ビルと新幹線の工事中。

東北新幹線が仙台まで開通したのが1982年だった。その前は、仙台駅は東北線が地上を走っていた地上の駅だった。

新幹線と駅ビルの工事が急ピッチで行われ、高架の新幹線と巨大な駅ビルと、駅前の大きなバスの発着広場が作られたが、この写真は、その前の風景をかろうじて残している。この駅ビルは「エスパル」と名付けられた。それにしても、駅ビルごとに別々のカタカナ名前を付けるのは、いいかげんにしてほしい。とても憶えきれないし、意味のないカタカナをハイカラがる時代でもあるまい。

手前を走っているのは当時のトヨタの最高級車クラウン。トヨペット・クラウンからトヨタ・クラウンへ名称が変わった最初のクラウン。クラウンとしては4代目で、1971年に登場した。

トヨタとしては総力を傾けた斬新なデザインの車で、自称「スピンドルシェイプ」と呼ばれる空力ボディだったが、クラウンの顧客であ る保守的な層からは、「蛙のクラウン」などと揶揄されてほとんど受け入れられず、あ まりに不評で、さんざんな結果になってしまった。第一次石油危機もあって、わずか3年8ヶ月の短命で次のモデルに替えられた。

もっとも、斬新なのはデザインだけで、ふわふわのサスペンションや、貧弱なロードホールディングや、あ いまいなステアリングや、大きなボディーのわりに狭い室内などのクラウンの「伝統的な欠点」は相変わらずだった。

じつはトヨタは1991年にデビューした9代目クラウンでも、消費者にそっぽを向かれた。それまでの金歯をむき出しにしたような典型的な「旦那仕様」のクラウンから、少しばかり欧州車風のデザインにしたとたんに、「大きなコロナ」には乗りたくない、と保守的な客が反発したのである。

この種の客を「いつかはクラウン」というキャッチコピーで、長年かかって育ててきたのがトヨタ流のやり方だったのだが、その客から二度目にそっぽを向かれたモデルであった。

撮影機材はOlympusPen-FV。レンズはZuiko 25mm f4。フィルムはコダック tri-X pan ISO (ASA) 400。ハーフサイズ)

この付近の現在の地図は


8-2:1974年の新潟駅前。駅前ビルの工事中。

上の仙台と同じく、新潟駅(右手)とその付近も、このころから、急激な変化を始めることになる。

この写真はその前。新潟駅北口と広場だ。不格好なバス乗り場の屋根が、まるで戦後そのままのようなたたずまいを見せている。

撮影機材はOlympus OM1。レンズはZuiko 28mm f3.5。フィルムはコダクロームKR64。1974年3月撮影)

この付近の現在の地図は



9-1:1983年3月。東京・羽田空港。滑走路がたった2本しかない。

当時の滑走路は斜交する2本だけだった。画面中央を左右に走るA滑走路と向こうのB滑走路で、その間に、小さいターミナルビルがあ った。

羽田空港は1931年日本初の民間専用空港「東京飛行場」として開港した。当時は0.53平方キロしかなかった。戦後GHQが2.57平方キロへ拡張したのが、この写真の(上半分の)姿だ。

この写真に見られるように、当時、画面の下半分に拡張する沖展(沖合展開事業)が盛んで、1984年に8.64平方キロを拡張し終わった。

今のターミナルビルとC滑走路は、手前の埋立地に作られた。

いまは4本の滑走路があり、さらに沖合に展開する予定が立っている。


1983年当時は、格納庫も駐車場も、ごく小さい。ボーディング・ブリッジも3つしか見えない。

当時、京浜急行はまだ羽田空港までは乗り入れておらず、川の向こうが終点で、バスに乗り換えないと空港までは来られなかった。

撮影機材はOlympus OM-1。レンズはZuiko 50mmf1.8。フィルムはコダクロームKR)


9-2:2005年1月。東京・羽田空港。画面右側の滑走路が増えた。

羽田空港はその後も拡張を続け、上の写真のターミナルビルは、上の写真の白い部分に移ってから、取り壊された。管制塔(空港中央の黒くて高いビル)も、ターミナルビル群の中に移された。

そして、さらに右側が埋め立てられて、新しい滑走路が出来て、これで並行した2本の滑走路が同時に使えるようになり、発着便が飛躍的に増やすことができるようになった。しかし、すでに能力一杯の離着陸が行われている。

いまの面積は12.71平方キロになった。空港の面積としては、英国ロンドンのヒースロー空港なみになったわけだ。2009年までにさらに1.5平方キロを拡張することになっている。

一般人(閣僚以下というべきか)には東京から60kmも離れた成田空港を使うように強制しておきながら、首相や天皇などの要人だけは羽田から海外へ飛ぶという「国策」を続けているのは、なんとも解せない。

上の写真にはなかった高層ビルが後背地に林立したのも、この間の大きな変化である。また、千葉県木更津から羽田近辺に向かって東京湾横断道路も開通した。

(2005年1月に撮影。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20、レンズは99mm相当)


9-3:2005年12月。東京・羽田空港。第2ターミナルビルや国際線ターミナルビルが加わった。

羽田空港は常に変貌している。

おもに全日空が使う第2ターミナルビルが運用を始め、地下に新しいモノレールの駅が出来た。また国際線のターミナルビルも運用を開始した。

この後も、画面右側の海を埋め立てて、さらに拡張することが計画されている。

(2005年12月に撮影。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20、レンズは100mm相当。 f4.0、1/600s)

この付近の現在の地図は



10-1:1983年3月。東京・池袋東口の夕景(+1986年の東口ロータリー)。

当時、池袋では写真のように、歩行者天国が日曜ごとに行われていた。

この道は池袋の五叉路や大塚方面へ向かう道だが、今のビックカメラのような大きなビルはなく、二階建ての商店が並んでいたから空が広い。この写真の範囲内では、三越デパートが最も高くて、写真に見られるようにL字型になっていたので、床面積も大きいビルだった。

その写真のすぐ右手が下の写真(1986年撮影)の駅前ロータリーになる。写真は西武デパートの7階屋上から撮った。ここは都電17番系統の始発駅で、写真の右手に向かって走っていたが、1969年に廃止された。

都バスが都電の代わりに走っている。当時の都バスは黄色の車体に赤線が入っていた。

【追記】この池袋三越は1957年に開店したものだ。しかし、その後、西武百貨店や東武百貨店との競争が激しく続き、集客で苦戦していたなかで、閉店することを2008年9月に発表した。大手百貨店が東京都心の店舗を閉めるのは、2000年のそごう東京店(東京・千代田)以来である。

(撮影機材はOlympus OM-2。レンズはZuiko 28mm f3.5。フィルムはコダクロームKR)


10-2:同じ場所の2004年1月の写真。

滑稽な形だった街路灯は変更されている。

三越は外観を変えて屋上に実際には建物がない「ダミー」の2階分を付け足して、さらに広告塔を載せたが、それでも、すっかり「小さく」なってしまった。しかも、これも時代なのか、屋上に聳えているのはカード会社の広告塔で、デパートのマークは側面にひっそりと隠れている。

20年前にはなかったゴミ焼却場の白くて高い煙突が目立つ。都会にあっては、都会の排泄物を処理するゴミ焼却の煙突とはいえ、見かけだけは美しく装わざるを得ない。


10-3:同じ場所の2009年9〜12月の写真。

そして、三越は閉店して、なくなってしまった。写真では、改装工事のためのカバーが掛けられている。

代わりに目立つのが、新興の量販店である。中央にある白壁のビックカメラはますます大きくなったうえ、近くの他のビルにも次々に支店を出した。中央右手にはヤマダ電機が割り込んできた。そして、この写真の右手にはサクラヤがあ る。

大きな書店も次々に閉店した一方、ジュンク堂が参入した。上海は2週間来ないと景色が変わるといわれているが、池袋も、上海ほどではなくても、年単位で変わっていっている。

それぞれの都会特有の土着の猥雑さがなくなって、どこの都会にもあるものしかなくなった、というのが池袋に限らず、日本の都会の現代なのであろう。戦後の闇市を知る者にとっては、 寂しいことだ。

その後、三越デパートが閉店した後は、ヤマダ電気の総本店になった。新宿と同じように、池袋は量販電気店の戦場になったのである。新宿に次いで日本に二番目に乗降客が多い池袋を狙ったビジネスである。

12月には左の写真のように、駅前や、ヤマダ電気の電飾のクリスマスツリーや、植え込みに這わされたLED照明が虚飾の彩りを添える。

この付近の現在の地図は


10-4:同じ場所。1960年8月。

上の写真の44年前。10-1にある三越デパートと三和銀行はすでにあった。富士銀行には「貯蓄から生まれる安心わく笑顔」の巨大な垂れ幕が下がっている。国民に貯蓄を勧める官民一体の大キャンペーンであった。

ビルらしいビルがあるのは、この池袋駅のすぐ近くだけで、ちょっと離れると、ほとんどが二階建ての民家が見渡すかぎり続いていた。駅のすぐ前にも、写真に見えるように、二階建ての商店が珍しくはなかった。

先方の白い建物は、巣鴨プリズン。第二次大戦の戦犯を収容した監獄である。A級戦犯7名、BC級戦犯21名がここで処刑された。その後1978年に、60階建ての高層ビルのサンシャイン60ビルがここに作られた。

左に見えるのはトロリーバス。道路の上、空中に張られた軌条から電気を取って走る電気バスだった。池袋から新宿の伊勢丹の脇を通り、明治通を渋谷駅まで走っていた。排気ガスを出さないこの乗り物を、東京都が捨ててしまったのは失政というべきであろう。

もっとも、このトロリーバスの運転は難しく、車のアクセルペダルにあたるもので、電車の運転手が左手で操作する制御器にあたる何段階ものノッチを切り替えるのはかなり大変だった。運動靴で練習した運転手は、革靴では運転できない、といわれたほど微妙な「アクセルワーク」を必要とした。

赤外線に感光する赤外フィルムを使っているので、遠くの景色は鮮明だが、木の葉が白くなっている。また、日向と日陰で、普通の写真と違って、コントラストがつきすぎている。

撮影機材はRicohflex-Y。レンズはRicoh Anastigmat 80mmf3.5。3枚構成の「トリプレット」タイプのレンズ。フィルムはサクラ・赤外フィルム。R1の赤フィルター使用)

1950-1960年の池袋の写真はこちらにも


10-5:同じ場所の2006年8月の写真。

4階建てだった角のタカセ洋菓子店(昔は屋上に森永キャラメルの大看板があった)は9階建てになり、その隣の、やはり4階建てだった富士銀行はその後の銀行併合でみずほ銀行になり、ほぼ同じ高さになった。

もっと変わったのはその左側(北側)にあった2-3階建てのビルで、いまは10階建てほどのビルになった。また上で書いたように、かつての巣鴨プリズンは、みずほ銀行の後方に聳えるサンシャイン高層ビルに変わっている。

上の写真と同じ高さから撮った写真だが、タカセや富士銀行の後ろに見えていた、ほとんどが二階建ての民家が見渡すかぎり続いていた景色は、まったく変わってしまった。

あえて同じものを探せば、地下鉄丸の内線へ降りていく階段の入り口だけだろう。

レンズの描写角度から言えば、上の写真とほぼ同じだが、東京の空はなんと狭くなってしまったのだろう。


11-1:1974年7月。札幌駅南口。

札幌駅の南口。地下鉄が通って2年後。駅舎が今と違うのはもちろん、先方の北口には高いビルがほとんど見えず、石狩湾まで見渡せた。

駅の手前に見える大きな平屋の屋根は、1972年に札幌ではじめて開通した地下鉄の駅と、地下街への入り口である。

この地下鉄は、日本で始めて、ゴムタイヤでコンクリートの路床の上を走る地下鉄で、つまりフランス・パリの地下鉄の真似であった。そのため、タイヤはフランスのミシュラン社のものを使っていた。

駅の向こう側、つまり北口に見える高いビル、といっても7、8階建てだったが、そのうちの左は八重洲ホテルというホテルだった。私の知人が夏に泊まって、冷房がないので大汗をかいたことがある。

当時は、札幌のホテルでも冷房がないのが普通だったし、バスはもちろん、タクシーも、一般車も冷房がないのが当たり前だった。また、半袖のワイシャツも売っていなかった。たとえ昼間は暑くても、夕方になると寒いくらいになるのが普通の夏だったのである。

この後、函館本線は高架線になり、このビルも取り壊された。

撮影機材はOlympusPen-FV。レンズはZuiko 25mm f4。フィルムはハーフサイズ。コダクロームKR。外式フィルムだけに、さすがに色褪せがごく少ない。ハーフサイズのポジだが、十分尖鋭である)


11-2:2009年2月。札幌駅南口。

そして約30年経って、同じ札幌駅の南口は、まるで壁のようにビルが立ち並んでしまった。なかには、JR(旧国鉄)が建てた無粋な高層ビルも、まわりを睥睨するようにそびえている。

写真を撮った日が、冬の吹雪の日の朝だったせいもあるだろう、しかし、人間味がない無機質な巨大ビルの壁に取り巻かれて「駅」が見えなくなってしまっているのは異様である。

かつて駅を越えて石狩湾まで見通せた、空の広さと明るさは、すっかりなくなってしまった。 この写真は、なるべく上の写真と同じになるような場所から撮った。


11-3:1985年5月現・札幌駅を作る直前の遺跡調査

私が北海道大学に赴任した1972年には函館本線は地上を走っていた。写真左側には、地上を走っている国鉄が見える。その後、函館本線を高架線にして、それまでの路線のすぐ北側に移す工事が行われた。

この写真は先方から手前にまっすぐ延びてきている高架線の橋梁の手前、いま札幌駅になっている場所で行われた遺跡調査風景である。

札幌では建物を建てる前には遺跡調査が義務づけられており、北海道大学でも、こういった遺跡調査で、過去の遺跡や、いままで知られていなかった巨大地震による液状化の「遺跡」が見つかっている。

この写真はほぼまっすぐ、西側を向いて撮った。向こうの山は百松沢山、また原画には大蔵シャンツェも見える。いちばん高い建物は京王プラザホテル、その左が第二流通ビル、その左手の黒い建物は当時まで使われていた札幌駅である。(この考証には檜皮久義さんのお世話になった)。

(撮影機材はPentax PC35AF。レンズはPentax 35mm F2.8。フィルムはサクラ SR200)


11-4:1988年6月函館本線の高架工事(立体化工事)が進む札幌駅西側

私が北海道大学に来た1972年以来、函館本線は地上を走っていて、立体交差になっている道は写真先方に見える西5丁目通り(北海道大学正門前通り)のほか、2本しかなかった。

この写真の手前にある西6丁目通りも、平面交差の踏切だった。札幌駅は西5丁目通り陸橋のすぐ先、列車が2台、止まっているところである。

この写真は、左側に高架線が出来て、これから、西5丁目線の陸橋を取り壊す工事が行われるところ。写真左が北側になる。

右手奥にはそごうデパートの白いビルが見える。ビルは残っているが、デパートは閉店してしまった。

この付近の現在の地図は

12-1:1985年9月。パリ(フランス)、ポンヌフ橋を「包む」芸術。

クリスト・ヤヴァシェフとジャンヌ=クロード・ギュボン(妻)の二人による「なんでも布で包んでしまう芸術」が、ちょうどパリの古橋、ポンヌフを舞台にして行われていた。

巨大な布で、このように橋や建物などの建築物をすっぽり覆ったこともあるし、小さな島をぐるりと取り巻いたこともある現代芸術である。もちろん、一回きりの芸術だ。

南側から北を望む。向こうに見える赤い垂れ幕のある建物はサマルタン・デパート。

(撮影機材はOlympus OM-4。レンズはZuiko 28mm f3.5。フィルムはコダクロームKR)

【2020年6月に追記】 クリスト氏は2020年5月31日に84歳で老衰のために米国ニューヨークの自宅でなくなった。ご冥福を祈る。
 ドイツの国会議事堂や、島々を水面に浮かぶピンク色の素材で囲んだり、オーストラリアの海岸を一面の白で覆ったり、米カリフォルニア州の丘に39キロに及ぶ布のフェンスを設置したりするなど、特に歴史的建造物を布で包む大規模アートで知られている。
 準備に数年を要し、設置には億単位の莫大な費用がかかったが、その作品はほとんどの場合、わずか数週から数か月で撤去された。


12-2:同じ場所の1988年8月

パリでいちばん古い橋であるポンヌフ橋は、黒ずんで汚れている。この橋を全部、しかもガス灯(いまは街灯)まで全部くるむのは、さぞたいへんなことだろう。現代芸術も、私たちの海底地震観測と同じく、体力の勝負のようなところがあ るにちがいない。

(撮影機材はOlympus OM-4。レンズはTamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


12-3:1985年9月。パリ(フランス)、ルーブル美術館の地下掘削。

美術館が手狭になったことと、フランス革命200年を記念して、ルーブル美術館の中庭を掘り下げて地下室を作り、そこに強化ガラスのピラミッドを作るという大計画が進行中だった。

美術館に 同居していた大蔵省を移転させ、地下に 200m×100m の大ホール (ナポレオンホール)を作り、中庭にガラスの ピラミッドを造り玄関とする工事だった。

中国系アメリカ人の建築家 I. M. ペイが設計したものだ。フランスではよくあることだが、まるで化学工場のようなポンピドーセンターをパリに作ったときと同じような景観論争が激しかった。

パリの地下は、薄い互層の水平構造になっているのが見て取れる。先方がシャンゼリゼから凱旋門へ至る方向である。

右の写真は、同時に撮ったもの。上の写真の手前側(東側)にあたる中庭だ。多くの重機が入って、さかんに地下室の工事をやっているところだった。

(撮影機材はOlympus OM-4。レンズはZuiko 28mm f3.5。フィルムはコダクロームKR)


12-4:1989年8月。パリ(フランス)、白熱した議論の中、ピラミッドが完成した。

フランス革命200年にあたる1989年に入館者の出入り口として完成して、以後、使われている。入場者は、写真の向こう側にある入り口から入って、エスカレーターで地下へ下りる。

最初は醜悪に見えたポンピドーセンターと同じで、見慣れてしまうと、それなりのものに見える。これがフランスの「革新」なのである。

他方、後方に見えるエッフェル塔は100年以上、同じ姿を見せる。じつは、これも建ったときは景観論争があった。

ピラミッドはピラミッドの底辺は35m四方、高さは20m、ピラミッドの角度は元祖、エジプトのギザのピラミッドと同じ51度である。地震が起きる国だったら、こういう池と噴水を、ここには作らないだろう。多くの客が溺れ死ぬかもしれないからである。

(撮影機材はOlympus OM-4。レンズはTamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームKL200)


13-1:1987年8月。米国西岸の活火山、セントヘレンズ(右)とレーニエ(左)

米国西岸、ワシントン州にあるセントヘレンズ火山は1980年5月に大噴火をして、山容をすっかり変えてしまった。噴火は1986年まで続いたが、この写真を撮ったときにも、噴煙が残っている。写真から15年以上がたった今は、すっかり静かになった。

1980年の噴火では、5月18日にマグニチュード5.0の地震が起きて、山頂が地すべり的に崩壊した.このため山体内部のマグマ本体が一気に露出して大爆発を起こすと同時に、爆風(ブラスト)を伴う大きな山体崩壊が発生した。

ブラストは火口から北側(写真の左側)600平方kmにもおよぶ広範囲の山林を一気に破壊した(写真では白っぽく見える)。岩屑(がんせつ)なだれ(岩屑流)は28kmも流れ下り、さらに二次的な土石流や泥流も起きた大災害になった。この一連の噴火で、57の人命が失なわれた。

また、セントへレンズ火山の山頂には巨大な馬蹄形のカルデラが作られて、山の形がすっかり変わってしまった。じつは日本の八ヶ岳も、大規模な岩屑流が起きて山の形が激変して今の八ヶ岳の形になったところだ。

奥に見えるレーニエ山も火山だが、今のところは活動はおとなしい。これらの火山は、いずれも、米国西岸の地下に潜り込んでいる太平洋の海底にあるプレートが起こす火山で、その意味では日本の火山と「兄弟分」の火山である。

(撮影機材はOlympus OM-4。レンズはTamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR。シアトル発東京行きの定期航空機の窓から)

1970年代半ば以前の写真はこちらへ


この他の飛行機から見た写真(「定期航空機から見た下界」)はこちらへ

島村英紀が撮った海底地震計の現場
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