島村英紀『夕刊フジ』 2023年7月28日(金曜)。4面。コラムその502「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識」 

関東大震災から100年まで1カ月 地震予知の歴史

『夕刊フジ』公式ホームページの題は「地震予知の歴史 学者と社会との問題、確たる証拠なければ無用な混乱を避けるべき 関東大震災から100年まで1カ月」

 間もなく関東大震災(関東地震))から100年になる。死者10万人以上という日本史上最大の被害を生んだ大災害である。

 地震が起きたのは1923年9月1日、関東地方の下に南方から潜り込んでいるフィリピン海プレートが起こしたマグニチュード7.9の地震だった。最大震度は日本での最高震度。多くの家が倒れ、死者の多くは数日間にわたって燃えさかった火による焼死だった。地震に乗じて左翼や外国人が数多く殺された。

 この地震で一躍脚光を浴びたのが、東大助教授だった今村明恒(あきつね)だった。

 今村は当時としては珍しく、地震防災に情熱を燃やした地震学者だった。被害を食い止めるべく、被害のありさまを一般雑誌『太陽』に関東地震の18年前に発表していた。雑誌への発表後に新聞のセンセーショナルな後追いが続いた。関東地震で論考が現実になり、その予測がたまたま関東大震災の結果とほぼ一致したのだった。

 1891(明治24)年には日本の内陸で起きた最大の地震である濃尾地震があった。岐阜県と愛知県を中心に死者7273名、全壊建物14万棟という大被害を生んでいた。

 また首都圏でも1894(明治27)年に直下型の地震である明治東京地震が起きた。24人の死者が出るなど、東京の下町と横浜市や川崎市を中心にかなりの被害が出た。この地震では煉瓦建造物の被害が多く、とくに煙突の損壊が目立ったため「煙突地震」とも言われた。

 しかし、いずれもっと大地震が来るという彼の警告には「世を騒がせるだけだ」という批判が巻き起こった。

 なかでも彼の直接の上司であった教授大森房吉は批判の急先鋒であった。大森は、確たる証拠がない以上は無用な混乱を避けるべきだという、世間に対する責任感に突き動かされていたのだろう。

 大森の講演や新聞寄稿はいつも今村説の非難から始まっていた。雑誌『太陽』への寄稿や講演などで今村説を「東京大地震の浮説」「例の二十万死傷説」として「すこぶる峻烈を極めた」非難を繰り返した。

 二人はことごとに衝突し、確執は深まった。「今村が予言していた関東地震は起きない」と公言していた大森は、実際に関東地震が起きて死者が10万人を超える大被害を生んだときは、たまたま学会でオーストラリアに行っていた。地震の報を受けて急遽帰国中に倒れ、ほどなく亡くなった。

 現代の科学知識からいえば、大地震を結果として予知した今村も、地震が起きないとした大森も、どちらも科学的な根拠やデータを持っていたとは言えない。

 予知はいまだに無理だ。二人の論争は現代にも通じる。確たる証拠がなければ無用な混乱を避けるべきだという責任感は各方面で強い。学者と社会との関わりの問題を含んでいるのである。

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