さる12月、大分県では初めて「地震の遺跡」が発見された。
大分市長浜町で行われていた遺跡の発掘調査の現場で、地震による液状化でできた噴砂が見つかったのだ。
中世の大友氏の城下町として栄えた町家の跡。都市計画道路の工事のために昨年5月から遺跡調査を始めていた。
噴砂は地下にある砂が地震の揺れによって地下水とともに地上に噴き出す現象である。
噴砂は約1.5メートル下にあった当時の地下水位付近の砂層から噴き出していて、南北方向に数十本見つかった。それぞれ幅数センチ、長さ十数メートルあった。
発掘現場は戦国時代の町人の住居やごみ穴や井戸の跡が点在しているところだ。噴砂はこの遺跡を分断するように地下から噴き出していた。一方、その後の江戸時代にできた地層では噴砂の影響を受けていないこともわかった。
つまり地震は戦国時代の16世紀中頃より後で江戸時代の18世紀より前に起きたことになる。
すると、該当しそうな地震は慶長豊後(ぶんご)地震(1596年)か宝永地震(1707年)だ。
このうち慶長豊後地震は別府湾の活断層を震源とした地震で、マグニチュード(M)7と推定されている。村が一つ消えたり、別府湾にあった島が沈んでしまったという歴史が残されている。
この地震は旧暦では文禄5年に起きた。文禄時代には2-3ヶ月の間に慶長豊後地震、慶長伊予地震、慶長伏見地震と被害地震がたて続きに起きたので、年の途中で「文禄」から「慶長」へ改元された。それほど地震が多い年だった。
宝永地震は、恐れられている南海トラフ地震の「先祖」で東日本大震災(2011年)が起きるまでは日本最大の地震だったと思われていた地震だ。大分県佐伯市で11メートルを超える津波が襲ってきたことが記録されている。
このどちらの地震による噴砂かは分かっていない。だが今後の発掘でさらに詳しい年代が分かる可能性はある。
ところで北海道では先住民族は文字を持たず、古い歴史文書がない。19世紀になっても「遺跡」に頼らないと昔の地震が調べられないことがある。
札幌市が行っていた遺跡調査で札幌市内北部の北海道大学農場で石狩地震(1834年)での液状化の跡が見つかった。解析によればここで震度6だった可能性が強い。
震源から20キロも離れた札幌市内でこれだけの震度だったことから、M6.4と思われていた地震はもっと大きかったことが分かったのだ。
ちなみに当時はいま札幌市が拡がっている場所にはまだ人は住んでいなかった。日本海に面した海岸沿いだけにわずかな人が住んでいただけだった。
地震計のなかった時代の昔の地震を調べる「古地震学」は、こうして少しずつ昔の地震を解明していって将来への教訓を得ようとしているのである。
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