島村英紀が撮っていたカメラ
その3:後編

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10-1:軍用カメラはかくも民生カメラと違う。英国AGI社の航空カメラ (この項目は、カメラの詳細がまだわからないので「工事中」です)

英国AGI(Aeronautics and General Instruments)社の航空カメラ。1958年製。マーク5と書いてある。1998年にノルウェー・ベルゲンで買った。右手に見える無骨な紐を引くことで、フィルムが巻き上げられ、シャッターがチャージされる。

なお、この会社AGIは、いまはなくなってしまっているが、特殊なカメラに特徴があったメーカーで、1950年代には、この会社の民生部門では、AgifoldとかAgiflexとかいう、メーカーの名前を冠した民生用のカメラが作られていた。

シャッターレリースは、右下に見える24Voltを供給する電気式のソレノイドに電気パルスを供給するか、あるいは手動で行う。

撮影レンズは下に見えるレンズで、上のレンズは、二眼レフのような仕掛けのビューファインダーのためのレンズである。カメラの向かって右に向いてファインダースクリーンがある。マット面はなく、素通しのファインダーだ。

パララックス(撮影距離によるファインダーと撮影レンズの写る範囲のずれ)を補正するための手動のダイアルがレンズの後方に見える。なお、撮影レンズ右下に見える皿状のものはフィルムコマ数計である。

フィルムは幅60mmの長巻フィルムを使うが、ブローニー(120フィルム)も使用可能だった。一コマの大きさは55mm弱 x 55mm弱。

レンズは Agilux Anastigmat 80mm f3.5。このレンズは民生用のカメラにも使われていて、尖鋭で評判のいいレンズだった。

シャッターはレンズシャッターで、1/25、1/50、1/100秒のほか、TとBがある。撮影距離はカメラ向かって左側側面にあるダイアルで設定する。本来の航空カメラならば、無限大で撮るだけで良さそうだが、このカメラは1.75フィート(53cm)まで精密な目盛が刻まれている。

またファインダーのパララックス設定も、この距離まで動作する。文献複写のような精密撮影にも使ったのであろうか。

このカメラ本体のほか、航空機に取り付けるためのブラケット(金具)や、偏光フィルターをつけるためのアダプターなど一式が、革の取っ手のついた、灰色に塗られた木箱に入っている。さすが業務用のカメラだけに、頑丈そのものに出来ているほか、分解や組み立ても容易に出来るようになっている。

重さはカメラ本体だけで3kgもある。ノルウェーから、この木箱一式を持って帰ったときは結構な荷物の重さになった。

(このカメラについてご存知の方がおられたら、お教え下されば幸いです)


11-1:「露出計」の系譜・その1。アマチュア向けの貧相な露出計

かつてカメラには露出計が入っていなかった。露出計は、写真フィルムのラチチュード(寛容度)が限られていたために、フィルムに適正な露出を与えるために必要なものだ。

露出が多すぎれば、明るい部分が「飛んでしまい」、少なすぎれば、暗い部分が「つぶれてしまう」。とくにコダクロームなどカラーポジフィルムは、適正露出の幅(ラチチュード)が、わずか1/3絞り、あるいはシャッターにして1/3段しかない。

プロの写真家の一部は、勘に頼る露出だけで十分だという。たとえば、水中写真家の第一人者、中村征夫さんは、水中撮影のときには露出は経験と勘だけで決める、と私におっしゃったことがある。

しかし、普通は、露出を正確に測って、決めることが必要だ。このために、露出計をカメラとともに持って歩くのが普通であった。

これは、アマチュアのための、もっとも安価な露出計。1960年代に買った。セコニックという、日本の露出計専業メーカーの製品だ。

プラスチックという新しい素材が工業デザインに取り入れられた初期のもので、いまから見るとなんとも安っぽい色とデザインだ。しかし、当時はソニーのラジオをはじめ、この淡い青のプラスチック素材は流行の最先端でもあった。

右下にはセレン光電池の受光窓があり、上面には、光の強さに応じて振れるメーターがある。メーターの根元にあるダイアルを回してメーターの赤い針に合わせることで、絞り値とシャッタースピードが決められる、という仕掛けである。

このときに、フィルムの感度をあらかじめ設定しておかなければならない。この露出計の場合には、(この露出計の裏にあるノブを回して)ダイアルの向こうに見える円い窓に、フィルムの感度の数字を合わせることによって、感度が設定される。

この露出計で測れる最低限の明るさは、ASA100のフィルムを使ったときにf2.0で1/30秒だった。明るい夜の室内まではかろうじて測れる、というわけである。

なお、セレン光電池は鉄の基板の上にセレン半導体を載せ、その上に、金か銀の半透明の電極をかぶせたものだ。目やフィルムが感じる各色の感度に近い特性を持っているので、露出計には最適だと思われていた。

長さは6cm。重さは40グラム。これは露出計としては小型のほうだったが、カメラとともに使うものとはいえ、カメラに内蔵するには、あまりに大きいものだった。


11-2:「露出計」の系譜・その2。電気製品は米国にかなわなかった時代

これは、1950年代の高級品である。米国のウェストン Weston というメーカーのmasterという製品だったが、セコニックがライセンス生産したもので、セコニック・マスター L104 という露出計である。

この露出計は正確なうえ、堅牢な作りだった。1960年代までの米国の電気製品の例にもれず、無骨で重かったが、性能は高く、耐久性も抜群だった。電気製品は、まだ、米国製のほうがずっと優れていた時代であった。

この露出計はメータの裏側にある。直径4cmある、丸いセレン光電池だ。このセレン部分を覆う丸い蓋があり、この蓋には、小さな穴がたくさん開いている。

つまり、この蓋を閉めれば、明るいところでの測光が、開ければ、暗いところの測光が出来るという二段階の仕組みになっている。この蓋の開け閉めと同期して、メーター内のパネルが切り替わり、光の強さを表す数字が写真のように25から1600までと、0.1から25までに切り替わる。

この露出計で測れる最低限の明るさは、ASA100のフィルムを使ったときにf1.4で1/15秒だった。上のセコニックよりは4倍、感度がいい。暗めの夜の室内までは測れる、というわけである。

向かって右側にある黒いスライドスイッチは、メーターの針を固定する仕掛けである。測りたい相手を狙って測光した値を、そのまま保持出来る。また、露出計を持ち運ぶときにも、もっとも弱い部品であるメーターを保護する役目もあった。

露出計のメーターは、ごく弱い電流を測れる電流メーターで、尖ったメーターの軸をサファイアなどの宝石で作った軸受けで支える、というデリケートな仕掛けであった。このため、震動や衝撃にはきわめて弱いものだった。

長さは8.5cm。重さは170グラムほどあり、ずっしりと重い。


11-3:「露出計」の系譜・その3。まるで合体ロボットのような「高級」露出計

これは、1950年代の高級カメラであるライカM3 (Leica M3。上の4-4) に取り付けるための専用の露出計だ。私はブエノスアイレスのカメラ屋で、中古でごく安く買ったが、発売当時は、とても高価なものだった。

なお、ブエノスアイレスは、日本と同じで、中古カメラを買うのには適していないところだ。それは、大河、ラプラタ川に近い多湿と夏の高温のせいだ。とくに、レンズの内部にカビが生えて、レンズのガラスを浸食する「病気」は、いったんかかると、進行こそすれ、直らない。

もっとも、日本でも北海道だけは別だ。ヨーロッパのオーケストラが来て、木管楽器の鳴りが、日本では北海道だけが欧州と同じ音色がする、と言ったことがある。たしかに、欧州の中古カメラで、レンズにカビが生えているものは、めったに見ない。

ところで、この露出計は、カメラと同じく、ドイツのライツ社のライカメーター Leicameterという製品で、カメラの上部(軍艦部)にあるアクセサリーシューにはめ込んで使う。そのときに、カメラのシャッターダイアルに、露出計の下にある(この写真では左側に見える)リングが噛みこんで一緒に回るようになっている。

つまり、メーターは、絞りの値だけを指示し、その値を読みとって、レンズの絞りを設定すればいい、という仕組みだった。

上のセコニックマスターは2段階の測光の切り替えだったが、この露出計は
3段階の切り替えだった。つまり一層広い測定範囲を誇っていたのである。

セレン光電池はメーターの手前に着いている。いまは、細いスリットが開いている金属製で開閉できる蓋が閉まっているが、これを開けることによって、より暗いところでの2段階目の測光が出来る。

さらに暗いところでは、ブースターと呼ばれる右側に見える巨大なセレン光電池を取り付けて、3段目の測光を行う。明るさを測れる能力は、セレン光電池の受光面積に比例するから、このブースターのような巨大な面積が必要になるのである。

ライカメーターの場合には、ブースターを取り付けて使うときには、本体の金属の蓋を閉めておくように指示されている。

この3段構えの測光方式ゆえに、
この露出計で測れる最低限の明るさは、ASA100のフィルムを使ったときにf1.5で1/4秒だった。上のセコニックマスターよりはさらに約4倍も感度がいい。当時としては、最高の感度を誇っていた。しかし、ライカメーターだけならともかく、ブースターまで取り付けたカメラは、まるで子どものオモチャの合体ロボットのような、滑稽な姿になった。

しかし、問題は、受光角であった。セレン光電池は正面だけではなく、斜めからの光にも感じる。このため、レンズに写るよりもずっと広い角度の明るさを平均的に測る、ということしかできなかったのが、この時代の露出計の宿命だった。上の11-1にあるセコニックの露出計の受光窓に見えるように、セレン光電池の感度を上げるためと、受光角を狭くするために、昆虫の複眼のようなレンズを並べているが、それでも、受光角をコントロールすることは難しかった。

このライカメーターも金属の蓋を開けた部分には複眼のレンズが並んでいる。また、上のセコニック・マスターも同じである。

上のセコニックの二つならば、露出計を被写体に十分近づけて、被写体だけの明るさを測ることが可能だった。しかし、ライカメーターを取り付けたライカM3を、被写体である人物の頬に触るほど近づける、というのは、被写体には迷惑な風景だったに違いない。

幅はブースターを入れると12cmもあり、重さも190グラムもあって、ずっしりとしている。


なお、ライカM3は、初期型とその後で、シャッター速度の系列が違っている。これは初期型のモデル専用の露出計で、シャッタースピードは、1秒, 1/2, 1/5, 1/10, 1/25, 1/50, 1/100, 1/250, 1/500, 1/1000という系列になっている。なお、その後の型は、1秒, 1/2, 1/4, 1/8, 1/15, 1/30, 1/60, 1/125, 1/250, 1/500, 1/1000という、いわゆる倍数系列である。

初期の系列はそれまでのカメラでは伝統的なもので、2とか5とか10といった、硬貨とも同じ、いわば生活実感に合わせた系列で、倍数系列は、新たに頭で考えた合理性に基づく系列と言えよう。

なお、ライカのMシリーズのカメラのシャッタースピードはシャッターのスローがバナーを切り替える1/15秒と1/3秒0の間をのぞいては、中間のシャッタースピードが任意に使える特長を持つ。それゆえ、このライカメーターも、初期型以外に使えない、というわけではない。

11-4:「露出計」の系譜・その4。その4。セレン光電池は、もう進化できなかった

はじめは米国のメーカーのライセンス生産をしていた日本の露出計メーカー、セコニックも、やがては自前で高級機まで出せるようになった。

これはセレン光電池を受光素子に使っていた、ほぼ最終型に近い。1960年代初頭の「オートリーダー 38」というモデルである。

上のライカメーターと同じく、三段階の切り替えになっている。一段目は細いスリットの付いた金属蓋、二段目がそれを開けたセレン光電池、そして三段目が、写真のようにブースターを開いて、本体のセレン光電池と足した状態だ。

開くと、ライカメーターほどではないが、合体ロボットのような大仰な形になる。

スリットの大きさは8 x 1 mmしかない。一方、ブースター部分だけでも33 x 33 mmもある。つまり、私たちの目で見ている光の強さの幅は、きわめて広い範囲にわたっているのである。

しかし、セレン光電池は、そもそも感度が低かったので、このように全部開いたときでも、測れる最低限の明るさは、ASA100のフィルムを使ったときにf1.5で1/15秒だった。

上のライカメーターより約4倍感度が悪い。しかし、当時のライカはカメラ本体が、平均的なサラリーマンの年収を超えていたほどの高価カメラであった。露出計も、金に糸目を付けずに、贅を尽くしていたのである。

それゆえ、このセコニックの感度も、名機であるウェストン、つまり11-2のライセンス生産品とほぼ同じだ。セレン光電池を使っていた当時としては、感度はもう飛躍的には進化しようがなかったのである。

長さは9cm。重さは130グラムほどある。

この露出計は私の東京大学新聞時代の先輩だった滝澤睦夫さんが1960年代の初頭に買って、私が2006年にいただいたものだ。頑丈な作りで、カメラ組込型のセレン光電池がだめになっている例が多い中で、いまでもちゃんと動作している。

11-5:「露出計」の系譜・その5。露出計の技術革新、硫化カドミウム

露出計は、光を感じるセンサーと、その光の強さを指示するメーターから構成されている。1970年代の初めまでは、セレン光電池という、一種の太陽電池(ソーラー電池)を使っていた。

これは、センサーが直接、電圧を発生するから、感度のいい電流メーターにつなげば、それで露出計になるという簡単な仕掛けだった。露出計を駆動するための電子回路も、電池も必要ではなかったのであった。視感度の分布が眼と合っているのも特長であった。

なお、セレンが光を感じるのが分かったのは19世紀。光電素子のなかでも、いちばん早かった。

しかし一方で、上に書いたように、セレン光電池は、光を受ける受光角が広すぎるという欠点を持っていたほか、暗いところで測る能力が低いという欠点も持っていた。フィルムの感度は飛躍的に進歩しており、高感度フィルムを暗いところで使ううえで、高感度の露出計の出現が待たれていた。

そこで登場したのが、第二世代の露出計、CdS(硫化カドミウム)をセンサーに使った露出計だった。このCdSは太陽電池の仲間ではない。つまり、光が当たると発電するのではなく、光が当たると、電気抵抗が変化するセンサーであった。

このために、露出計としては、このセンサーの抵抗値を拾い出してメーターを振らせる電子回路と、それをまかなうための電池が必要だった。また、各色の感度分布も目やフィルムの感度分布に近かったので都合がよかった。

CdSを使った露出計の特長は、セレン露出計よりは、ずっと感度が高かったことだ。

このため、セレン露出計に比べて、約10倍も暗いところでも測れるようになって、露出計は、ほとんどすべてが、このCdS方式に置き換わった。11-3のライカメーターも、全体のデザインは同じだが、後期にはCdS方式になった。写真のセコニックの露出計では、ASA100のフィルムのとき、f1.4で2秒まで測ることが出来る。これなら、当時の高感度フィルムでも、十分使いものになった。

また、感度が高いことから、センサーの受光角をごく狭くしても、十分な感度で測光することが出来るようになった。このため、カメラ内部に組み込んで、いわゆるTTL(スルー・ザ・レンズ)測光が可能になったのも、このCdSのおかげである。

このセコニック露出計は、セコニック・マルチルミ L-248。1970年代半ばの製品だ。1975年の『日本カメラショーカタログ』には出ているが、1980年のには出ていない。カメラに露出計を組み込むことが当たり前になって露出計専業メーカーが立ち行かなくなって、1870年代にはセコニックの経営が傾き、シャッターメーカーのコパルの一部になっていた。

受光窓は写真右側にある。白いプラスチックカバーが左右にスライドする方式になっていて受光窓を覆うようになっており、覆ったときは、「入射光式」の露出計になる。つまり太陽や、いちばん明るい照明に向けて測光して、適正な露出を決める方式である。

「入射光式」ではない11-1〜11-4の露出計は「反射光式」と言われ、このセコニック・マルチルミは兼用式であ
る。

写真下の灰色のボタンは、ボタンを押したときだけ測光する測光ボタン。上の灰色のレバーは、上のセコニックマスターと同じく、測光したメーターの指針を固定するレバーである。電池は水銀電池H-Dを1個使う。いまは、この電池は水銀の規制で、入手できない。

長さは10cm。重さは160グラムほどあり、結構、ずっしりと重い。

しかし、CdSの露出計も、いいことばかりではなかった。セレン露出計と違って、電池を必要とすることのほか、低照度になるほど、センサーとしての反応が鈍くなることであった。この欠点は、とくにカメラに組み込んだときに顕著で、いわゆる絞り込み測光のときには、反応するまでに10秒も待たなければならないこともあった(7-2)。

このため、CdSは、やがて、ガリウム砒素やシリコン半導体など、新しいセンサー(たとえば9-1)に、その座を譲っていくことになる。

なお、この露出計も、このホームページの隠れた愛読者であった、私の東大新聞の先輩で、優れた編集者でもある小塚直正氏からホームページの充実のために、と2006年にいただいたものだ。


12-1:「カメラの最後の自動化」オートフォーカスの系譜・その1。高名な地球物理学者を「騙した」初期のオートフォーカス

かつてカメラには距離計は組み込まれていなかった。距離計は遠くの山岳写真を撮ったりするのではない限り、ピントのいい写真を撮るためには必要なものだ。

市販のカメラに世界でも早い段階で距離計を組み込んだのは4-3にあるバルナック型のライカだった。カメラ上部、通称軍艦部に、1-1のような光学的な三角測量をする距離計を組み込んだもので、当時は、これを「自動焦点」、つまりオートフォーカスと呼んでいた。

しかし、もちろんこれは、本当の意味での自動焦点ではない。人間がファインダーを覗き込んで、二重になっている被写体の像を合致させるようにレンズを繰り出さなければ、カメラとしてのピントは合わない。

カメラが自分でピントを合わせてくれる、本当の意味のオートフォーカスのカメラが市販されるようになったのは1970年代の終わり(12-3)だった。

しかし、一般の人にとって実用になるまで、そしてさらに、プロのカメラマンにとって使い物になるまでは、長い道のりになった。

カメラは、すべて手動だった初期のものから、やがて、自動露出、フィルムの自動巻き上げ、自動巻き戻しと自動化が進んできていた。最後の手ごわい牙城が自動焦点だったのであった。

各カメラメーカーやレンズメーカーは、技術を競って、いまから見れば未完成の製品を世に問うた。悪く言えば、自動車メーカーの数々の新装置と同じように、消費者をモルモットにしたわけである。

これは、比較的初期、つまり1980年代初期のペンタックス(旭光学)の赤外線オートフォーカスカメラ、PC35AFだ。 発売されたのは1982年11月、当時の定価は37,000円だった。

カメラ上部にある、角を丸めた二つの窓の片方から赤外線を発射し、被写体から反射して帰ってきた赤外線を、もう片方の窓で受けて、その反射光線が帰ってきた角度から三角測量を行い、距離を算出する。

そうして決めた距離に応じて、レンズを前後に駆動して、被写体までのピントを合わせよう、という仕掛けであった。原理はとても、もっともらしい。メーカーは一流メーカーのペンタックスだ。すぐに飛びついて買った高名な地球物理学者がいた。米国のカーネギー研究所のS博士だ。優れた学者であるだけではなく、地球物理学のために数々の新しい機械を自作した。東海地震の予知のために日本の気象庁が、ほとんど唯一、頼りにしている体積歪計(しかしS博士のせいではなくて、地震予知には問題が山積している体積歪計)は、彼が発明したものだ。

しかし、S博士は、とてもがっかりした。じつは私も同時期に買ったのだが、やはり落胆した。私のカメラの中で、フィルムを通したことが最も少なかったカメラである。

このカメラの焦点調節は、無限大から最短距離まで、わずか4ステップしかなかったのである。これでは、いわゆるゾーンフォーカス、つまり目測で距離を設定するカメラなみである。十分絞り込まれた状態で、つまり明るい屋外で撮り、しかもサービスサイズくらいにしか引き伸ばさない写真ならともかく、写真ではプロ級のS博士の用途に耐えるものではなかった。レンズはペンタックス35mm/F2.8 5群5枚構成の凝ったものだったが、これでは宝の持ち腐れである。

ちなみに、S博士はニコン Nikon の最高級の一眼レフと、いちばん明るい、それゆえに高価で重い驚くほど多数の交換レンズと、水中撮影用のハウジングまで一式を持つ。車も、ランシア・フラミニアとかマセラティ・クアトロポルテといったイタリアの高級なクラシックカーを持っていて、自宅にある大きな地下ガレージで、モーツアルトを聴きながら、最高級の工具を使って、自分でとことんまで整備する趣味を持っている。

撮影したカラーフィルムの保存についても詳しく、たとえばコダクロームのような外式のフィルムしか使わない。つまり、プロ並みの機材と知識を蓄えているのである。


しかし、不思議なことがあった。私に限らず、親しい知人や友人の誰もが、彼が撮った写真を見せてもらったことがない、ということだった

ところで、この赤外線方式(アクティブ・フォーカシングと言われる)は、暗いところでも測距が出来るという利点は持つものの、被写体がちょっとでも遠かったり小さかったらピントが合わないという重大な欠点も持っていた。

しかも、前蓋がスライド式で閉まるという、このカメラのデザインは1-6のオリンパスXAの、明確なパクリである。ストロボが組み込まれていることは XA と違うが、四角い窓のファインダーやレンズが前蓋でカバーされることは、あまりにも似たデザインになっている。

なお、ストロボは上の写真では前蓋に隠れているが、使用時には上部に突き出すように(ポップアップ式に)なっている。

なお、レンズの下部にあるのは露出計の受光窓である。8-1のニコレックス35と違って、太陽光がレンズの鏡胴に反射して間違った指示をすることがないのが、受光窓がレンズの下部にある取り柄である。

12-2:「カメラの最後の自動化」オートフォーカスの系譜・その2。レンズメーカーの卓抜な着想

カメラの進化の、最後の手ごわい牙城が自動焦点。20世紀最後から21世紀初めにかけて、自動車メーカーが将来の生き残りをかけて燃料電池や水素自動車の開発に走ったときのように、この時代のカメラメーカーは、一斉に、オートフォーカスに向けて走り出していた。

カメラメーカーでは、ミノルタが一歩先行した。ミノルタの一眼レフミノルタα7000は、初のオートフォーカス一眼レフとして、衝撃的なデビューを飾り、当時主力だった米国市場(こちらでは Minolta Maxam という名だった)でも、日本市場でも、よく売れた。

しかし、その心臓部であるオートフォーカス・モジュールが、米国ハネウェル社の巧妙な特許戦術に引っかけられた。米国での裁判で、有能な弁護士を高額で雇ったハネウェルに、ミノルタはじめ、日本のカメラメーカーはすべて敗れ去って、極めて多額の金を払わされることになった。


この裁判のあと、ハネウェル側についた弁護士が、「もし私がミノルタ側についたら、当然勝っていただろう」と言った。法廷での真実は、「本当の真実」とは一致しないことがあるのだ。

この辺の事情は、故・小倉磐夫『カメラと戦争―光学技術者たちの挑戦』(朝日新聞出版局、1994年、いまは文庫版を売っている)や、その後に出た『国産カメラ開発物語』(朝日選書、2001年)に詳しい。

ころで、各カメラメーカーが、当時のレンズ交換式の高級カメラのスタンダードになっていた一眼レフカメラにオートフォーカスのメカニズムを組み込むのに苦心していたときに、ダークホースが登場した。

それは、一眼レフのボディーではなくて、レンズの方にオートフォーカスを組み込んでやろう、という仕掛けであった。

これなら、すでに内部がメカニズムや電子回路でぎっしり詰まってしまっているカメラボディを改造する必要はない。さらに、レンズ専業メーカーからすれば、レンズマウント部分だけをいくつか用意すれば、どんな一眼レフにも取付可能なレンズになる。

こうして、写真のコシナ・オートフォーカスレンズが生まれた。コシナは長野県にあるレンズと大衆カメラのメーカーだ。現在に至るまで、カメラ好きのファンのために、ユニークな製品を作るので有名なメーカーである。

左は28 - 70 mm(f3.5 - 4.8)の広角ズームレンズ、右は75 - 200 mm(f4.5)の望遠ズームレンズだ。ともに、オートフォーカスだ。モジュールをレンズの内部に組み込んであって、レンズ単体でオートフォーカスが可能になっている。

広角レンズは、オートフォーカスのための測距用の窓が前面に開いている。望遠レンズはレンズ口径が大きいために、この別窓ではなく、レンズの端を通ってきた光線でオートフォーカスのメカニズムを動作させるので、測距用の窓はない。

ともに、単4電池を3本収納して、それで電子回路を駆動した。レンズ側面についている卵形のボタンを押している間だけ、オートフォーカスが作動する。なお、電池には電圧が1.2Vと低いが電流容量が大きいニッカド電池が使えない、という欠点があった。

これらのレンズには、測距を終わったとき、電気信号を取り出せる仕掛けがある。つまり、ピントがあったときにシャッターを切ることもできる仕掛けだ。

コシナのほか、レンズ専業メーカーのタムロンも、この望遠ズームとよく似たオートフォーカスレンズを作って売っていた。また、一眼レフメーカーのニコンやペンタックスも、それぞれのボディ専用のオートフォーカスレンズを作って売り出した。

しかし、この時代のどのオートフォーカスレンズも、実用に耐えるものではなかった。目新しさに飛びついた客だけが買い、それぞれ、苦い失望を味わったレンズであった。第一に、オートフォーカスの反応が遅い。また、測距精度も、しばしば、十分ではなかった。

これは、ニコンやペンタックスのレンズでも同じだった。ほとんど試作品のような、レンズ鏡胴が不格好に膨らんだ形だったし、性能も十分ではなかった。

しかし、「遊び」の領域では、これらのレンズは遊び甲斐があった。

私の場合は、これらのレンズはオリンパス一眼レフのレンズマウントだったために、すでに私が持っていたオリンパスレンズ・ライカL39マウントの変換アダプターを取り付けることによって、昔のライカ(たとえば4-3, 4-4, 4-5)が、オートフォーカスカメラに変身するからであった。

もちろん、ファインダーがズームに連動するわけではない。しかし、ライカMシリーズは広角から望遠までのファインダーがすでに組み込まれているので、レンズ鏡胴にある焦点距離の数字を参照することで、それなりのファインダーとして使えないわけではない。

もちろん、オートフォーカスで、どこに、どのくらい、ちゃんとピントがあったのかは、フィルムを現像してみるまで分からない。これが一眼レフに取り付けたのと違うところだ。

ときには失敗もある。しかし、この組み合わせは楽しい経験であった。

ちなみに、この28 - 70 mm広角レンズは、なかなか解像力がいいレンズで、オートフォーカスとして使わないときでも、私は愛用した。

12-3:そして、カメラのサニーやカローラは、みな、オートフォーカスを備えた安っぽいプラスチックカメラに雪崩を打った。コニカ Konica C35AF、キャノンCanon AF35-ML。

カメラ上部にある、二つの窓の片方から赤外線を発射し、被写体から反射して帰ってきた赤外線を、もう片方の窓で受けて、その反射光線が帰ってきた角度から三角測量を行い、距離を算出する。

この写真のコニカKonica C35AFが、世界初、自動焦点調節機能(AF)を商品化したカメラだった。1977年11月に発売になった。つまり、上のPentaxは追随者だったのである。このコニカC35AFは、
愛称の「ジャスピンコニカ」と呼ばれ、AFカメラの代名詞となったほどだった。

当時の価格は44,800円。結構な高価カメラだったが、シャッター速度は、1/60、1/125、1/250秒の3速しかなかった。

そうして決めた距離に応じて、レンズを前後に駆動して、被写体までのピントを合わせよう、という「赤外線オートフォーカス」の仕掛けは、あっという間に、カメラメーカーに行き渡った。

12-1のペンタックス(旭光学)のほか、左のコニカ、左下のキャノンをはじめ、この種の仕掛けを持つ大衆カメラを作っていないメーカーはないほど、普及していった。

そして、そのどれもが、それまでの金属外装をやめて、製作コストが安い、黒いプラスチック外装になっていったのも、この時期であった。

このコニカC35を同じ名前を持つ、ちょっと前のコニカC35(5-3)と比べてみてほしい。レンズはまったく同じ3群4枚のヘキサノンHexanon 35mm F2.8、露出計を組み込んだレンズまわりのデザインも同じだ。フィルター径も46mmで同じものである。なんと品のないプラスチックカメラに堕してしまったのであろう。なお、レンズの向かって右側にある透明のプラスチックと、その上に書いてある赤い目盛り風のものは、なんの機能もない飾りである。

しかし、なんと安っぽくなってしまったのであろう。クローム梨地メッキから、"Konica C35"という一体成形の浮き出し字を持つプラモデルのような仕上げになってしまっている。

この、世界で初めてのオートフォーカスカメラの発売日を記念して、11月30日が「カメラの日」とされている。しかし、技術的にはともかく、このデザインと品質感では、記念すべきカメラ、というには、あまりに貧相である。

これは、コニカにはかぎらない。キャノンの同時期のモデル、AF35-ML(左)も、プラスチックの高級感は、上のコニカよりは少しはあるとはいえ、ほぼ同じ外観を持つ、プラスチックカメラになってしまっているのである。上のコニカC35AFと違うところは、巻き上げが手動ではなく、電気モーターになっていることだ。

なお、この二つのカメラとも、向かって右のカメラの肩に、ストロボ発光器を組み込んである。人物の目が赤く写る「赤目現象」を少しでも軽減するために、ストロボ使用時は、ストロボがせり上がる
ポップアップ式になっている。電源は、カメラとストロボ共通で、単3型電池2本を使う。

コニカC35は、じつはレンズシャッターの大衆カメラに、ストロボ発光器を組み込んだパイオニアである。このオートフォーカスのちょっと前の時代に、ストロボ発光器を組み込んだ「ピッカリコニカ」で、市場を席巻した。それまでは、ストロボは、別の電池を入れた単体のものをカメラの上部に取り付けていたから、これは、大きな進歩だった。

この「ストロボ組み込み」は、その後、一眼レフの一部にまで普及し、デジカメのいまも、カメラの主流になった。

なお、このキャノンAF35-MLは、カメラのどこにも書いていないが「キャノン・オートボーイ・スーパー」という名が付いていた。発売されたのは1981年7月、当時の価格は47,800円、カメラを買ったら否応なしに付いてきてしまうケースが2,000円だった。

レンズは40mm F1.9という、5群5枚構成の明るいレンズを付けている。レンズが明るいわりには安い、というので爆発的に売れたキャノネットで味を占めたキャノンが作り続けていたレンズだ。しかし、このレンズは、描写品質からいえば、とても貧弱なレンズだった。”日本人好みの”「仕様の数字だけが立派」な、じつは安物のレンズだったのである。そして、当時のオートフォーカスの能力は、F1.9のレンズを開放で使うための精密な測距能力は持っていなかった。その意味でも、この明るいレンズは、使えるしろものではなかった。

ところで、この赤外線オートフォーカスは、重大な欠点があった。被写体が遠いと、赤外線が反射して帰ってこないので、約6mから遠くでは、ピントが合わないことだった。 赤外線が反射して帰ってこないと、カメラは、被写体が無限大の距離にあると判断する。つまり、中距離ではピンぼけになることが多いのであった。

また、もっと近くても、赤外線が反射しにくい被写体だと、やはりピントが合わない。そのうえ、ガラス越しの景色を撮ろうとすると、ガラスからの赤外線反射を被写体までの距離だとカメラが思ってしまうので、これもピンぼけになってしまう。いろいろと問題の多いオートフォーカスなのであった。

なお、これらのカメラも、このホームページの隠れた愛読者である、私の先輩の編集者、小塚直正氏からホームページの充実のために、と2007年にいただいたものだ。

12-4:オートフォーカスの洗練の系譜。コニカKonica Big Mini。そしてその後のステップ数の増加

メーカー間の競争は激しい。大衆カメラのオートフォーカスで先行したコニカは、後から追ってくる競争相手を蹴落とすべく、世界一小型軽量で、しかもA4サイズの複写まで出来るというビジネス用途にも使える新型カメラを発売して、大きな成功を収めた。

それが、この「ビッグミニ」だった。初代は1989年2月に発売されたもので、横幅117×高さ63×奥行き36mm、重量 195gという当時、世界最小、最軽量を謳っていた。価格は 37,000円だった。

形も、いままでのカメラにはない、のっぺらぼうながら、それなりにすぐれたデザインの特徴ある形だった。

そして、このカメラの最大の特長は、「ちゃんと写る」ことだった。つまりオートフォーカスで焦点調節をする、そのステップ数(AFステップ数)が、12-1のペンタックス Pentax 35AFのわずか4ステップと比べて23ステップ、とそれまでのオートフォーカスカメラに比べて、多かったことだった。

このビッグミニのレンズはKONICA35mmF3.5(4群4枚)の準広角だった。0.6m〜∞のオートフォーカスのほか、0.35〜0.6mの範囲のクローズアップ撮影が可能で、この最短の35cmのときに、A4判いっぱいの複写が可能だった。

電池は、CR123Aのリチウム電池をカメラ用(フィルム巻き上げ、オートフォーカス、シャッター、ストロボ、フィルム巻き戻し)に、またフィルムの端に焼き込むオートデートの電源に、別のリチウム電池 CR2025が必要だった。

写真のカメラは2代目のビッグミニ、BM201で、1990年9月に発売になった、マイナーチェンジモデルだ。重さは188 g(電池やフィルムを除く本体)で、たとえば上記キャノンの488 g(同)と比べて、大幅に軽くて小型だ。

さらに1992年.3月、さらに小型軽量化された3代目のビッグミニ、BM301が出た。初代と2代目がAFステップ数23ステップなのに対し、198ステップと大幅に増えた。これならば、手動の焦点調節よりも細かいくらいになる。

しかし、AFステップ数を細かくしても、赤外線オートフォーカス方式の限界があった。このため、別のオートフォーカスである、パッシブオートフォーカスが必要になってきたのであった。いろいろな方式があったが、ひとつは、二つの窓から被写体像を見て、ミラーを動かしながら両方の像が一致する個所を探す方式で、つまり、ライカ以来の、眼で焦点調節をする方式そのものを機械化したものだった。

パッシブオートフォーカスのひとつであるCCD-AFは、コントラストAFとも呼ばれる。その後、多くのコンパクトデジタルカメラが一般的に採用するようになったAF測距の方式である。これは、レンズを前後に素早く駆動させながら、被写体のコントラストが最も高くなるピーク位置を探してピントを合わせる。この方式は正確にピント合わせができるのが特徴だ。

しかし、この方式にも弱点があった。コントラストの低い被写体や輝度が低い被写体では、ピント位置を探し出すまでの測距時間が長くなってしまったり、ピントが合わない、という弱みだった。

なお、このコニカのカメラも、このホームページの隠れた愛読者である、私の先輩の編集者、小塚直正氏からホームページの充実のために、と2007年にいただいたものだ。


12-5:オートフォーカスの洗練の系譜。京セラKyocera T-proof と京セラ「最後のコンパクトカメラ」 Kyocera T-zoom。「デジタル」以前に、私が最後まで使っていたカメラ。

左は、私が持っている京セラ Kyocera T-proof というカメラだ。発売は1995年9月、当時の定価は41,000円だった。

私がこのカメラを買った理由は、デザインが美しいこと、そしてレンズがカールツァイス テッサーT*35mm F3.5(3群4枚)だったことだ。コンタックスT(1-5)に迫る描写をするレンズだった。

また、生活防水(JIS保護等級4)だったことも、あちこちのフィールドへ持っていくカメラとしてはありがたいことであった。

AFのステップ数は160で、0.35m〜∞の距離をカバーする。つまり、このカメラは、性能も、値段も、上のビッグミニのライバルであった。コニカが先行した大衆カメラのオートフォーカスも、その後、どのカメラメーカーも追随し、AFステップ数も実用に耐える段数に増えてきていたのであった。

また京セラは「赤外線アクティブマルチオートフォーカス(3点測距)」方式を使い、普通の赤外線オートフォーカスよりは精度が高いと謳っていた。

このカメラも、ビッグミニなみの、118(幅)×64.5(高さ)×42(奥行き)mm、重さも 200g(電池別)と軽い。電池は、ビッグミニと同じく、CR123Aのリチウム電池をカメラ用(フィルム巻き上げ、オートフォーカス、シャッター、ストロボ、フィルム巻き戻し)に使う。ビッグミニと違うことは、日付や時間をフィルムの端に焼き込むオートデートも、この電池でまかなっていることだ。1個の電池で、24枚撮りフィルム20本(50%ストロボ使用)使える、と公称していた。

このカメラのユニークなことは、初期型の一眼レフや二眼レフのようなウェイストレベルファインダー(カメラを上から覗き込むファインダー)がついていることだった。「ニューアングルスコープ」と称され、カメラ上部にある小さい四角い窓に、カメラが映す景色が見える。ファインダーの対物レンズは、三つ並んだ円い窓の真ん中の小さい窓だ。

じつは、このカメラの前身に「京セラ・T scope スコープ」というものがあり、このウェイストレベルファインダーを売り物にしていたが、あまり売れなかった。そのカメラから、引き継いだファインダーなのである。

この T-scope は1988年 2月に発売され、レンズはTessar T*35mm F2.8。当時の定価は 46,800円だった。

じつは私はそのカメラを持っていたが、不具合になり、この T-proof に替えたものだ。T-scopeもT*レンズを持っていたが、後玉が極端に大きくて曲率も大きい、見ていても不思議なレンズだった。

私がその後に買ったカメラが、この京セラ Kyocera T-zoom であった。上のカメラの兄弟分にあたり、レンズが単焦点ではなく、28-70mm のカール・ツァイス・バリオ・テッサー Vario-Tessar F4.5-8 (6群7枚)になっている。

デザインは美しい、と言えなくもないが、上の T-proof のようなきわだった美しさはない。しかし、上のビッグミニほどのっぺらぼうではなく、指の滑り止めも付いていて、握りやすい。

T-proof とちがって、前カバーが金属になったのが「売り」だったが、私は T-proof はプラスチック外装のカメラとしては、抜きん出て美しいと思う。

しかし、フィールドワークでは、単焦点レンズは、たとえ暗いレンズでも、ズームレンズの便利さには敵わなかった。

このカメラの発売は 2002年 8月。上の京セラ Kyocera T-proof が製造中止になってからであった。当時の定価は 43,000円だった。

このカメラも、上の Kyocere P-proof と同じように、よく写った。私が比較的満足していたカメラである。このカメラで、京セラは「高精度パッシブ式5点マルチオートフォーカス方式を使い、精度が高いオートフォーカスを謳っていた。また、最長2分までの長時間露光も可能で、映像表現によっては有効だった。

このカメラには驚かされたことがあった。やや暗いところでピントを合わせるためにシャッターボタンを半押しすると、いきなりフラッシュが発光することだった。

これは、ピントを合わせるための補助光だった。赤外線オートフォーカスよりも一段進んだ仕掛けではあったが、撮り終わったと思って動いてしまう被写体を生みやすい仕掛けでもあった。

電池は、上の京セラ T proof と同じく、CR123Aのリチウム電池をカメラ用(フィルム巻き上げ、オートフォーカス、シャッター、ストロボ、フィルム巻き戻し)に使う。1個の電池で、常温で24枚撮りフィルム15本(50%ストロボ使用)使える、と公称していた。

なお、京セラはカメラメーカーのヤシカを1984年に吸収合併した会社で、海外ではいまだにヤシカ・ブランドのほうがよほどよく知られているために、これら二つのカメラは、海外では、ヤシカの名が付けられている。

しかし、その京セラは、この T-zoom 発売後2年を経ずして、2004年10月に「京セラ」ブランドのカメラの生産から撤退し、さらに2005年3月には、「コンタックス CONTAX」ブランドのデジカメで、鳴り物入りで宣伝していた「CONTAX N Digital 」「CONTAX T3」「CONTAX Gシステム」「CONTAX Nシステム」をやめ、同年4月末には、「CONTAX コンパクトデジタルカメラ」を6月末に生産終了するなど、すべてのカメラ生産から撤退してしまった。

こうして京セラは1975年に『CONTAX RTS』を発売してカメラメーカーとしてデビューして以来、30年の歴史に幕を下ろしてしまった。現在、カメラ部門は携帯電話の部品事業になっている。また、2007年にはヤシカの商標を香港の企業グループに売り渡してしまった。

つまり、京セラという「大企業」にとっては、儲かるか、儲からないか、だけがカメラを作っていく判断だったわけなのである。アフターサービス(レンズ交換式一眼レフは10年間、コンパクトデジカメは5年間)の期限が切れてしまったあとは、京セラ(コンタックス)のカメラは、ゴミになるしかない。


12-6:オートフォーカスの洗練の系譜。実用になるオートフォーカス一眼レフは1980年代の後半に。Canon EOS 650。

コンパクトカメラがオートフォーカスに雪崩を打っていったときにも、一眼レフはオートフォーカスに乗り出すのに慎重だった。コンパクトカメラよりは高度なユーザー層が満足できる測距の精度や速さ、それにレンズを交換することによる制約など、いろいろなハードルがあったからであった。

そのため、各メーカーは試作を繰り返すのと同時に、パイロット的な未熟な製品を売り出して、消費者の反応を探っていた。

たとえばニコンF3では、1983年に、取り外せるファインダー部分にオートフォーカス機構を組み込んだ巨大なファインダーユニットを出し、これも専用のレンズ2本(フォーカス駆動用のモーターを内蔵している80mmと200mmレンズ)では、オートフォーカスが可能になった。Nikon F3AFである。しかし、測距動作も遅く、それ以上に、不格好であった。

ニコンが、まともなオートフォーカス一眼レフを出したのは、1988年の末に発売したニコンF4(Nikon F4)が最初だった。このモデルから、ようやく予測駆動フォーカス(動いている被写体の動きを予測して、シャッターが切れる瞬間のフォーカスに合わせる)が可能になった。

これに対して、1985年2月、 ミノルタはα-7000を出した。発売当初から13本の交換レンズを揃えるなど、本格的なオートフォーカス機で、アマチュア用としては十分な性能を持っていた。当時としては他社よりも速くて精度もいいオートフォーカスで、世界的なベストセラーになった。なお、米国ではマクサムという別名で売られていた。

これを社運を賭けて追ったのが、キャノンCanon EOS650 だった。発売は、ミノルタに遅れること2年、ニコンNikon F4に先駆けること1年半の1987年3月だった。ボディー単体の値段も、ミノルタの88000円に対して、キャノンらしい安価路線で80000円だった。

キャノンが総力をあげただけに、オートフォーカス機としての性能は、先行するミノルタに勝るものだった。キャノンの宣伝によれば「自社製の高感度、高微細性で高精度AFが実現できる測距センサーを完成、スーパーマイクロコンピュータ等の最新技術を積極的に導入し、比類ないオートフォーカスを実現」とある。

ここで「自社製」とあるのには、深い意味がある。先行するミノルタが、米国ハネウェル社との特許係争に巻き込まれるなど、各社とも、特許問題でピリピリしていたからであった。しかし、結果的には、ハネウェル社の巧妙な戦術に破れて、ミノルタだけではなく、日本の各メーカーが莫大な金を払わされることになってしまった。

一眼レフのオートフォーカスはTTL位相差検出方式を使っている。撮影レンズを通ってきた結像のズレを検出して一致させるもので、コンパクトカメラのオートフォーカスよりはずっと精度が高いし、被写体が暗くてもオートフォーカスは可能である。ハネウェルは、この技術の広い範囲で提訴してきたのであった。このEOS650も EV1〜18 (ISO 100)という広い範囲でオートフォーカスが可能だった。

キャノンのオートフォーカス一眼レフは、この EOS650 を初代として、現在のデジカメのEOSまで、連綿として続いている。ミノルタも、ニコンも、オートフォーカス機はその後、代替わりをしてしまったから、EOSだけがオートフォーカス機の名前を継続している。その意味では、この EOS650 は歴史的なカメラである。

一眼レフのオートフォーカス(AF)駆動のレンズ駆動には二つの種類がある。レンズを駆動するモーターをボディー側に持つか、レンズ側に持つか、という違いである。これには一長一短があり、ボディー内蔵型のほうが一般には安価だが、レンズによってはオートフォーカスの遅さや、駆動するときの音がうるさい欠点もある。

メーカー別にいえば、キャノンは最初からレンズ内蔵型だった。それぞれのレンズがオートフォーカス駆動のためのモーターを内蔵していたのである。これはキャノンが小型で薄い超音波モーターを開発していた自信から来るもので、たしかに超音波モーター駆動は、高トルクで駆動音もなく、スッと止まる高速が売り物だった。しかし、キャノンも、レンズによっては、超音波モーターではない通常のモーター内蔵型のレンズも多かった。

この EOS650 は、超音波モーター内蔵のレンズ、35-80mm F4.0-5.6 をつけている。このような大衆向けの安価な標準ズームレンズにも超音波モーターを採用するのがキャノンの大衆戦略のうまさであった。

これに対し、ニコンはボディー内モーターであった。ボディーからレンズの中へ軸が突き出して、レンズの焦点調節を行うという仕掛けだ。しかし、ニコンなどキャノン以外のメーカーも、後年、レンズによってはレンズ内蔵型のレンズも売り出すようになった。

しかし、一眼レフのオートフォーカスに、プロカメラマンは、かなり長い間、強い拒否反応を示した。

理由は、オートフォーカスが動作するためかシャッターのタイムラグとか、、思ったところにピントを合わせられない、たとえば斜めの顔写真のときに、オートフォーカスでは手前の目のまつ毛には合わせられない
とか、であった。もっともな理屈ではあったが、深層心理としては、マニュアルのピント合わせこそがプロの技能であり命だったカメラマンにとっては、生理的な反発も強かったのであろう。

じつはプロカメラマンは(昔も、今も)驚くほど保守的な人種である。このオートフォーカスの登場のはるか前にも、たとえば(それまでのモノクロ=白黒フィルムの時代から)カラーフィルムが登場したときには、写真家のアンリ・カルティエ・ブレッソンが、カラー表現をこき下ろす評論を1952年に書き残している(註)
し、その後も、自動露出、そしてデジカメに対する、ほとんど反感といえるほどの反発も、彼らの保守性をよく現している。

註)ブレッソンは1985年になっても、配合によってどんな色でも作り出せる光の三原色を理解していないらしく、「パステルの緑には、なんと375もの色調があるというのに!」と書き残している。

しかし、その反発も、もっともだった面もある。たとえばニコンの初期のオートフォーカスは、キャノンのものに比べて、明らかに遅かった。暗所などの悪条件下ではEOSよりフォーカス精度が高い、とニコンは宣伝したが、「遅い」オートフォーカスは、当時としては勝ち目がなくて、キャノンの一人勝ちが続いた。

そのほか、ペンタックスやオリンパスもオートフォーカスの戦線に参加した。しかし、キャノンとニコン、そして三番手に落ちてしまったミノルタよりも、さらに下のシェアしかとれなかった。技術的な特徴もなく、多数の交換レンズを含めたシステム全体を切り替えるだけの投資が出来ない規模のメーカーのつらさであった。

もっとも惨めだったのは、かつて OM1OM2 で独創性を発揮し、一世を風靡したオリンパスであった。他社のオートフォーカス化に乗り遅れまいと、ミノルタの一年遅れの1986年にOM707 というオートフォーカス一眼レフを出したが、独創的でもなく、技術的な取り柄もなかったので、ほとんど売れなかった。独創性が売りものだったメーカーが独創性を失ってしまった結末は、残酷なものであった。

(このカメラは私の長女が、大学の先輩から譲ってもらって使っていたものだ)。

13-1:フィルムカメラのひとつの夢。しかし一夜にして崩れさったインスタントカメラの「王国」

オートフォーカスと並ぶ、あるいはそれ以上の「カメラの夢」のひとつは、撮ったらすぐ見られるカメラだった。フィルムに撮影するカメラでは、撮影したあと、フィルムを現像、水洗、定着、水洗、乾燥し、そのあと、引伸機にかけて印画紙に焼き付け、その印画紙を現像、水洗、定着、水洗、乾燥(そしてフェロタイプという表面光沢処理を)するという、手間のかかる過程が必要だった。

このため、普通はフィルムの現像を依頼して早くて数時間、コダクロームフィルムのような外式の現像を必要とするフィルムだと、横浜の現像所に送って数日かかるのが普通だった。もっとも、昔は、コダクロームの現像所は日本になかったので、米国ニューヨーク州ロチェスターのコダック現像所までフィルムを郵便で送って往復することまでやっていた。たとえばコダクロームのフィルムを買うと、米国に送るための「コダック色」である黄色の封筒が着いてきたものだ。

もちろん、一刻でも早く写真を得たい、という報道写真などでは、こんな悠長なことは言っていられない。この全部のプロセスを十数分ですませてしまう装置を使うことが多かった。そして、それをたとえば支局にある電送写真装置で、本社に送ることが行われていた。電送写真装置の前には伝書鳩が使われた。新聞社の屋上には、伝書鳩のための小屋があるのが普通だった。しかしもちろん、こういった急速現像装置は一般には手が出る仕組みではなかった。

ここで登場したのが、ポラロイドカメラだった。米国ポラロイド社が、105mm x 82mmという手札判くらいの大きさの写真がすぐにできる新しい仕組みのカメラを売り出した。

これはフィルムと印画紙を重ねて露光し、撮り終えた一組をカメラから引き出すときに、プラスチックのチューブに入った特殊な現像液をフィルムと印画紙に塗布することで、現像が始まる仕組みだった。

すぐに、といっても一分あまりは待たなければならなかったし、寒冷地では、「現像」中に温度を保つために、脇の下にはさんで暖める、身体に密着するように湾曲した特殊な金属板(カメラの表蓋の裏=写真の左下=についている)まで付属していたが、それでも、いままでの現像・引き伸ばしに比べれば、次元が違う早さだった。

いずれにせよ、写真をすぐに得たいという用途のためには、このポラロイドカメラは、唯一無二のものだった。こうして、一般用のほか、プロの写真スタジオのための「ポラ撮り」(照明や効果を見るためのテスト撮影)、科学写真、警察の写真用など、各方面で広く使われることになった。

このカメラはポラロイドPolaroid 340。連動距離計が付き、当時のすべてのフィルムが使える中級機であった。なお、ファインダーマスクはパララックス補正と、距離による視野の補正まである高級な機能がついていた。

このカメラは自動露出で、シャッタースピードは選べない。これには350という兄弟機があり、大きさも性能も同じだが、距離計だけが一眼式(距離計のファインダーと撮影範囲を示すファインダーが一つにまとまっているもの)になっていたのと、カメラ背面にある現像のためのタイマーが、340のように手動ではなく、自動スタートになっていたのが違うところだった。

レンズは3枚構成で、114mm、f8.8という暗いもの。たしか群馬県の富岡光学のもので、尖鋭なレンズを作る良心的な小メーカーだった。フィルムとしてはASA75からASA3000までのフィルムがあり、とくにモノクローム(黒白)フィルムは高感度だったから、この程度の暗いレンズが使われていた。

このカメラには、しかし、いろいろな弱点があった。まず、フィルム(と印画紙)が高価だったこと、カメラも大きくて重く(このカメラは畳んだ状態でも200 x 127mm x 76mm、重さも1100グラム近くある)、フィルムを多数持って行くにはかさばることだった。モノクロームのフィルムでも、1枚あたり125円もしたから、普通のフィルムカメラよりも、何倍も高くついたのである。

また致命的なのは 、カラーフィルムとしては、色彩や色合いが十分なものではなかったことがあった。なんとも味わいのない、人工的で品のない色なのである。

また、フィルムとしては残らない。このため、フィールドワーク先などで、撮ってあげた人にあげてしまうと、私にはなにも残らない、つまり私が持ち帰るにはまた別に撮らなければならない、高価につく、という欠点もあった。

もっとも、黒白の一部のフィルムにはネガフィルムが残るものもあった。このフィルムのときだけは、のちに引き伸ばして複数のコピーを作ったり、大きな印画を作ることができた。しかし、カラーフィルムは不可能だった。

もちろん、写真を撮った、その場で写っているかどうか、確認できる、というのは他のカメラには絶対にない特長であった。買ったばかりのカメラがシャッターの不調で、外国で撮ったフィルムが全部無駄になった友人もいるし、私の場合にもパプアニューギニアで撮ってきたコダクロームフィルムを、コダックの現像窓口が、なんとも間抜けなことに、(コダクロームのパトローネに入っているフィルムだから、コダックのフィルムを扱いなれている現像所は間違いようがないはずなのに)、ネガフィルムの現像に回してしまったために、すべてのフィルムが駄目になってしまった、という苦い経験もある。

さらに、ポラロイドは普通の35mmカメラに装填できるポラロイドフィルムを売り出した。ポラクローム(カラー)やポラパン(モノクローム)といったフィルムで、専用の現像器で処理すると1-4分でカラーやモノクロームのポジ(スライド)が出来上がる仕掛けだった。普通のカメラが使えて、しかもインスタント、というので飛びついて使ってみたが、大いに失望することになった。

あまりにもフィルムのベースの透明度が悪く(低く)、スライドを投影しても、なんとも暗い画面しか得られなかったのである。学会発表には、とても使えたものではなかった。しかし、やはり迅速、ということで、ある程度の需要はあったのであろう。つまり、ポラロイドのインスタントフィルムは、それなりの時代を拓いたのであった。

しかし、時代は変わった。その場で確認できる、という唯一、最大の取り柄が、デジカメにさらわれてしまったからである。ポラロイドにしてみれば、特許で厳重に守られて安泰を誇っていた王国が、一夜にして崩壊してしまったのである。

14-1:フィルムカメラの最後のあだ花、APS。

企業というものは、無限の拡大志向をもっているものらしい。カメラメーカーも、フィルムメーカーも、そしてDPE(現像引き伸ばし業)も、同じである。

そして、この三者が結託して、いままでの35mmフィルムやカメラを使えなくする、新しい需要を開拓しようとしたのが、このAPSという、カメラとフィルムとDPEに、いままでのものとは違った、新しい仕組みだった。

APSとは新規格の専用フィルムを使用した「進化した写真システム」(Advanced Photo System)のことで、富士フイルム、イーストマンコダック、キヤノン、ミノルタ、ニコンの5社のフィルムメーカーとカメラメーカーが共同開発して1996年4月に始められたものだ。

新規格のフィルムは IX240 と言われた。240はフィルム幅が24mmだということを示している。35mm フィルムの幅である35mm よりもだいぶん小さいから、コマの大きさは、ハーフサイズカメラ並みである。

APSの取り柄は、デジタルカメラのExifヘッダ(デジカメの画像には、撮ったカメラ、撮った日時、絞り、シャッタースピード、カメラが設定したASA感度、露出補正、ストロボのon-off などが数値として埋め込まれている)のように、撮影したときのカメラの設定、撮影した日付や時間、プリントするサイズ、プリントの枚数指定、コメントなどをフイルムに記録できることにあった。フィルム上に磁気面があり、そこに記録するのである。

もう一つの特長は、画面の縦横比を3通りに変えられることだった。標準のコマの大きさは16.7 x 30.2mmで縦横比が従来の各種フィルムと比べて横長(9:16)だったが、その基本サイズの左右、または上下をプリント時にトリミングすることで、35mm版の通常サイズ(2:3)とパノラマサイズ(1:3)に対応するプリントが可能だった。しかし、これらはあくまでも磁気面の指示だけで、フィルムにはトリミングする前の標準のコマが並んでいるだけだった。

APSは、現像した後でも、フィルムは(35mm フィルムのパトローネのような)カートリッジの中に入れたまま返却される。このため、保管のときにゴロゴロしてかさばるほか、ネガをルーペで見てピントを確かめることも出来ない。

フィルムのサイズが小さいぶんだけ、カメラも小さいものが作られた。このキャノン Canon ISY310 も、発売当時は、小ささを誇った。90 x 60 x 28mmで重さは電池を除いて125gだった。電池はリチウム電池で、上の京セラが使っているCR123Aよりは一回り小さなCR2を使っている。

レンズは26mm F2.8という大口径単焦点レンズだった。 26mmは35mmカメラに換算すると32ミリくらいになる。「単焦点で高画質」というのがキャノンの宣伝文句だったが、キャノンのほかの大衆向け大口径レンズと同じく「数字だけの」高級レンズだった。じっさいにはフレアが多く、コントラストも低かった。

カメラの横に写っているものは、附属のリモコンである。離れているところのカメラのシャッターを切るもので、以前のカメラのセルフタイマーが「進化」したものだ。なお、上記京セラのカメラにも附属していた。

セルフタイマーも、機械式だった昔は、ゼンマイと歯車とガバナーを組み合わせた「精密機械」だった。かつてのニコンの最高級機、ニコンNikon F2では、このセルフタイマーの機構を、2〜10秒までのシャッターの制御にも使っていた。それほどの「精密機械」だったのである。

しかし、その後、どのカメラもセルフタイマーはタイマーの電子回路を使った電子式になり、そして、この電波式リモコン(いまの車のドアを開けるのと同じ)になった。歯車や機械式ガバナーの、いかにもものが働いている、という”情緒”がなくなって、すべてがブラックボックス化されている現代ならでは、を象徴している。

このカメラはステンレス外装だったが、このほか、IXY は、ズームレンズ付きや、プラスチック外装の廉価版のものもあった。

しかし、APSは、メーカーの思惑のようには消費者に受け入れられなかった。プロはもちろん、アマチュアもいままでの35mmカメラで十分だったし、折悪しくデジカメが急成長してきたのにも足をすくわれてしまった。

カメラが小さい、という APS の最後の砦も、小さい35mmカメラが続々と搭乗するに及んで、崩されていった。たとえば、このカメラの90 x 60 x 28mmに対して、富士写真フイルム Fuji のカルディア・ミニティアラ2は 100 x 60 x 32mm で155g、ミノルタ Minolta のTC-1は 99 x 59 x 30mm で 185g と、小ささを誇ったIXYに迫ってきてしまったのだった。

APSの発売6年後の 2002年にはフィルム販売でのIX240フィルムのシェアは、フィルムが出荷本数の約12%にすぎなかった。またその時点では、すでにコダック、ニコン、コニカミノルタがAPSカメラの製造と販売から撤退してしまった。その後も他のメーカーの撤退が相次ぎ、2007年現在、日本国内では発売されている機種はなくなってしまった。

APSカメラを使い続けようにも、フィルムの供給がなくなりかけている。かつてはISO100の高画質タイプやISO800の高感度タイプ、またリバーサルも商品化されてはいたものの、現在はフジのネガカラーASA400だけになってしまった。

メーカーの宣伝に乗せられてAPSカメラを買った消費者は、”二階に上げられて、梯子を外され”てしまったのである。

しかし、カメラやフィルムメーカーは「前科」がある。かつて「ディスクカメラ」、そして「110(ワンテン)カメラ」で、このAPSと同じように、35mmフィルムではない別のフィルムしか使えないカメラやフィルムを売り出して、どちらも早々と撤退してしまって、いまやフィルムは買えなくなって、つまり買ったカメラは使えなくなってしまっているのである。

もっとも、カメラ業界だけではない、オーディオ業界でも、かつて「エルカセット」という音楽テープと、それを使うオーディオデッキを売り出したソニーやティアックも、早々と撤退してしまった。宣伝に乗って20万円もするオーディオデッキを買わされて、その後テープがなくなって使えなくなってしまった客は全国にいるはずである。

なお、このカメラも、このホームページの隠れた愛読者である、私の先輩の編集者、小塚直正氏からホームページの充実のために、と2007年にいただいたものだ。

その1:前編はこちらへ
その2:中編はこちらへ
その4:続編はこちらへ

(時間を見ながら、この頁を、少しずつ充実していきます)

島村英紀が撮った海底地震計の現場
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