島村英紀『夕刊フジ』 2015年3月20日(金曜)。5面。コラムその94「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識」

江戸時代は桶の水で震度を判断
「夕刊フジ」公式ホームページのタイトルは「江戸時代は桶の水で震度を判断 それゆえ悲喜劇も」

 気象庁が震度計を導入したのは1996年からだ。いまは全国4200地点に震度計がある。このうち気象庁のものは670、あとは地方自治体などで観測して気象庁へデータを送ってくるものだ。

 気象庁が震度を観測して発表するようになったのは1884(明治17)年のことだ。

 地震が起きたときに、それぞれの地域でただちに対応しなければならない自治体関係者や防災担当者にとっては、分かりやすい明解な基準が必要なのである。震度はこれにぴったりのものだった。

 じつは震度を知る必要性は明治以前からあった。

 江戸時代には、首都圏の地震は、いまよりずっと多かった。とくに江戸時代の前期、将軍徳川家光から家綱に至る寛永、慶安、正保期は大地震がたびたび江戸を襲った。

 このころ武家では、地震など大きな災害のときには目上への「御機嫌伺い」を迅速、適切に行わなければならなかった。

 御機嫌伺いとは火事羽織を来て、刀を持参、夜は提灯(ちょうちん)を持って幕府の門に馳せ参じることだ。また将軍や若君のほか女中衆にも見舞い状や使者を送ることも含まれる。なかなか気をつかう行事なのである。

 幕藩体制の厳しい身分制度のもとでは、地震などの災害が起きたときの組織や個人の身の処し方は、もし失敗したら身が危うくなるほどの試練であった。

 そのころには老中から申し渡しがあって、非常の際に登城すべき要人や、御門での対応の手順まできちんと決まっていたほどだ。

 地震はほかの災害と違って、いきなり来る。このため気象庁の震度計がなかった当時、いちばんの問題は、どのくらいの震度ならば馳せ参じるか、という基準だった。大きな震度があったときに行かなければ、もちろんとがめられる。しかし小さな地震で馳せ参じれば、それはそれで滑稽で迷惑なことになるからだ。

 こうした中で「天水桶(おけ)の水こぼるれば御機嫌伺い」とされていた。つまり、桶に水をためておいて、それがこぼれるほどの地震ならば馳せ参じるというわけだ。桶が簡易震度計になっていたのである。

 しかし、これは地震の揺れの周波数や桶の大きさで違ってしまうものだったし、あるいは地盤の善し悪しで違うかもしれないし、桶の水量による違いかもしれない。

 つまり所詮、これは簡易震度計。それゆえの悲喜劇もあった。

 たとえば1696(元禄10)年の地震では、下谷(現東京都台東区)の対馬藩邸は天水がこぼれるほどの揺れではなかったので御機嫌伺いしなかった。だが本所(同墨田区)の津軽藩邸や青山(同港区)の肥前鹿島藩邸は天水がこぼれたので使者を派遣した。

 江戸に集められた大名や幕臣たちは幕府の一挙一動にピリピリしていた。地震の揺れの客観的な基準が必要だったという点では現代の防災担当者と変わらなかったのである。

(写真は気象庁で使っている震度計。国立科学博物館で2015年に島村英紀が撮影)

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