島村英紀が撮ったシリーズ「津波の看板」


1-1:2011年、東日本大震災のあとでつけられた、津波が達したところの看板

2011年3月11日、モーメント・マグニチュード9という東北地方太平洋沖地震が起きて大津波が日本を襲い、東北地方を中心に、2万人もの死者・行方不明者を出した。

津波の高さは海岸でも15〜17m、ランアップ(遡上高)としては、各地で40mにも達した。

このため、沿岸の各地では壊滅的な被害を生むことになってしまった。

この地震後、国土交通省・三陸国道事務所(岩手県宮古市)では2011年8月から、三陸の海岸沿いを走る動脈、岩手県の国道45号と、その枝になる道で、写真のような津波の看板の設置を始めた。

それまでは、県が予測した「浸水想定区域」の標識はあったが、「実際に津波で浸水した場所」を明示するように変更したものだ。この変更によって、岩手県内の国道45号の浸水区間は従来の36.5キロから、42.5キロに延びた。

「浸水想定区域」とはいかにもお役所言葉だ。

この標識は東日本大震災の津波に加え、かつて東北地方を襲った大津波、明治三陸地震(1896年)、昭和三陸地震津波(1933年)、チリ地震(1960年)のうちで、被害がいちばん大きかった津波のところに建てている。

岩手県北部では明治三陸地震、県南部では東日本大震災の津波が大きかった。ここの標識は東北地方太平洋沖地震のものだ。

なお、明治三陸地震は「津波地震」として知られている。震動がそれほど大きくなかったのに、大きな津波が生まれたためだ。この地震では東日本大震災以上の22000人もの犠牲者が出た。

また、昭和三陸地震津波は「アウターライズ地震」で、震源は日本海溝を超えて外側まで拡がっていた特殊な地震だった。明治三陸地震と「組になって」起きたのではないかという学説がある。つまり明治三陸地震が遠因になって起こした地震ではないか、というわけだ。

津波のときの避難先の高台を知らせる標識は、日本をはじめ、下記のようにタイなどにもあるが、この看板は避難先ではなく、それぞれの場所での過去の最大の津波高である。

上2枚と左の写真は2012年8月に撮った。上2枚は国道45号線から分かれて、鉄道(三陸鉄道南リアス線)の下をくぐって岩手県大船渡市三陸町越喜来(おきらい)の集落に降りていく道だ。

この道(県道9号線)は、海岸沿いを南の大船渡市街地まで走る、国道45号線の旧道である。いまの国道45号線は、このあたりでは、山の上をトンネルと峠で越えている。

なお、三陸鉄道南リアス線は(JR東日本・大船渡線の終点)大船渡市盛から釜石までの 37 kmをつないで11の駅があった全線が単線で非電化の鉄道だった。東日本大震災以後不通のままだったが、ようやく2014年春に開通した。

写真は三陸駅のすぐ近くだ。この
越喜来集落は、津波で一掃されてしまった。写真で見られるのはみな、震災後に建てられた建物である。写真の少し先にはプレハブづくりの、小さな越喜来の仮設商店街がある。

左の写真は同じく国道45号線、陸前高田から南へ、宮城県気仙沼へ至る道である。一見、山中のような、こんな場所にも東日本大震災の津波が襲ってきたのである。

右の写真は、岩手県・唐丹(とうに)で。上の越喜来(おきらい)の北、釜石市の南のはずれにある。その唐丹の海岸沿いの道。道端の木の高いところに、左側に4個、右側に2個の養殖漁業用の海に浮かんでいた浮き球(ボンデン)が引っかかったままになっている。 少なくともこの高さまで、東日本大震災の津波が来たということだ。

この唐丹にも三陸鉄道南リアス線が通っていたが、震災後長らく不通になっていた。

じつは、ここ唐丹は、明治三陸地震の津波、昭和三陸地震の津波で大きな被害を出している。このため高台に移転した家屋がかなりあって、今回の津波でも、それらは健在だった。しかし海浜に降りていた家屋は巨大な防潮堤があったのに、その防潮堤が壊されて、多くの犠牲者をだしてしまった。

なお、越喜来と唐丹の間にある(大船渡市三陸町)吉浜という海岸沿いの集落と、越喜来の南にある(大船渡市三陸町)綾里(りょうり)白浜の集落では、人的な被害はゼロだった。津波はほかの地域と同じように上がってきたが、被害を受けたのは田畑だけで、高台にあ った住宅の被害はなかった。過去の津波の教訓が、ここでは生かされていたのである。三陸地方全体で人的被害がなかったところは、きわめて限られていた。

ちなみに、「越喜来」は「おっきらい」とも言う。この近くには唐丹(とうに)、とか綾里(りょうり)とか、吉里吉里(きりきり)とか、女遊戸(おなっぺ)という、普通には読めない地名が多い。

道北にある美深(びふか、じつはピゥカが元の発音)であるなど、北海道の多くの地名と同じく、先住民族アイヌの「音」だけの発音に漢字を当てはめたものなのである。


ともに、2012年8月、東日本大震災の被災地で


1-2:熱帯・タイの海岸近くの津波の看板

タイ南部にあるプーケット島は、世界的な大観光地でもある。アンダマン海に浮かぶタイで最大の島で面積は約540平方キロ。定住人口は20数万だが、観光産業に従事する人や観光客を入れると、その3倍にもなる。

中国やビルマの国境を除いては内陸では被害を出すような地震が起きないタイでは、2004年12月に起きたスマトラ沖地震(モーメントマグニチュード9.3)の前には、日本の1.3倍もある国土全体で14カ所の地震観測所しかなかった。ちなみに、日本全土には1000を超える地震観測点がある。しかもタイの地震計は旧式のアナログ式の機械で、震源の計算は手計算であった。これでは、津波に間に合うはずもない。

地震後、各国の援助もあって、2009年までに全土に40カ所のデジタル地震観測所が展開され、観測されたデータは、衛星回線で、瞬時に首都バンコックに集まるようになった。また2006-2007年にアンダマン海の西のインド洋沖合に津波観測用の固定ブイ2個が設置され、今後さらにこれらより東のタイに近いアンダマン海の沖合に3個設置されている。

また、タイ全土の海岸に、サイレンやスピーカーで津波を知らせる警告塔が増やされていっている。最終的には300基ほどになる予定である。

しかし、これらのシステムも、次にもし大津波が襲ってくるとしたら、まだ、万全のものではない。もっとも、日本の津波警報システムも、まだ大きな問題を抱えていることも確かだ。

一方、タイにとって大きな収入源であるプーケットの観光を立て直すために、国として最大限、最優先の配慮が払われた。

プーケットにあった痛ましい津波の痕跡はすべて消し去られた。そのかわり、海岸には上の写真のような真新しい津波避難路の標識が、いくつも立てられている。

しかし、喉元すぎれば・・の諺どおり、大津波から10年がたったいまでは、大津波のことよりも、人々の関心は観光客集めにある。また、観光客のほうも、過去の大災害を知らないし知ろうともしない人も多い。

ちなみに、このタイの標識のピクトグラムは国際的に推奨されたもの(たとえば1-3の熱海のもの二種)ではない。しかし、なかなかよく、津波を示している。

なお、右の看板は、やはり国際基準ではない、メキシコの太平洋岸、アカプルコ近辺にある津波の看板。これはこれで、走って逃げる人間の背後から大きな津波が襲いかかるという津波の恐ろしさが、よく表現されている。

(上の写真は2009年5月、タイ・プーケット島で。右の写真は2012年6月、メキシコで


1-3大観光地・静岡県熱海の津波の看板

日本有数の観光地・熱海は相模湾に面している。そして、過去たびたび、大津波に襲われてきた。なかでも、元禄関東地震(1703年)では、すぐ東にある神奈川県・小田原や熱海で大きな被害が出た。

関東地震(1923年)でも、元禄関東地震ほどではなかったが、かなりの津波被害を生んだ。これらの地震は、相模湾の海底にある相模トラフからユーラシアプレートの下に潜り込んでいくフィリピン海プレートが繰り返し起こしてきた地震で、今後、また起きる可能性が高い。

熱海は、鉄道や駅や商店街が高台にあるのと違って、海岸沿いに、温泉旅館やホテルやマンションが林立している。また、すぐ近くの初島へ行く定期船の乗り場など、いろいろな港の施設も海岸沿いにある。

このため、「次の津波」に備えて、海岸沿いには、左と右下の写真のような、津波の看板があちこちに立てられている。津波注意(黄色)と津波避難(緑)の国際的なピクトグラムのほか、逃げるべき方向や、現在地の海抜が示されている。

しかし、実際に避難路を歩いてみれば分かるが、この海岸から、駅や商店街のある高台に上るのは、大変に急な坂道だ。しかも、海も見えない、両側がトタンの板に囲まれた狭い坂道なのである。

津波は昼間に襲って来るとは限らない。暗い夜中に、この狭くて海が見えない、しかも、自分がいまどの高さまで登っているのか表示されていない避難路を上がるのは、なかなかの苦労になってしまう。とくに地震で停電していると、真っ暗闇の坂道を上らなければならない。

上の1-2のプーケット島の避難指示と違って、この看板には、「何メートル先まで逃げればいいか」の表示がないのは不親切である。観光地ということは、ふだんはこの辺を知らない人々が集まっているところである。行く先や、そこまでの距離を示すのは最低限、必要なことのはずである。

上の1-2のプーケット島と同じく、観光地の人々は、観光客を集めることだけが関心が高くて、災害には関心が低い。それどころか、津波や、観光地によっては火山災害のような自然災害について広報することは、客集めに支障がある、とも考えている。

たとえば北海道・洞爺湖のほとりにある洞爺湖温泉町は、活発な活火山・有珠火山のすぐ下にあるが、有珠火山が噴火したときに地元にどういう被害が及ぶかというハザードマップを作って配布することに長らく反対してきた。近年になって、火山学者たちの説得に応じて、ようやくマップが作られて配布されるようになったといういきさつがある。

これは世界共通の問題点なのである。

(2014年3月に静岡県熱海で撮影)


1-4「先進地」、静岡では1985年にすでにこういった看板がありました

1976年に「東海地震」が起きることが指摘され、1978年に大規模地震対策特別措置法(大震法)が作られた日本。「地元」である静岡県一帯では、自主防災組織という隣組が作られ、地震や津波の対策が地元住民ぐるみで始まった。

そして、この種の看板も、あちこちに立てられた。まだ看板づくりに行政が関与していないから、いかにも手作りの看板だ。

これは静岡県焼津にあった看板。しかし、さすが地元の人たちの作品、現在地からどこをどう通って避難地まで行くのかが、矢印も含めて明確に記されている。また、「点線まで避難」という点線も地図上に明確に描かれている。

その意味では、1-3の熱海の看板よりは、必要な情報量が、ずっと多い。

左の写真は、同県御前崎の海抜表示。すぐ後ろは海だ。中部電力の浜岡原発は、すぐ近くにある。

いかにも手作り。手書きだ。後ろは御前崎灯台。灯台の隣に気象庁の御前崎測候所があり、気象庁の研究者との共同研究として、私はそこに私の観測器を置かせて貰っていた。

(1985年5月。右は静岡県焼津、左は同県御前崎で)


1-5そして遅ればせながら、東京も・・

日本に限らず、世界の大都会は海に面していることが多い。それゆえ、都市の中で、海が見えないところでも意外に海抜が低くて、ちょっとした津波でも浸水してしまうことがあり得る。

ここは東京・銀座の近くの宝町の都営地下鉄浅草線の入り口。ここからは海は見えないが、海抜はたった3.8mしかない。上の1-4の御前崎の海岸沿いの駐車場よりも低い。

しかも、ここから階段で下りる駅や地下鉄の線路は、海よりもずっと低いところにある。もし津波に襲われたら、地下では惨事が起きるに違いない。

人々に注意を呼びかけるためか、近頃、東京の各地で、このような海抜の表示の看板が目に付くようになっている。

右の写真は東京都墨田区にある東京メトロ(地下鉄)の総武線・錦糸町駅前広場の入り口。海からは6キロも離れているが、そもそも駅前広場にある入り口(階段の降り口)の海抜がマイナスなのである。

この辺は水路が縦横に走っていて、その水路を越える橋は、どれも道路よりも一段と高くなっている。

しかし、どちらの表示にも、津波のピクトグラムも、避難路の表示もない。もし、それらを表示したら、東京中が津波の看板だらけになってしまうからに違いない。

もっと海に近くて、江戸時代までは海だった場所では、もっと切迫している。

左の写真は東京港区・品川駅と田町駅のほぼ中間地点の東側(海側)にある看板だ。ここはかつて海底だった。上二ヶ所と違って、ここでは海抜を示すだけではなくて、このビルに逃げ込め、という指示の看板も併設されている。なお、「このビル」とは、後方に見える港区立芝浦小学校だ。

(上の写真は2013年3月に東京都中央区で、また右上の写真は2014年5月に東京都墨田区で、また左の写真は2015年12月に東京都港区で、それぞれ撮影)


2-1:津波が襲わない国でも、水につかることがあるのです(ドイツ、フランクフルトとブレーメンハーフェン)

津波が襲うのは、海岸に多いが、海岸だけとは限らない。湖でも、火山噴火や土砂崩れによって湖水が増えて大きな津波を生んで被害を出したことがあった。

しかし、津波が来ないに決まっているところでも、別の意味で水が溢れる災害がある。洪水である。ドイツ中部にある商都フランクフルトは、その中心をマイン川が流れている。欧州各国を流れてきて、最後にドイツに達する大河、ライン川の支流のひとつだ。

このマイン川は過去たびたび洪水を起こして、ドイツにも被害をもたらした。

右と下の写真は、フランクフルトの中心部、マイン川の橋脚にある、過去の水位の表示である。それぞれの最高水位とそれを記録した年月日が記されている。古くは1576年1月11日のものも記録されている。数字の下にアンダーラインのように描かれているのは、1センチも違えるものかという厳密な水位であろう。さすがドイツ人だ。

ライン川やマイン川など、欧州の洪水は、何日もかかって、ゆっくり水位が上がってくるのが特徴である。このため、津波のようにいきなり襲ってきて多数の犠牲者を出すことはない。しかし、たとえじわじわ上がってきたとしても、ほとんどが平地で逃げるところがない欧州の平野部では、最終的には、大きな被害を生んだことも多かった。

被害は市街地だけではなく、郊外の鉄道の線路が洗われて垂れ下がってしまうなど、欧州の広範囲に及ぶことが多い。

左の写真で、いちばん上にあるプレートには1682年1月18日と刻まれている。二番目の高さのものが1784年だ。

この種の洪水は最近になっても繰り返されている。

たとえば2013年にも洪水があり、6月に入ってからの記録的な大雨で欧州中部一帯の川が過去100年で記録的な水位に達した。たとえばオーストリアでは2日間で二か月間の雨が降った。

被災地を訪問したドイツのメルケル首相は1億ユーロ(約130億円)の緊急支援を実施することを表明した。現地では数万人単位で避難が行われた。

また6月11日にドイツ国鉄(DBB)が出した掲示。「5月末から、大雨のため中欧のオーストリア、チェコ、ドイツ等では列車など交通機関の運行に影響が出ていますが、昨日からはドイツ東部のエルベ川の氾濫のためベルリンとフランクフルトやケルンを結ぶ特急・ICEも一部区間で運休となっています。代替列車で移動は可能ですが、現在旅行中の方など直近で利用をする方はどうぞ注意してください」。

一方、ドイツでも北部の北海に面した海岸近くでは、高潮によって市街地が水につかってしまう被害がときどき出る。

右の写真はドイツ北部の港町、ブレーメンハーフェンで海に流れ込む川沿いにある水門。水位が上がったときには閉める耐水扉である。下部のレールに見られるように、外側からの水圧に耐えるために、閉めたときにはV字型になる。

ここにも、過去の水位や、水位が上がったときの注意が書かれている。この扉には、左下の写真のように、1962年のときの最高水位が示されている。このとき市街地は3メートルもの水につかってしまった。

1962年の高潮は「Vincinette」ハリケーンによるもので、ここブレーメンハーフェンだけではなくて、エルベ河畔のハンブルグも含むドイツ北部など北海沿岸の広範囲に大被害をもたらした。340人以上の犠牲者を生んでしまった大災害だった。

もっとも、欧州には津波が来ないわけではない。1755年にはポルトガルの首都リスボンが大津波に襲われて、津波による死者だけでも1万人を優に超える犠牲者を出したことがある。

この津波を起こした大地震は、いまのモーメントマグニチュードというスケールでは8.5 - 9.0という最大級の地震で、ポルトガルの西の沖、リスボンの200キロほど南西沖に起きた。

 この地震では当時のリスボンの人口28万人のうち9万人もが死亡した。地震の揺れや地割れによる被害に加えて、約40分後に襲ってきた大津波が市街地を呑み込んで被害を拡げ、さらに火事が燃え広がって欧州史上最大の自然災害になってしまった。


ポルトガルは多くの教会を援助し、海外植民地にキリスト教を宣教してきた敬虔なカトリック国家だった。その首都リスボンが、万聖節というカトリックの祭日に地震に襲われて。多くの聖堂もろとも破壊されてしまったのだ。

18世紀の神学や哲学にも強い衝撃が及んだ。この大地震はポルトガルだけではなく広くヨーロッパの政治や経済や文化にも大きな影響を与えた。

国王ジョゼ1世は幸い怪我ひとつしなかった。しかし地震の後、王は閉所恐怖症になってしまって、石造りの壁に囲まれた部屋で過ごすことが出来なくなって宮廷を郊外の大きなテント群に移した。閉所恐怖症は死ぬまで治らなかったという。

じつは、この地震は不思議な地震で、なぜここに、こんな大地震が起きたのか、よくわかっていない。このことを研究するために、私は海底地震計を持って、ポルトガルまで行ったことがある。

(2004年に上2枚の写真はドイツ・フランクフルトと下2枚はドイツ・ブレーメンハーフェンで撮影。撮影機材は Panasonic DMC-FZ10)


 気象庁の津波警報の問題点(その1その2)はこちらへ



 

島村英紀が撮った「海の風景」
島村英紀が撮った海底地震計の現場
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