『地震はどこに起こるのか―地震研究の最前線』(ブルーバックス、1993年発行)・6章「海の地震を追って」の大幅な加筆と図と写真の追加
私たちの海底地震計。その開発の歴史と苦労・番外編
(ノンフィクションとしては島村英紀『地球の腹と胸の内――地震研究の最前線と冒険譚』をご覧ください)
目次
1 :なぜ海底地震計が必要?
2:手作りの海底地震計
3:完全ではなかったポップアップ式海底地震計
4:バケツ形の海底地震計
5:ポップアップ式海底地震計の完成
6:思わざる敵
7:現代の海底地震計
8:海底地震計の中身
9:番外編。旧ソ連の海底地震計
別の頁で書いたように、海底地震計は、どこのメーカーも作ってくれるわけではなかったので、各国で手作りのものが競って作られていました。ここでは、旧ソ連の海底地震計を振り返ってみましょう。
私が最初にソ連の海底地震計を見たのは1971年でした。
このとき、東京大学海洋研究所の観測船『白鳳丸(はくほうまる)』が、日本から小笠原、グアム、パプアニューギニア、台湾の高雄という長い航海をしました。
私は、その航海に乗って、私たちの海底地震計と、ソ連の海底地震計の初めての共同観測が、パプアニューギニアの北の海底にあるオーリピック海嶺で行われたのです。
私たちは北西太平洋海盆での海底地震観測を終え、グアムとパプアニューギニアに寄港したあと、共同観測に臨んだのです。浅田敏さんは、東京からグアムまで乗船しました。
ソ連の海底地震計は、驚くほどごつくて大きなものでした。またロープ係留式海底地震計として、海面上に浮かべるブイから、海底までをロープで繋いでいる方式でしたが、そのブイも、左の写真にあるように、私たちから見ると、途方もなく巨大なものでした。
そして、私たちは”ロープ”係留式海底地震計と言っていた方式でしたが、当時のソ連は私たちのような化学繊維のロープではなく、鋼鉄線を編んだワイヤーを使っていたのでした。これは、化学繊維に比べて、いくぶん強いのですが(しかし倍ほど強いわけではない)、最大の問題は、キンクといって、ループ状になった状態で引っ張ると、そこがあっさり切れてしまうことでした。
また、ワイヤーはいったん切れると、まるで刃物のように、とても危険なものなのです。
切れたら、一巻の終わり。海底地震計は、もう海底から帰ってこないことになります。
彼らが舷側から海に入れようとしているのが、耐圧容器に入れたソ連の海底地震計です。これも、クマのような大男が3人がかりでやっと持ち上げるほど、大きくて重いものでした。私たちの海底地震計の3倍以上の重さがあったでしょう。
この共同実験のあと、1974年に、私たちは小規模のソ連との共同実験を日本海でやりました。
そのときは函館までソ連の観測船『ドミトリー・メンデレーフ号』に来てもらって、私たちの仲間の大学院生が乗りました。左の写真の宮下芳さん(現茨城大学教授)と渋谷和雄さん(現国立極地研究所教授)です。
このときも、ソ連側は同じ耐圧容器を持ってきていたのですが、写真のように、宮下さんが持ち上げようとしても、びくとも動かないほど、重いものだったのです。
じつは、ソ連の巨大ブイは、ロープ係留式海底地震計のうちの「標識ブイ」も兼ねているものでした。
ブイの上部には、右の写真のように、金属板で不器用に作った、船からのレーダー電波を反射するための仕掛けが取り付けられていました。電波の波長は数センチですから、金属板でも、金網でも、また、少しくらい凸凹でも、ちゃんと反射してレーダーに帰っていくのです。
なお、いちばん上の前甲板の写真の右端に鼻先だけが写っているのはソ連製のジープです。甲板上に載せて、寄港地でクレーンで下ろして、乗るのでしょう。日本の観測船はよく自転車を、寄港地用に載せていましたが、車は見たことがありません。さすが5000トンもある巨大な観測船だけのことはあります。
そのときにソ連の海底地震計や科学者を載せてきたのは、写真の「ビチャージ(Vityaz)号」でした。、
当時のソ連はこのほかにも『ドミトリー・メンデレーフ号』など、同じ5000トンクラスの海洋観測船をいくつも持っていて、太平洋や大西洋各地で、海洋や海底の地球物理学や地質学の研究を続けていました。
『白鳳丸』は日本では最大級の観測船でしたが(下右の写真。これはフィジー島スバで。手前は船を係留しておくボラードといわれる金具です。港によって、いろいろ特色があります。)、それでも3200トン。このソ連船のほうがずっと大きかったのです。
船はもちろん、大きなほうが揺れません。このため、客船は大きなほうが快適に過ごせます。
しかし、こと観測船となると、話がちがうのです。つまり研究を効率的に進めるためには、大きな船だと、たくさんの、そして多くの場合、別々の分野の科学者が乗り合わせになるために、研究の能率が落ちてしまうからなのです。
もちろん、船が小さいと、海況がよくないときには、仕事になりません。あるいは海況によっては避難しなければならないこともあって、これはこれで、研究の時間のロスになります。
私は地球11周分の時間を船の上で過ごしましたが、こうして、人生の無駄を味わった時間は数え切れないほどなのです。
私たちはおたがいにボートを下ろして、科学者を交換しました。私たち日本人科学者はビチャージ号を訪れ、ソ連の科学者は『白鳳丸』を訪れたのです。南極でほかの国の基地を訪れるときのように、おみやげを持っていくのが恒でした。ソ連の場合、ウオッカとかグルジアのワインとか、ペナントの旗とか、バッジ類が、そして日本船からは日本酒や手ぬぐいなどが交換されたのです。
当時は、長期の船上生活では、ビタミンCの不足による脚気という病気が問題でした。新鮮な野菜は長くはもちません。このためソ連の船は、大量にワインを積み込んでいたのです。、
一昔前の船の中は、熱帯地方を航行するとき、どんなに暑かったか、知っている人は少ないでしょう。
いまでこそ、強力なエアコンが普及しましたが、当時は、こんな大きな船でも、冷房はないのが普通でした。しかも、炎天下、船の甲板は焼けるように暑くなり、甲板の下にある船室や実験室も、途方もない暑さになるのです。
夜も暑くて寝られず、船室にある丸窓をいっぱいに開いて、せめて外気を取り入れるのが、できる精一杯のことでした。
しかし、一方、寝ている間に海況が悪化して、窓から大量の海水が飛び込んできて、ベッドがまるでプールのようになってしまう、という話もよくあったのです。
ビチャージ号の中は炎熱地獄でした。科学者たちは、写真のように裸で、海底地震計の組み立てをやっていたのです。
当時のソ連の海底地震計には、いくつかの流派がありました。ソ連で海底地震計を始めたパイオニアはリクノフ博士でしたが、博士が開発した海底地震計は、その後、モスクワの科学アカデミーの海洋研究所と同じく科学アカデミーの地球物理学研究所、それにモスクワ市立大学に移っていたリクノフ博士の研究室、と大まかに分けると、3派に分かれていたのです。
そして、科学者の常として、お互いがライバルであったために、仲はよくありませんでした。このビチャージ号も、いわば、呉越同舟だったのです。
左の写真は、そのリクノフ博士の海底地震計です。この写真は1974年3月、モスクワ市立大学の氏の研究室で撮ったものです。
いちばん上部には水晶時計、その下には記録用のテープレコーダー、その下の箱は電子回路、一番下には換震器があります。比較的コンパクトにまとまっている海底地震計で、さすがに、ほかの研究所の海底地震計よりもすぐれたものでした。
写真の右下にあるのは、海底地震計で記録してきた磁気テープ(オープンリールテープ)を再生するためのテープレコーダーです。
引用:島村英紀『地球の腹と胸の内――地震研究の最前線と冒険譚』から
彼らの海底地震計の子孫は、ゆっくりながら、ソ連各地に増えつづけていった。
たとえば、モスクワにある国立地球物理学研究所、同じく国立海洋研究所、ウクライナ地球物理学研究所、サハリンにある総合科学研究所など。
このうち、国立地球物理学研究所は、地球物理学では、ソ連では最大の研究所。研究だけではなく、日本でいえば気象庁の地震火山部でやっているような業務的な地震観測もやっている大研究所だ。
それゆえ、彼らは、立派な測器工場を持っている。ソ連には陸上観測用として有名な地震計は多いが、それらは、ここで作られている。
だから、海底地震計も彼らにとっては、他の研究所よりは有利だった。
しかし、やはりソ連。月ロケットを飛ばしているほどの国なのに、IC(集積回路)のような、ちょっとした電気部品や、テープレコーダーの録音ヘッドのような機械部品は、なかなか彼らのところにはまわってこない。
何十というトランジスタを組み合わせ、蜘蛛の巣のような複雑な配線をして、海底地震計のための水晶時計を作っている。これは秋葉原あたりでは数十円で売っているICを使えば、わずか数個ですむのだ。
サハリンでは、リクノフ先生のようなオープンリール型のテープレコーダーではなく、より新型のカセット型のテープレコーダーを使って海底地震計を組み立てていた。
「これはコネで、ようやく手にいれたのだがね」とW博士はいう。「しかし、メカとテープの品質が悪くて困っているのだ。」と博士の言葉はつづく。
地球物理学は、ソ連では、しょせん、日が当たらない二流の科学なのだ、というのが博士の述懐だった。
海底地震計のかつての先進国、ソ連は物資不足と科学の格付けに泣いていた。
ずっと右上の写真(後ろに裸の科学者が立っている写真)は海洋研究所のもの、左の写真(後ろにバッグが写っている写真)は地球物理学研究所のものです。一見、地球物理学研究所のもののほうが、洗練されているように見えます。
なお、地球物理学研究所の海底地震計のうち、左半分がオープンリール型のテープレコーダー、右半分は、3成分の換震器(geophone、地震計センサー)です。
海洋研究所の海底地震計では、上部にテープレコーダーが写っていて、下部に換震器があります。いちばん上部の白い箱は水晶時計です。
下の文章(島村英紀『地球の腹と胸の内――地震研究の最前線と冒険譚』)にあるように、当時のソ連は、わずか2,3台の海底地震計しか持っていませんでした。写真のこれらは、彼らにとって、虎の子だったのです。
(撮影機材はOlympusPen-FV。レンズは.Zuiko 25mm f4.0と Zuiko 70mm f2.0。フィルムはサクラクローム。ハーフサイズ。褪色していたのを補正した。『白鳳丸』の写真は1973年8月、フィジー島スバで。撮影機材はOlympus OM1。レンズは.Zuiko 50mm f1.8。フィルムはコダクロームKR64。こちらは褪色がない)。
2:無言のコスミンスカヤ博士
引用:島村英紀『地球の腹と胸の内――地震研究の最前線と冒険譚』から
一九七一年に、私たちはソ連と最初の共同実験をした。ソ連からはビチャージ号という観測船が中部太平洋に来て、私たちの船と共同で、私たちの海底地震計とソ連の海底地震計とを使った地下構造研究を行った。
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ソ連の海底地震計は、リクノフ型だった。ソ連としても虎の子で、わずか二、三台を持っていたにすぎなかった。
実験では、私たちの海底地震計が、はるかにいい記録をとった。
一キログラムの火薬の爆発が発生した地震波が、海底の地殻を突き抜けて、その下にあるマントルをとおり、九〇キロも遠くの私たちの海底地震計に明瞭に記録されていたのだった。
私たちの結果を(『白鳳丸』の船上で)見たコスミンスカヤ氏は、しばらく無言だった。
長年、人工地震に携わってきたコスミンスカヤ氏にとっては、記録の重要性が、たちまちわかったにちがいない。
そして、コスミンスカヤ氏の眼鏡どおり、私たちの海底地震計の結果は、海での人工地震を一変させるものだった。
海底地震計は感度が高いだけではない。受信点の数も、海底地震計の数だけ、何点もがとれる。しかも、いままでは最低でも二隻の船を必要としたのに、一隻の船ですべてがまかなえるようになった。
氏は、記録をぜひ、といって持って帰った。
地下構造の研究には、ぜひ海底地震計を改良して増やし、ハイドロホンの時代に終わりを告げたい。それが、ソ連の願いだった。
【写真はビチャージ号の救命ボートから『白鳳丸』に乗り移る人工地震の世界的な権威、コスミンスカヤ博士。浅田敏氏よりは高齢だったはずだ。一般に、揺れている小さな船から甲板が高い大きな船に縄ばしごを使って乗り移るのは、危険もあり、結構たいへんな仕事である。撮影機材はOlympusPen-FV。レンズは.Zuiko 70mm f2.0。フィルムはサクラクローム。ハーフサイズ。褪色していたのを補正した)】
引用:島村英紀『地球の腹と胸の内――地震研究の最前線と冒険譚』から
悲劇は、その共同実験の直後に起きた。
実験は無事に終わって、ビチャージ号が去った。
何日かして、緊急電報が、ビチャージ号から、私たちの船に来た。医者はいないか、ヘリコプターを頼んで怪我人をグアム島かどこかへ運べないか、というのだ。
すでに私たちの船は、あまりに遠くに離れていた。
私たちには、残念ながら、なすすべはなかった。
やがて何時間かして、もう終わったから、ありがとう、という短い電報がきた。
それが、怪我人が死んだのだろう、という電報だということはわかった。しかし、なにが起きたのか、それがわかったのは、何年もあとになってからだった。
ビチャージ号は、私たちと別れてから、最後の人工地震をやっていた。
海底地震計を設置し終わって、火薬作業が続いていた。
缶ジュースくらいの大きさのダイナマイトに導火線がついている。その導火線に火をつけて、海中に投げ込む作業だった。
その作業は、研究者が交代でやっていた。単調な作業だ。
その火薬の作業も終わりに近づいたとき、導火線に火をつけそこなった。
いや、導火線に火がついたとしても、勢いよく火が走るわけではない。わずかな煙が出るだけで、火は、導火線の白いカバーの中を走るだけなのだ。
だから、火がついたかどうかは、よくわからないことが多い。
火は、ニクロム線でつける。つまり小型の電熱器だ。私たちは、だれが発明したのか、蚊取り線香を使うことが多い。要するに、風で消えなくて、温度が十分に高ければいいわけだ。
その研究者は、導火線に火をつけそこなったと思った。
煙も見えなかったし、そういえば、ニクロム線も、十分にはおしつけなかったような気がする。
こういうときには、火がついていても、たとえ火がついていなくても、海の中にダイナマイトを投げ込むことが鉄則になっている。
もし火がついていたら、時間は十数秒しかない。考えたり、やり直している時間はない。
そして、じっさい、火はついていたのだ。
しかし、魔がさした。彼は研究者だった。
火がつかないものを海に投げ込んだら、データをひとつ失うことになる。
もう実験はほとんど終わりだ。あとひとつデータが余分にあれば、より研究に役立つかもしれない。
彼は、そのダイナマイトに、もう一度、火をつけようとした。
そして…。
彼が研究者でなかったら、こんなことにはならなかっただろう。危ないものは、海に捨てればいい。誰にも非難されることはないのだ。
この悲劇のあと、ソ連では観測船の上で火薬を使うことが禁止になった。
ただでさえ、海底地震計の数と能力が限られているのに、それをおぎなう有力な手法である火薬が使えなくなったのは、ソ連の海底地球物理学にとって、たいへんな損失だった。
ソ連は、このあと、巨大なエアガンをいくつも、作り続けた。
エアガンの大きさは圧搾空気を入れる空気室の容積であらわすのだが、昔のがせいぜい10リットルくらいだったのに、20リットル、30リットル、そしてもっと大きいものまでつくった。
しかし、大きくすると、それなりのトラブルにも見舞われる。作業もたいへんになる。それでも、エネルギー的には、火薬には遠く及ばない。
ソ連の海底地球物理学にとって、冬の時代だった。
4:旧ソ連との二回目の共同海底地震観測は悲劇に終わりました
上に書いたように、1971年に、私たちと旧ソ連との最初の共同の海底地震計の観測が行われました。場所はパプアニューギニアの北の海底にあるオーリピック海嶺でした。
その後、ソ連の海底地震計は、いろいろ進歩し、台数も増やした、と聞いていました。そして上に書いたように1974年に二度目の(小規模な)共同実験をやったあと、1976年になって、三度目の共同海底地震観測が行われたのです。場所は、こんどはグアム島の北東方の北西太平洋海盆でした。
しかし、この共同観測は、ソ連側にとって悲劇が待っていたのです。この実験では、ソ連の海底地震計の耐圧容器が、どれもぺちゃんこに潰れてしまったのでした。もちろん、これではデータは取れません。
カギは、水深でした。オーリピック海嶺の水深は約4000メートルだったのに、北西太平洋海盆の水深は5500メートルほどだったのです。下の引用文にあるように、ソ連の科学者にとって、いい耐圧容器を入手することは、かわいそうに、不可能だったのでした。
引用:島村英紀『地球の腹と胸の内――地震研究の最前線と冒険譚』から
海底地震計の中では、耐圧容器がいちばんの問題だった。耐圧容器には、既製品はない。大きな水圧に耐えなければならないから、強い材料を使って、特別に作るしかなかった。
ソ連には、町工場がない。
私たちが東京の羽田空港の裏手に密集している、いくつかの町工場を探し出して海底地震計の機械部品づくりを頼んでいるようなことは、彼の国では夢物語だ。
私たちは、むかし、足を棒にして歩きまわったおかげで、どんな部品ならどの工場に頼めばいいのか、どの工場ならば、どんな材料を使うのが得意で、どのくらいの精度で製品を仕上げてくれるかを、すでに知っている。どのくらい日程に無理がきくか、もわかる。どんな値段なのか、も想像がつく。
これは、新しい測器を開発する上で、たいへんな武器だ。
秋葉原の電気部品と、羽田裏の機械部品がなければ、私たちの海底地震計はできなかったろう。
秋葉原も、羽田裏もないソ連の科学者が、耐圧容器や機械部品の調達に、どんな苦労をしなければならなかったか、リクノフ氏の話は、胸にこたえる。
リクノフ先生はじつに温かい人柄で、学者としてもアイデアにあふれている。
しかし、いつも彼のアイデアの実現をはばむものは、政治体制でもなく、官僚制でもなく、彼の作りたい観測器の部品の入手難だった。
結局、彼らは、高圧ガスのボンベを海底地震計の耐圧容器にすることを思いついた。家庭用のプロパンガスのボンベを細長くしたようなものだ。
黒海の海底は2000メートル。約200気圧だ。ボンベのように内圧をかける容器と海底地震計のように外圧がかかる容器とでは、設計がもともとちがうのだが、そんなことはかまっていられない。
こうして、いかにも見かけの悪い海底地震計ができあがった。
しかし、彼らの慎重な準備のおかげで、この海底地震計はうまく動いた。脈動のデータはうまくとれて、海底のノイズについて、世界最初の知見を得ることが出来たのだ。
彼らが脈動を狙ったことが、結果的に彼らを成功に導いた。それは、自然地震のように、いつ起きるかわからないものをテープレコーダーをまわして待ちつづけるのではなく、また人工地震のように震源の都合に左右されることもなく、いつでもある脈動を、とりたいときに記録すればいいからだった。
つまり、測器としては、簡単なものでも十分だったことになる。
しかし、ソ連の科学者の不幸は、町工場がないだけではなく、「地の利」もないことだった。
黒海には日本のような多くの地震は起きず、モスクワから海は遠かった。彼らの論文はロシア語で書かれていたためもあって、外国ではほとんど知られていなかった。
そのうち、モナコフ氏は、海底地震計をやめて、どこかの辺地に移った。どういう事情かは、誰も知らない。ひとり残ったリクノフ先生は、海底地震計の改良を続け、カムチャッカの海に乗り出すようになった。
しかし、モスクワから、時差にして九時間もはなれている僻地。物資や人員の輸送にも何かと手間がかかる。なかなか、研究業績をかせげなかった。
耐圧容器の問題もあった。高圧ガスボンベは、黒海の海の深さでは使えても、千島海溝や日本海溝を擁する太平洋の深さでは不十分だった。
世界でいちばんチタンの豊富な国、ソ連。チタンは軽くて強く、耐圧容器には理想の材料だ。世界でいちばん深くまで行けるフランスの深海潜水艇は、チタンで出来ている。
しかし、リクノフ先生には、チタンを手に入れる見込みは、ない。
1 :なぜ海底地震計が必要?
2:手作りの海底地震計
3:完全ではなかったポップアップ式海底地震計
4:バケツ形の海底地震計
5:ポップアップ式海底地震計の完成
6:思わざる敵
7:現代の海底地震計
8:海底地震計の中身
9:番外編。旧ソ連の海底地震計
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