北海道大学工学部「汎用シミュレーター便り」1995年No.25巻頭言(1995年7月発行)に掲載

論戦『大学の研究にとってのムダの効用』

島村 英紀

 

 21世紀の世紀末、昔、日本という国があった北辺の島で、雑誌の破片らしきものが発掘されて、産業考古学者たちが、当時の日本語を解読することに成功した。当時の日本は貿易黒字も大きくて繁栄していたとされているが、この文献は、研究費の分配をめぐっていさかいが起きていたこと、つまり20世紀末当時の日本は言われているほど豊かではなかったのではないかということを示唆している。なお発見された文献は、始めと終わりが欠けており、何のためにこの議論が行われたのか、結論がどうだったのか、それが当時の日本の政策にどう反映されたかは分かっていない。以下は解読に成功した論争である。

 
自分の研究に無限の未来があると思っている気鋭の論客の研究者A「一生、競争に生きなければならなかったり、厳しい評価を受け続けなければならない欧米の科学者と比べて日本の大学はぬるま湯である。日本の大学の研究者はいったん教授、助教授になるとその地位に安住してしまう傾向が強い。げんに某旧制帝大では自分の学会を持って参加しているという科学者は、わずか半数にすぎないほどで、ほかの大学でも同じような傾向であるに違いない。相撲部屋と講座はその封建的なことで日本の双璧である。

 また、いったん出来た講座や施設は、その当初の使命や研究目的を達成したかどうかに関係なく、いつまでも続くことになり、いつまでも研究費ももらいつづけることになる。

 いままで講座制を旨としてきた日本の研究費支給システムでは、活発な研究をしているかどうかに関係なく、講座費が均等に配分されていた。これでは研究がマンネリ化するのは当たり前である。

 その意味では、科学者が自分の努力で科学研究費を得たり、自分たちの努力と積み上げた実績で新しい施設を造ってもらったりする仕組みは、それだけ「進化した」仕組みで必要な改革ではある。同時に、当初の使命や研究目的を達成した講座や施設には「天寿」が訪れるべきであろう。こういう新陳代謝の風潮が研究にとっては健全な姿である。」

 
日本に絶望しかかっている悲観派の研究者B「しかし、その新しいとおっしゃる研究の客観的な評価や、科学研究費補助金の配分には多くの問題がある。まず、日本人科学者はお互いの冷静で客観的な評価に慣れていない、あるいは出来ないのではないかと思われる。これは科学論文の評価や審査でも同じである。

 そのため、たとえば科学研究費の審査も、理想からはほど遠い。提出された申請の冷静で客観的な評価よりも、申請した科学者が属する研究室や講座や大学の一般的な評価と混同されやすい。配分委員に選ばれると、自分の仲間や後輩になりふりかまわぬ我田引水をする科学者も多いと聞く。

 また科学研究費では、現行ではいわゆる「二段審査」のおかげで、二段目には、提出された申請がいいものかどうかという客観的な評価よりも、全国的に見たときの大学別の配分を考慮するといった気配りが優先されてしまったりする傾向が強い。施設の新設などでも、それがどの大学に付置されるのかの要素が強く働くことがある、つまり同じものを造ろうとしても、東大や京大にくらべて地方大学は不利なことが多い。」

 
研究にロマンを追い求める守旧派の研究者C「私はAさんには反対である。これは米国などでも同じだが、科学研究費のように申請して配分を受ける方式だと、当面の結果が出やすい、つまり近視眼的なものや、学会の主流におもねるものだけがテーマとして選ばれやすく、いい結果が出るかどうか分からない「冒険」が試みにくい欠点も出てしまう。

 何年も鳴かず飛ばずでも、その後に大研究が成った例は多い。いや、大研究とはそもそもそのようなもので、お手軽に量産できるようなものであるはずがない。大ホームランか、あるいは三振か、といった大仕事も企画・実行しにくくなる。三振を恐れていじけたバットの振り方をしていてはホームランは打てないのである。


 つまり、ほんとうに革新的で、審査員にも理解できないような大研究は、現行の研究評価や科学研究費の審査からは落とされてしまう可能性が高い。しかし、真に革新的な研究は、こういった自由で世知辛くない研究環境からしか生まれないのではないか。

 研究にはある程度のムダは必要であり、工業製品を効率よく作るように研究が進められるものではない。一見ムダに見えることこそが創造の源泉である。そもそも「社会の要請」といった猫の目のように変わるヌエ的な考えに取り入ってかしずこうなどということは、大学の研究にとっては百年の計を誤ることにもなりかねない。」

 
日本に絶望しかかっている悲観派の研究者B「Cさんにある程度は同感する。日本に限らず、Cさんが指摘した問題点は世界の科学研究の問題点でもある。

 しかし私はそれ以上に日本にこだわりたい。いまの日本の仕組みでは、学際領域や境界領域など、既存の学問分野や審査領域から外れるものは評価が低くなったり、審査に通りにくいことがある。評価は審査を行う人々はごく狭い分野の専門家であることがほとんどである。自分の狭い学問に安住しているのが日本ではもっとも世渡りに安全で、しかも驚くべきことに学者としての評価も高まることが多いことから、正当な評価が出来ない、あるいはしたくないのである。

 また日本的な「ムラ」意識も研究の客観的な評価を難しくしている。科学研究費を例にとれば、ある分野では、科学研究費の項目を作るところから、あるグループが関与して、以後数年間にわたる配分も、その排他的なグループが牛耳っていることもある。また研究の分野によっては強力な「団体」があって、科学研究費の配分を左右するばかりか、結局は末端の科学者のところまでほとんど均等化されてしまう、つまり科学研究費の「哲学」がまったく殺されてしまうこともある、と聞いている。

 じつは日本の科学者の努力と能力にもいささかの疑いがないわけでもない。たとえば科学研究費の申請を読む方から言えば、ズサンで努力が足りない申請が多い。納税者から見ればかなりの金額をもらおうと言うわけだから、もっとはるかに大きな努力を申請につぎ込むべきであろう。

 しかし現実には、自分が何をやりたいのか、どういう成果を期待できるのか、それが科学としてどういう位置づけの仕事なのか、そのためになぜ、これだけの研究費が、もとをただせば私たちの税金から支出することがほんとうに必要なのか、を他人に分かりやすく、しかも丁寧に書くべきなのに、不十分な説明や独りよがりの考えの筋道や分かりにくい文章がじつに多い。

 科学者は自分の科学の社会還元、つまり世間や他人に理解してもらうことに努力すべきであり、申請書がその程度では、かりに研究費を得て研究を行った後での社会還元も出来るのだろうか、心配になるほどである。」

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