当時中学生だった私がゴールを決めた、この「決定的瞬間」の写真を撮ってくださったのは、当時、附属中学でサッカーを教えて下さっていた体育の松木正忠先生である。

 松木先生は東京教育大学卒業。たしか、1956年に行われたメルボルンオリンピックのサッカー代表の候補でもあった。のちに群馬大学教授。著書に『あたらしいサッカーの授業 小・中・高等学校改訂学習指導要領準拠』 徳田有基・松木正忠・永嶋正俊の共著、東京:文化書房葉博文社、1972年発行がある。2008年現在、群馬県サッカー協会の名誉会長をしておられた 。なお、2017年12月1日に老衰で亡くなられた。88歳だった。

  なお、永嶋正俊さん(東京教育大学卒、日本大学教授)は、小学校で私に多大な影響を与えてくださった永嶋浩一先生の弟で、いわばサッカー兄弟だった。都立大泉高校の先生だった1950年代当時、日本ではきわめて珍しかった国際試合の審判をしておられた。また、私たちが高校2年のときには東京都の予選でも、たびたび審判をしておられた人でもあった。つまり、当時としては日本に数少ない審判だったのである。私の友人でAKという有能なバックがたまにやるラフプレー(反則の一歩手前の荒技)を”見逃して”くれて、そのたびににやっと笑ったのをAKは肝に銘じていて、いまだによく憶えている、という。教育者でもあったのであろう。

 撮影場所は、私たちの中学(東京教育大学附属中学)のグラウンドで、後ろに見えるのはお茶の水女子大の建物だ。 撮影時期は1955-1956年ごろである。

 私の記憶によれば、松木先生は、当時は高価なゆえ、ほとんど誰も持っていなかったコンタックスに標準レンズをつけて、私たちの写真をよく撮っていた。また、中学生や高校生にサッカーを教えるための教材用スライド(や本のための写真)を撮影するために、私たちのチームの各人がモデルになった。私は、インステップキックのモデルとして写真を撮られたのを憶えている。

 なお、インステップキックとは、ラグビーでにゴールをねらうときのように爪先で蹴るのではなく、足の甲で蹴る、もっとも強くて正確な球が蹴れるサッカー特有の蹴り方(上の写真のもの)である。

【追記】その後、右の写真を見つけた。残念ながら、いつの写真か、対戦相手はどこだったかの記録はない。

しかし、ユニフォームから見ると、高校時代だったろう。私のポジションはフォワード(最前線で攻める5人)だったはずだが、守りの姿勢で、自画自賛ながら、相手のボールを(ファウルにはならないよう)なかなか正確にブロックしている。

【2017年8月に追記】 この年の夏に出来た「付属蹴球部各回部史」。主将だった山田通夫の回想記では、「当時、山田の周囲には、才能あふれた仲間が多かった。FWでは強烈なシュートで得点源だった島村、・・・(中略)・・後輩ながら天才肌の浜窪などなど。それに比べて山田。技術はもちろん、身長もパワーもシュート力もない」「島村英紀 附属中時代は抜群のゴールゲッター。高校でサッカー部”中退”」とある。

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