島村英紀『夕刊フジ』 2014年8月15日(金曜)。5面。コラムその64 「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識」

中森明菜事件で逃した噴火の決定的瞬間

 中森明菜が"原因"で、テレビ局が火山噴火の決定的な画像を撮りそこなったことがある。

 1989年6月30日、伊豆半島の伊東市の沖で群発地震がはじまった。7月9日にはマグニチュード(M)5.5の地震が起きた。この地震で家具が倒れて下敷きになるなど21人の怪我人が出た。

 伊豆半島の東の沖にはよく群発地震が起きる。数年おき、ときには毎年のように起きてきている。しかしこのときは、それまでの群発地震とは違った。7月11日からは「火山性微動」が観測されはじめたのだ。火山性微動は火山が噴火する直前に出ることが多い。マグマの動きとともに地面が連続的に揺れ続ける現象だと考えられている。

 気象庁は噴火の危険性が高いと発表した。だがどこで噴火するのかはわからなかった。どこで噴火がおきてもおかしくないと報道され、人々に不安が拡がった。

 伊豆半島の東部からその沖の海中にかけての一帯には「伊豆東部火山群」といわれる小さな火山がたくさんある。それらは「単成(たんせい)火山」というもので、富士山のように噴火を繰り返すのではなく、たった一回だけの噴火でできた火山である。

 伊東市にある大室(おおむろ)山(標高580メートル)も典型的な単成火山だ。約4000年前に作られ「甘食」そっくりの形(平べったい円錐形)をしている。

 群発地震はなかなかテレビ向きの画にはならない。だが火山の誕生となればインパクトが違う。このためテレビ局の多くが伊東に駆けつけた。

 しかしテレビ局にとって別の大ニュースが伝えられた。中森明菜が自殺未遂事件を起こしたのだ。交際をしていた恋人で歌手の近藤真彦の自宅でのことだった。

 このため伊東にいたテレビクルーのほとんどはあわてて帰京した。

 その「留守」の7月13日の18時33分、伊東のすぐ沖で海水を盛大に吹き上げて海底噴火が始まった。まだ明るい時間だったし、陸地から2キロあまりの目と鼻の先なのでよく見えた。

 この噴火をとらえたテレビカメラは残っていた一社だけだった。大部分のテレビ局は、伊豆東部火山群としては有史以来初めての噴火を逃してしまったのである。

 じつはこの噴火では観測船が間一髪のところだった。海上保安庁の観測船「拓洋」がこの一帯で海底地形の変化を測っていた。これは船を東西南北に走らせながら船の下の水深を超音波を使って測るものだ。この調査で拓洋は海底から高さ25メートル、直径450メートルの円錐形をした海丘を発見していた。以前にはなかったものだ。

 そして引き続き周辺の調査をしていたときに、この海丘がいきなり噴火したのだった。

 もし真上にいたら1952年の観測船「第五海洋丸」事故の再来になったかも知れない。西之島新島と本州のあいだにある明神礁(みょうじんしょう)。海底火山の噴火で吹き飛ばされて31名全員が殉職した。

 火山の噴火は専門家でも予知できないほど、突然に起きることがあるのだ。

(写真は大室山。2014年3月、約25km北に離れた伊豆スカイラインの滝知山展望台から島村英紀が撮影。大きな火口が見えるだろうか)

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註)この連載37に「伊東沖では1989年5月に始まった群発地震がどんどん盛んになって7月には海底噴火して手石海丘を作った」という記述があります。これは、この本文に言う「1989年6月30日、伊豆半島の伊東市の沖で群発地震がはじまった」の群発地震と同じものです。厳密に言えば5月に始まった群発地震はごく小さなものでした。5 月下旬に川奈崎の近傍でごく小規模の群発地震が発生し、最大の地震はM 2.6,集中的な地震発生はほぼ1 日で終わってしまったもので、これが6-7月の大きな群発地震と噴火に結びつくことがわかったのは後のことでした。

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