いまとなっては秋田県民だけが憶えているかも知れない。日本海中部地震が起きて先の5月で33年たった。
この地震のマグニチュード(M)は7.7。それまでは日本海岸は津波に襲われないと思われていたが、大津波が襲ってきた。遠足に来ていて海岸にいた合川(あいかわ)南小の児童13人をはじめ、104名の犠牲者を生んでしまった。
この地震は地球物理学者にとっても大きな転換をもたらしたものだった。この地震の震源だった秋田県沖の日本海にプレート境界があることが、はじめて提唱された地震だったのである。
それまでは、ここにプレート境界はなく、北日本も日本海もユーラシアプレートというひとつながりのプレートに載っていると思われていた。だが、この地震が起きて、震源はいままで知られていなかったプレート境界なのだと提唱されたのだ。
この学説によれば、ユーラシアプレートは震源から西の部分に限られ、それまではユーラシアプレートに載っていると思われていた北日本は、じつは北米プレートに載っていたことになる。つまり日本列島は首都圏あたりを境に、北半分は北米プレートに、南西側の半分はユーラシアプレートに載っているというのである。
この学説を言い出した学者は、学会から相手にされなかった。当時の常識には反する荒唐無稽な説だったからである。
プレートは「オレが○○プレートだよ」と言ってくれるわけではない。地下にどのプレートがあるのかを直接知る方法はない。このため、いままでの定説を覆す証拠を見つけるのは難しいことだった。
だが、10年後の1993年に、北海道の南西沖で北海道南西沖地震(M7.7)が起きた。
もしこの地震が起きなかったら、新しい学説は相手にされないままだっただろう。
このときも大津波が沿岸を襲って、230名もの犠牲者を生んだ。なかでも北海道・奥尻島では津波で壊滅的な被害を受けて、地震による被害は復興したものの、人口は戻らなかった。
しかしこの二つの地震が南北に並んだ場所で起きたことによって、ここにプレートの境があって海溝型の大地震が起きることがわかった。つまりこの二つ目の地震が「新しい学説」を立証することになったのである。
いまでは、日本海の東縁、つまり北日本のすぐ沖に南北に延びるプレート境界があることが学説として定着した。
このプレート境界は地球の歴史では新しくできたものではないかと思われている。つまり約300万年前から作られはじめたものだという。これに比べれば北日本の太平洋岸沖にあるプレート境界は、少なくとも2億年前からあるから、ずっと古い。
私たち日本人は、つい近年まで、どのプレートの上で暮らしているのか、知らなかったのである。
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