島村英紀の裁判通信・その26
(2007年2月18日に配信)

編集部の解散+編集部員一人一人からのメッセージ)


<編集部を解散します>

昨年6月から始まった「島村英紀裁判通信」も、すでに25回を数えました。

当初、関係者から「そんなことをしてなんの役に立つのですか?」という意見も出ました。

「役立つ」という観点からすればその通りで、このメルマガは裁判になんの影響も与えることはできず、自己満足の虚しい作業だったような気もします。

私たちは無罪判決を勝ち取ることができませんでした。

ただしかし、ご心配をかけたみなさま方には、島村が「私腹を肥やした悪徳学者ではない」とご理解いただけたのではないかと思います。さらに「島村が半生をかけてなにを研究していたのか」「地震予知に対してどんな発言をしていたのか」もお伝えできたと思います。

先般、島村は悩んだ末、有罪判決を受け入れましたので、この「裁判通信」も終了して、編集部を解散することに致します。


私たちは「裁判通信」を通じて、「カンパのお願い」「署名のお願い」などは致しませんでした。「なにをしてほしい」ではなくて「なにを知ってほしい」が私たちの望みであり、また限界でもありました。

今日以降も同様です。私たちの名前でのカンパ・署名・販売・勧誘などのお願いは絶対に致しません。

今後、編集部からみなさまへメールは送りません。たとえ島村が新しい本を書いた場合でも、この島村英紀のホームページから告知します。ダイレクトメールはありません。すべては島村HPに集約致します。もしもそのようなメールが回った場合は、それこそ「詐欺メール!」と考え、島村にご連絡ください。

今日以降の支援広報活動は、この島村英紀ホームページを中心に展開します。

島村が自己責任で運営しているHPですので、私たちはチェックいたしません。

島村の闘いは、まだまだ続きます。私たちはサポート役に徹しますが、みなさまにも、どうか変わらず島村英紀を支えていただきたいと願っています。


これで編集部の4人もめでたく元の「徘徊ボケ老人」に戻ります。

池田信一は碁会所巡りと散歩に精を出し、滝沢睦夫は読書とパソコンのシステム構築に熱中し、川戸康暢は障害児NPO運営に戻り、小塚直正は晴れた日には自転車を走らせ、雨の日は映画館へというなにげない毎日を繰り返すはず。

いま泉谷しげるの歌「春夏秋冬」をなつかしく思い出しています。

  今日で全てが終わるさ 今日で全てが変わる
  今日で全てが報われる 今日で全てが始まるさ


(写真は左から川戸康暢、池田信一、小塚直正、滝澤睦夫。東大正門前に私たちの学生時代から続いている、馴染みの喫茶店・ボンナの前で。2006年秋・島村英紀撮影。保釈後なので、表情が明るい。なお、この喫茶店は、かつて丹下健三など、東大に出入りしていた多くの人の馴染みの店だった。ずっと同じマスターが夫人とやっている店だが、いまは近代化して、無線LANが無料で出来る。また、かつてコーヒーにうるさい京大のある教授に紹介したら、以後、彼はこの店にやみつきになった。=島村英紀・

<編集部>池田信一滝沢睦夫/川戸康暢/小塚直正


なおこの「メルマガ終刊号」に「おまけ」を付けました。編集部を構成してきた4人が、書き残したこと、これからすること、そして皆さまへの感謝を申し述べます。それぞれがこの1年間の思いを書いただけですので、ヒマネタとご理解ください。

26-1 池田信一 島村英紀と東大新聞
26-2 滝沢睦夫 北海道大学への黒い疑念
26-3 川戸康暢 島村事件の私的おとしまえ
26-4 小塚直正 青き時代がまた遠く


池田信一(島村英紀の友人その1)
島村英紀と東大新聞

「裁判通信」を発行してきた私たちは、島村とは何の利害関係もない単なる友人です。

島村との共同研究者ではないし、もちろん競争相手でもなく、島村が教授をしていた北海道大学とも関係がありませんでした。

初めて「裁判通信」を発信するとき、「自分たちは何ものであるか」をわかりやすく説明するために「昭和30年代に東京大学新聞(以下、東大新聞)で一緒だった仲間」と名乗りました。

しかし、それは正確ではありません。東大新聞の後に作った総合雑誌「大学論叢」メンバーだったり、駒場寮の同室メンバーだったり、また五月祭(東大の全学の大学祭。このほかに秋に駒場祭という教養学部生による別の大学祭もあった)委員だったり、学生運動仲間だったり、さらに卒業後の編集事務所メンバーだったり・・。島村を含めた5人のうち何人かがどこかで重なり合いながら、いままで勝手に生きてきました。

滝澤と小塚は、島村の逮捕後の昨年3月の情報交換会議で44年ぶりに会ったとか、島村と小塚もメール交換は10年ほど続いていても、顔を合わせたのは大学卒業以来とか。ほとんどが、親しい付き合いはしてこなかったのです。

それでも2月1日の「島村逮捕」の報道に、すぐさま連絡を取り合い、集まり、対策を考えました。

大学を卒業して40年以上経っているのに(私は10年在籍しただけで卒業していませんが!)、話がすぐまとまって、ネット情報収集、弁護士訪問、北海道グループへの連絡、島村英紀の書籍解析などの役割が決まり、さっそく動き始めました。

年齢的に忙しい仕事から離れていたことが大きいかもしれません。

しかし、それぞれと島村の関係は、上記のように深くはなかったのです。でも「昔の友だちが困っているらしい」で全員が自分から動き出しました。


私と島村の関係は、北海道グループを紹介した絡みもあり、みなより濃かったでしょう。といっても年に2回か3回、東京か札幌で会って、軽い夕食を共にしながら、近況を報告し合ったり、世間話をする程度でした。

それが1960年代から40年以上も続いてきたのだから、ある面では珍しいつき合い方なのかもしれませんが、そのように「一定の距離をおいた長期間にわたる友人関係」だからこそ、島村が巻き込まれた「事件」を公平かつ冷静に見ることができるわけで、しかも一般的な市民の常識的な感覚として「これは、おかしい」と感じたから、できるだけ多くの人に事実を知ってもらいたいと考えたわけです。

私が、島村と初めて出会ったのは1960年4月でした。東京大学に入学したばかりの彼が、財団法人・東京大学新聞社の編集部に入ってきたからです。私は2年ほど先輩でした。

東大新聞は学生新聞とはいっても、毎週発行する上にページ数も多いし(4 - 8ページ)、学内のニュースや学生運動の動向だけでなく、各種の学会(研究者グループ)や学術会議・文部省の動向など、さまざまなことを報道していました。

さらに小説と評論の「五月祭賞」まで主催していて、当時の受賞者からはあの大江健三郎さんや、野口武彦さん、柳父章さんのような作家や文芸評論家、翻訳家が育っています(受賞だけではなく、佳作も含む。大江の受賞以降しばらく、彼との比較で、1位作品でも「佳作」とするようになってしまった)。

編集部員(学生記者)の仕事は非常に忙しくて、だから、実験や実習を伴う授業が多い理科系の学生が入ってくることは滅多になく、島村はかなり珍しい存在でした(東大新聞の側からすると「自然科学に強い島村記者」は貴重な存在でした)。


しかし、島村と私との出会いにとって、それ以上に大きな意味をもっていたのは、それが「1960年だった」ということではないでしょうか。

島村たちの世代が大学に入学する少し前から、日本中の大学と市民の間に「熱い空気」がたちこめ、毎週のように「アンポ反対!」「岸を倒せ!」の街頭デモが行われていたからです。

そして、6月15日の夜には、あの樺美智子さんが「国会構内での抗議集会中に警官隊に襲われて圧死」したので、東大新聞では彼女を追悼する「号外」まで出したほどです。

しかも、通常号の何倍もの部数を発行し、編集部員が渋谷・新宿・池袋・上野・お茶の水などの駅前に立って、道行く市民にそれを手わたしたから、大きな社会的反響をまき起こしたものでした(やがて地方出身の学生たちが「夏休みに帰省したとき、ふるさとの駅前で配りたいから」といって何十人も編集部に申し込んできたので、さらに何万部かを増刷したほどです)。

樺美智子追悼の「号外」を出すことによって、学生や市民に大きなインパクトを与えたといっても、私たち学生記者は学生運動の活動家ではありませんでした。

東大新聞は当時、分派活動が盛んになっていた学生運動のどの派閥とも特別な関係をもたず、学生運動そのものとも「一定の距離」を置くようにしていました。

そして「学生運動も、大学祭やサークル活動、講義、実験、ゼミナール、下宿生活、アルバイトなどと同じように、学生生活(学生風俗)の一つの側面にすぎない」と考えて、一般的な市民=学生の目でそれを冷静に観察し、事実のみを客観的に報道するようにしていたのです。

「事実をして語らしめよ」という言葉がありますが、私たちは学生生活の中で発見した事実を示すことによって、自分たちの考えを読者に伝えようとしていたわけで、だから、東大新聞には「社説」や「論説」などのページがなく、編集部員の考えを「ナマのかたちで主張する」ことはありませんでした。

そのため、学生運動の活動家たちから「客観的報道なんて、ブル新みたいなことを言うんじゃないよ」と批判されたこともありましたが、私たちは学生運動とは別なかたちで、その時代の学生たちが抱えている、そして学生の目からしか見えない問題を、社会に伝えていきたいと考えたのです。

島村と私との友人関係が長続きした唯一・最大の理由は、このような「熱い季節」を共に体験したことだといってもよいでしょう。

滝澤や川戸、小塚などは、島村より1年早く大学生になっていたので、「60年安保闘争」の影響をもっと大きく受けたはずです。当時、彼らは、私とは別の考え方で別の活動をしていましたが、それぞれにとっても「熱い季節」であったことは変わりなかったでしょう。


最後に、私の心境の変化を書きとどめておきます。

島村と出会って半世紀近くの時が流れ、私はいま70歳です。

東京大地震は私が死ぬまで絶対に起こらないと信じていたのですが、最近はその心境がすこし変わってきました。予知ができないまま東京大地震が発生し、地震予知事業に深く関わってきた連中がうろたえるのを見極めるまで、生き存らえてやろうかと考えています。


滝沢睦夫(島村英紀の友人その2)
北海道大学への黒い疑念

この1年間、10年ぶりに研究開発の世界に逆戻りした感じでした。

島村君が全精力を注ぎ込んで研究してきた過程を、場所と専門は異なりますが同じく研究開発に携わってきた経験から、私にわかっている範囲で説明し、彼を知る多くの方々に正しく理解して頂こうと悪戦苦闘しました。

彼の研究の過程とは、地震が発生する場である地球の地殻構造の解明を、いろいろな障害をものともせず、何としても追究しようとしたものです。

更に、その結果わかったことを学者としての良心に従って世に広めようと努力しました。

この彼の研究活動、啓蒙活動は決して犯罪と結びつくようなものではなかったことを皆様に理解していただこうとしたのです。

結果は、残念ながら強大な権力には抗する術がなく、ご存じの通り不本意なものとなってしまいました。

しかし、裁判を通じて、彼の業績および学者としての良心はいさかも傷ついていないことを、裁判の資料としても残すことができたと確信しています。


今回のこの不可解な事件に関しては、その発端から、どうしてこの件が犯罪事件として取り上げられたのか、どう考えても説明のつかない疑惑が数多くあります。

先ず、告訴という非常手段を敢えて選んで口火を切った北大の行動については、なぜか? という疑念を拭えません。

更に、島村君の弁護士でさえ予想しなかったほど突然だった2006年2月1日の逮捕直後の2月3日に、まるで逮捕を予定していたかのようなタイミングで、日本地震学会が「容疑が事実であるならば、地震研究者への社会的信頼を大きく裏切るものであり、極めて遺憾と申さざるを得ません。同会員は本会の代議員の職にあり、日本地震学会としてもこの事態を極めて重く受け止めております。今後の捜査の進展を見守り、適切な処置を行って参ります。皆様には、ご心配をおかけして誠に申し訳ございません」という、詫び状ともいえるコメントをHPに公表したという事実は、何を暗示しているのか? 

幹部の独断だったのか? 事前に周到な準備をしていたのだろうか? いずれにせよ、学会のホームページからは4月3日には削除されていました。

更に、漏れ聞く、極地研究所長へ転出直後から始まった、周囲への、またそこを通しての諸々の圧力等から推測すると、北大内部だけではなく、更に大きな力が働いているのではないかという疑問も残っていますが、とりあえず今回の事件を直接仕掛けた北大についての疑問点に絞ります。

前に「裁判通信9」で、「北大の告訴の目的に対する疑念」を部分的に提起しましたが、裁判通信を一旦閉じるにあたって、何時かこの間の実情が白日の下に暴かれ、彼の名誉が回復されることを期待して、この疑念を整理し明確にしておきたいと思います。


その疑念を列挙し、説明を加えると、次のようなことです。

1.北大は一体何の目的で、何を得ようとして告訴に踏み切ったのであろうか?

今回島村君が控訴を断念して刑事裁判としては結論が出てしまった。

しかし、この結論で北大が得たものは何もないといってよい。

ベルゲン大学から得た共同研究費の残りの1,850万円は、民事裁判の和解の結果、確かに北大に入ったが、これは国庫に納めるべきものであり、北大が自由に処分できるものではないはずである。

北大当局者は「正義を守るため」と主張するかも知れないが、そもそも、北大は業務上横領で刑事告訴したのに、検察が(それでは立件できないと判断したのであろう)勝手に「詐欺罪」に変えて立件した。

しかも、被害者であるベルゲン大学は、検察側証人であるミエルデ教授も、その上司も「騙されたとは思っていない」と明言しており、また、提供した研究費を返せとも、購入したとされる海底地震計が日本その他に持ち出されているにも拘わらず、返却も要求していない。つまり、被害者は存在しないのである。

それにも拘わらず、判決は、ミエルデ教授が法廷で述べた(司法側の誘導尋問ともいえる)「北大が許可していないと知っていれば振り込まなかった」等という部分的な言質のみを取り上げ、騙したとして有罪と結論づけた。これを正義といえるのか、世の中の常識から見ても、はなはだ疑問である。

そう考えると、目的は唯一つ、独立法人化した大学内部での指導権を握ろうとしている人達(又はその背後にいる勢力)が、意に沿わないか又は狙いを定めた研究者を見せしめの為に、研究とは全く関係ない破廉恥罪で陥れて排除することであったとしか思えない。その意味では、その人達にとっては目的を達したといってよいだろう。

しかし、世に誇れる長い伝統を有する北海道大学としては、本当にこれでよかったのだろうか?

世界的にも評価されている業績をあげた研究者、大学のPRにも採り上げられていた研究者を、内部抗争の生け贄として、些細な事務手続きのミスを穿り出して告訴し、社会的に抹殺しようとした今回の騒動は、学問を尊ぶ北海道大学という組織の歴史に大きな汚点を残したのではないかと危惧する。


2.内部告発の2年前にそのきっかけを作った、直属の部下だった助手は何の目的で、何を得ようとしたのだろうか?

今回の事件が発生した時期と内部告発の間が5年以上離れており、全体の経緯がわかりにくいので、経時的に整理してみたい。

公判でわかった今回の事件が実施されたのは、1998年から99年にかけての期間あり、その間にインボイス、請求書を発行し、お金も銀行に振り込まれている。

しかし、公判での助手の証言要旨では「2002年12月にベルゲン大からの(島村教授宛であろう)封書を他の教授立ち会いの下に開封した結果、小切手が入っていた。地震計売却の疑いが生じ業者に問い合わせたところ、全て公金からの支出であった。島村教授の犯罪の動かぬ証拠を握ったため大学当局へ告発した」とのことである。

まず、助手が摘発した小切手は今回海底地震計の売却費用とされたお金ではなく、従来からも行われていた共同研究費の送金であろう。

また、助手は1997年に採用されて島村教授のもとに配属され、海底地震観測研究に従事していたので、当然、ベルゲン大学から共同研究費が送金されていたことも、海底地震計を(形式的でもよいから)保有したいというベルゲン大学の希望も知っていたであろう。

配属後、いつ頃からかは不明だが、悪意を持って、送金の事実を示している証拠を手に入れようと密かに狙っており、2002年12月に、(私信と思われる)封書を他の教授立ち会いの下に開封して、やっと入手したのだろうと推定できる。

更に、地震火山観測センター長経由で内部告発したのは、島村教授が転出した直後の2004年12月16日であるから、その2年間で調べようと思えば、ベルゲン大学との友好的な関係も当然知っていたのだから、納得できる真相を把握することはできたであろう。

また、もし手続き上問題があると認識しているなら、島村教授に助言することもできた筈である。

しかしそうしなかったことから判断すると、悪意を持って準備をしながら、じっと機会をうかがっており、しかも「他の教授」という仲間も存在したと推測するしかない。

仮に如何に島村教授に悪意を持っていたとしても、採用時に助手として認めてくれた直属の上司を陥れようとして、これだけ長期に亘って狙っていたとは、全く異常である。

いったい何の為にそのような行動をとったのだろう? それとも、最初は軽い気持ちで不満を漏らしている内に、ある人達の片棒を担ぐことになり、一旦踏み込んでしまったら、戻ることができなくなってしまったのかも知れない。


3.告発を受けて北大が設置した調査委員会は、果たして中立性を保った組織だったのだろうか?

北大が平成17年3月18日付けで発行した調査報告者は、題名が「海底地震計売却等の不祥事について 調査結果報告書」となっており、発行元とおぼしき下欄には 北海道大学「ベルゲン大学との共同研究に関する調査委員会」となっている。

本来、調査委員会は公平な立場に立って調査すべきものである。しかるに先ず驚くのは、題名中の「不祥事について」である。

もし公平な立場で調査したなら、報告書の題名もせめて「不祥事疑惑について」となるべきである。つまり、「不祥事があったのか無かったのか」から出発すべきであるのに、調査委員会は「不祥事があったことを前提にして調査を実施した」ことを、この題名が端なくも表していると思われても仕方がない。

次に、同僚であった研究者を弾劾することになるかも知れない重い任務を持った調査委員会であるから、本来は中立な立場で調査を実施することを前提に、その選任過程、また、誰が委員に選ばれたのかを明確にすべきであるにも拘わらず、その説明は一切記載されていない。

これでは、公正な判断を下すべき調査委員会ではなく、やはり、不祥事ありきを前提とした弾劾委員会だったと断定してもよいであろう。

また、報告書によれば、「調査委員長他1名がベルゲン大学ミエルデ教授を訪問し、事実関係の聞き取り等を行った」とあるが、この1名とは内部告発の口火を切った助手であった。 一方の当事者のみを調査に同行するとは、それで公正な調査ができると思ったのであろうか。

もしこの段階で他方の当事者である島村教授も同行していれば真の実情がわかり、(仕掛けた人達の意にはそわなかったかも知れないが)公正な処置ができたのではないかと残念でならない。

最後に、調査報告者の発行責任者も、上記のように「調査委員会」となっており、誰が責任者であるのか、極めて曖昧である。人一人を弾劾しているにも拘わらず、その責任は回避しているとしか思えない。


4.司法権を有しない調査委員会が、どの様にして個人情報に類する事柄を知り得たのだろうか?

先ず、売却の形式をとった書類(インボイスや請求書)の存在をベルゲン大学への現地調査に先立って、どの様にして事前に知ったのであろうか?(確信がなければノルウェーまで2名も派遣する決断はつかないだろう)

また、平成17年(2005年)3月18日付の調査報告書には、送金された共同研究費の一覧が1988年に遡って記載されている。送金は種々のいきさつから島村君の個人口座に振り込まれていた筈である。

司法権を有しない調査委員会が、一体どの様にして過去に遡って個人口座への振り込みを調べることができたのであろうか? 場合によっては、教えた側も、利用した側も法を犯している可能性さえある。


5.北海道大学の中には、大学の独立性を確保し、学問の自由を守ろうとする気概はないのか?

今回の事件は、確かに、混み入った内容の事件ではあり、当初はマスコミの報道だけを見ていると、真相のわかり難い事件だった。

しかし事情がだんだん明らかになるに従って、北大の良識有る人達からも何らかの反応が有るのではないかと期待していた。また、北大の中にも島村君の業績、人柄を知り、今回の事件及び北大当局の行動に疑問を持った人達も必ず存在するだろうとは今でも思っている。

しかし、北大の中からは、
ほとんど反響は聞こえてこなかった。

事件の詳細がわかればわかる程、学者の良心に従って国の政策に疑問を投げかけ続けている研究者の影響力を削ぎ、口を封じる為に、破廉恥罪で陥れようとした企みではないか?

最近、政治・経済の世界で散見される、圧倒的な力と費用を使って反対者を抹殺しようと行われる謀が、学問の分野でも行われるようになったのではないか? という疑念が強く感じられる。

このようなことが頻繁に行われるようでは、将に学問の自由の危機といってよいだろう。北大の中で、学問の自由と学者の良心を守ろうとしている方々に、是非勇気を持って頂きたいと願っている。

以上、どうしても頭から離れない疑念を述べました。


最後に、島村君の才能と誠実さを知る鴎山先生は、送って下さった七言絶句の結びで、
「天縦君才庶四轟(天縦の君が才、こいねがわくば四もに轟かせ)」と謳っておられました。

私は、今回の騒動を仕掛けた悪意を持った人達に想い出してほしい言葉があります。

中国(日本)には「天網恢々疎にして漏らさず」と、英語圏でも同じく、”Heaven's vengeance is slow but sure.”という諺があるということを。

一年間、技術屋の書く長くてくどい文章につき合って頂いて、どうも有り難うございました。


川戸康暢(島村英紀の友人その3)
島村事件の私的おとしまえ

「島村英紀裁判通信」の終刊号に、私たちが何か書こうと決まってから、私はずっと筆が止まった状況が続いていました。

こと島村裁判については私が言いたかったことのほとんどは、編集長の小塚が、各通信の「まえせつ」で書いてしまいました。

また、滝澤は、いかにも研究開発に携わった理系らしい緻密さで問題点を暴き出してきました。

同時に、この通信の読者から届いた数多くの激励メールにも私の言いたかったことのほとんどが、言い尽くされていました。改めて過去の通信を読み直してみて、そのことを痛感しています。


島村裁判劇場の私的解釈

今回の島村裁判劇場は、何故か島村が北大の定年を目の前にして、「国立極地研究所」の所長に「不幸にも」選任されてしまった瞬間から始まった、というのが私の見方です。

北大で普通に定年を迎えていたら、島村は刑事裁判の当事者になることなく、北大名誉教授の傍らどこかの大学の教授として、第二の研究人生を始めていたに違いない筈です。

そして、今頃は、南極フェゴ島か、あるいは北極圏のどこかにいて、船上から楽しそうなメールを寄越していたに違いありません。

「国立極地研究所」の所長に、初の外様で国際的知名度も高く、快著『公認「地震予知」を疑う』を携え、かつ北極にも熟知している島村が乗り込んできたことは、おそらく、南極派の官僚や各省にまたがる地震予知関連予算によって権益を得ている魑魅魍魎(広辞苑によれば、山や川の化け物となっていますが、海の化け物も混じっていたのでしょう)たちにとって、驚天動地であったに違いありません。

島村が専門誌などの一節に「地震予知」批判を書いている分には、国際的には知名度が高くても一地方国立大学(中央文部官僚は、東大、京大、阪大以外はそう見ているということです)の教授のことなので、権力側は容認範囲だったのでしょう。

ところが、彼が選任されてしまった「国立極地研究所」の所長というポストは、どうやら専門家たちにとっては、目も眩むようなポストであるに違いありません。島村をこのポストに選んだ良識ある人たちは、まさか島村を追い落とそうと思って選任したはずはありません。当然、快著『公認「地震予知」を疑う』も知っていたはずです。

だからこそ、文部科学省、学会、地震関連業界をあげての島村抹殺劇が始まったのでしょう。そこで、彼らはあらゆるリソースを使い、島村の僅かな「瑕疵」を探したあげく、北大に行き着き、そして助手某が生け贄として差し出された。その上で彼らは、検察、裁判所と手を組んだ。というのが今回の真相だと考えれば、すべて納得がいきます。

「人間とは、まことに都合のいいものである。したいと思うことなら、何にだって理由を見つけることも、理屈をつけることもできるのだから」という言葉があります。それは、米国独立宣言の起草委員の一人である米国の政治家、フランクリンの自伝の一節だそうです(2007年1月29日付・東京新聞「筆洗」)

したがって、島村裁判劇場の結末は、権力側というべきか魑魅魍魎たちにとっては、既定路線だったのだろうというのが、島村裁判が終わってからの私の率直な感想です。

昨年3月中旬、まだ、島村が拘置所の檻の中で生活していた頃、尾崎弁護士から聞かされた逮捕の状況、そして起訴の状況の異例さからして、そのように感じてはいたのですが、この一連の裁判劇をつぶさに見てきて、ますますその感を強くしました。

同時に、札幌地裁の裁判官や検察官にとっては、北海道が「僻地にいる、いつかここから抜け出したい」という土地であったからこそ、彼らの上昇志向からして実現できた「劇」であったのではないかということも、確信に近い考えとなっています。

ですから、島村が組んだ弁護団以上に優秀な弁護士がいたと仮定しても、無罪を勝ち取ることは出来なかったことは、判決要旨から歴然としています。

それは、検察および裁判所にとって、実質、刑事事件ではなく、政治事件であったからです。

多くのマスメディアも、また想像通り、検察発表をそのまま掲載しました。真相を暴こうとするマスメディアはついに最後まで現れませんでした。

例えば、ほぼ同時期に逮捕されたホリエモンについては、一罰百戒だと批判的論調も一部にはありました。これは、「検察は国家なり」を地でいくモノであったからでしょう。こうしたケースでは、検察がその気になれば、逮捕・起訴しなければならないような人たちは、あまりに多くいたはずですし、今もいるはずです。

しかし、島村の場合、検察の意志を上回る国家意志が働いたと見るべきでしょう。

だからこそ、マスメディアというべきかジャーナリズムというべきか、彼らも抗うすべを失ってしまったと考えます(記者が努力したであろう一部の紙面もありましたが・・)。

裁判を取材し、原稿を書いた記者は、島村のどこが「懲役3年執行猶予4年」にふさわしいと感じたのでしょうか。弁論要旨など、全く目を通していないのではないかと、思われます。

このことは、島村自身が一番感じていることだろうと思います。

その島村が、控訴を断念した以上、このことのこれ以上の追及は止めることにします。


ある飲み屋での私的回想

この島村裁判劇は、私たち編集部にもそれぞれに大きな影響をもたらしたと私は感じています。

大きな方針決断を迫られる時には、私たち4人、島村保釈後は、島村を加えた5人は、必ず会って打ち合わせを行いました。そして、会うたびに、いまこのグループが「ここにいる理由」を確認し合ってきました。

また「裁判通信」発行のたびに、編集部内で激烈な議論をし、またその結果として多くの読者の反応を読ませていただくたびに、自分自身の昔日のこと、そして生きてきた過程も、自らの中で少しずつあぶり出されてきました。この通信を出し始めた頃の私たち4人には、思いも寄らないことでした。

特に、私にとってそれは必要な作業だったのかも知れません。

学生時代よくたむろしていた東大正門前の喫茶店「ボンナ」での会議の帰り、滝澤、島村とどこかで飲もうということになりました。

赤門前のとあるのれんの前で「ここ古そうだからどうかな」と滝澤がのれんにある電話番号を見ていいました。入って坐ってみると、なにやらタイムスリップしたような不思議な感覚に見舞われました。滝澤、島村、ともにそのように感じた様でした。

そこでおやじさんに聞いてみたら、昭和39年からやっているとのこと。「ウーム、知らなかった」と思わずうなってしまいました。

その年は、私が8ヶ月近い米・欧州・アジア放浪の旅から帰国した年であり、池田、島村、そして今は亡き高木信(2002年逝去。彼が生きていれば間違いなく今回の通信のメインライターになっていたはず)と私の4人で、ルポルタージュものの新書判8冊(『全国高校風土記』三一書房)を執筆するという無謀な計画に加担した年であることをまざまざと思い出しました。

その頃、小塚は出版社で編集者として、また滝澤は一流機械メーカーで研究開発者としての足場をそれぞれ固めていたのです。

また、それ以前、「東大新聞? 確かあそこには、寮で同室の先輩・池田や滝澤らがいて、俺は野次馬精神でからかいに行っただけだよな。そこで島村と出会ったんだ」とか、「そう言えば、あいつらだって俺たちの“やっていた”ガクセイウンドウをからかいに来てたな」「そう言えば、池田がやろうと言い出した同人雑誌『大学論叢』の編集にも参加したんだっけ」などなどを思い出しました。

今回の島村のことで「何故、自分がここにいるのか」が、私にとってはっきりとした一瞬でした。

同時に、そのようなことを思い出した自分にびっくりした自分がそこには確かにいました。

何故か? 1960年7月、安保闘争の後、自分の行く先を再確認すべく出かけた大牟田の三井三池で、機動隊の警棒でやられ3日間も昏睡して以降、私の記憶はほとんど機能マヒの状態だったからです。すべての記憶が断片にすぎないということはかなり辛いものです。

私たちが偶然入ったその店で、何故かその頃の記憶が甦ったことにびっくりしたのです。そして、数年後、小塚に大出版社など早く辞めるべきだと、高木と二人でそそのかしたような記憶も甦ってきました。

それから、40年を超えたのかという感慨もありました。


私的な仕事も書き留めたい

今回の島村事件にこのような形で関わってしまったことで、あの60年安保の後、私は「太く短く」をモットーとして生きていこうと決めていたのに、いつの間にか「細く長く」生きていることにも改めて気がつきました。そして、生き様そのものも変わってしまってきているということにも・・。

小塚や前述の高木と立ち上げた編集事務所を真っ先に辞めたのは私でした。事情があったのですが、そのことはずっと私の負い目にもなっています。

その後、それなりの転変の末、38歳にして、編集屋とは全く異質の開発援助(国際協力)の道に入りました。

まだまだ甘かったのでしょうね。開発途上国の貧困解消のために、というキザなスローガンを信じてしまったからです。

それは違うということに直ぐに気付いたのですが、それからの18年間、今回のグループの面々とは出会うことはありませんでした。

ある意味、強烈なやり甲斐をもって入った開発援助の世界ではありましたが、この世界にも、さまざまな魑魅魍魎たちが跋扈しており、理想とは遠く半分はそれらとの闘いであったような気がします。

唯一良かったのは、今日本では見られなくなった「生き生きした子ども」たちに数多く出会えたこと、そして世界中を歩けたことでした。

アフリカ・ザイールではマラリアを貰い、タイではA型肝炎を貰い、南米では心臓発作に見舞われましたが、それも今となってはいい思い出です。

12年ほど前、ひょんなことから、軽度発達障害や不登校の子どもたちの療育に携わっていた連中と知り合い、途上国ばかりではなく、国内にも目を向けるべきだと考え、国際派から国内派に転向を決意、食い扶持稼ぎに、編集の世界に舞い戻りました。

そして、6年ほど前、それまであった任意組織を特定非営利活動法人として立ち上げてしまい、そのことで自分自身首を絞めていますが、ここでも、国の施策のいい加減さを痛感しています。

近年「発達障害支援法」などが、施行されましたが、重度障害やあるいは介護の世界同様、「自立」という美名の下に、そうした人たちの人間としての尊厳性が奪われていく傾向がますます強まっています。

私は、これまで同様、こうした流れに抗いつつ、前進していきたいと、ますます強く考えるようになってきています。今回の島村裁判が私にその思いを一層強くさせてくれました。その意味では、島村に感謝しなくてはならないかも知れません。

「理念と現実の一致」を果たすまでは、まだまだ、私自身「細く長く」ではなく、「太く長く」生きることが必要なのでしょう。

繰り返しますがその思いは、島村裁判の過程で、3人の仲間たちと話すうち、ますます強くなってきたのです。


島村への最後の応援メッセージ

私たちは、この号をもって、「島村裁判通信」編集部としては、一旦解散することを決めましたが、今後もそれぞれが島村の友人であることに変わりはありません。

これからの島村の闘いを孤立させないで「友人として共に歩んでいきたい」との思いは、皆共通です。

島村には、まだなすべきことが数多く残っているはずです。国際的にも、国内的にも・・。せっかく控訴を取り止めたのだから、これまで以上にしがらみにとらわれず「暴発」して欲しいと願っています。

これからの、島村の公の闘いの武器は、彼のホームページとなりますが、そこでの発信だけで終わって欲しくないと願っています。

そのためにも、島村には「しばしの休養」が何よりも大切だろうと個人的には考えています。

彼が書いた「獄中記」に見る精神的タフさには私たちも驚かされました。だからこそ、しばしの休養が島村には必要だと思うのです。

この「裁判通信」に寄せられた数多くの鋭いコメントの意味を改めてじっくりと考え直すことが今の島村には何よりも必要なことだろうと思います。島村が、その休養から回復し、新たな方向性を定めた闘いを開始する時、私たちはまた集まることになるのではないか、と漠然と考えています。

島村よ、忘れるな! くどいようだが、島村の今後を皆が見ているということを! そして、ともに歩んでいきたいと思う多くの人たちが、この裁判通信に最後までつき合ってくれたということを!

再見!


小塚直正(島村英紀の友人その4)
青き時代がまた遠く

あの日からちょうど1年が過ぎました。昨年の手帳2月1日の欄に「島村逮捕!」とビックリマーク付きで書いてあります。

その夜、池田に電話、「どうしたの?」と聞いたことを思い出しました。池田も「エッ? 昨日島村と電話で話したけど、なにもいってなかったぜ。たしかに去年から北大ともめていたようだけど」としかわかりません。

会うことを約束して、翌日、滝澤や川戸ほか学生時代の仲間に「大変だ! 知ってるか?」とメールを打ちました。

そのころの私は映画三昧の毎日でした。手帳によれば、この前後、「ウォーク・ザ・ライン」「ボブ・ディラン・ノーディレクション・ホーム」「博士の愛した数式」などを毎週のように観ています。映画を観ては、その感想を交えた雑文を親しい友人たちに送ることを楽しみにしていました。

なにしろ私も仲間も1950年代に高校生でしたから、映画が娯楽であり教養だったのです。メールが飛び交い、たとえば「ミリオンダラー・ベイビー」で、クリント・イーストウッドがジムで読んでいる本はなにか? なんて話で沸き上がっていました(これにちゃんと答えを出す仲間がいたのです)。

2月1日の午後、ちょうど島村が札幌へ護送されていたころ、そうとは知らない私は、雨の中、「単騎、千里を走る」を観に行っていました。わが青春の高倉健に、「初恋の来た道」のチャン・イーモウ監督のコラボ。封切りというのに観客は数人でした。なんの予備知識もないままに、「健さんが中国各地を逃げまくる映画」なんて想像していました。

断絶した息子との仲を埋めるために中国を訪ねる健さん。思わせぶりなタイトルは、奥地の村の伝統芸能で歌われる歌の題名で、「関羽」を歌ったものだとか。闘病中の息子の代わりに芸人を訪ねたら刑務所の中で、その芸人に望みの歌を歌わせるために、さらに奥地にいる芸人の子どもを捜すことになります。

日本と中国の父親と息子の関係が二重になって展開される構成。このあたりの仕掛けはさすがイーモウ監督で、泣かせ方もうまいと感心しました。

健さんがなぜ息子と断絶したのかは、よくわかりません。また息子の妻である寺島しのぶの行動も、なんというか、「余計なことをするな!」というふるまい。ま、その「余計なこと」のために、中国へ出かけてドラマが展開するわけですが。そういえば寺島しのぶは、「昭和残侠伝」などで健さんと共演した藤純子の娘。このキャスティングはスゴイ。でも凡作。「駅 station」「夜叉」の緊迫感はありませんでした。

高倉健は70代後半です。寅さんの渥美清が晩年の映画で、スカーフで首周りを隠していたように、健さんもセーターで首を隠します。でも口の周りやあごの下を見ると、年齢が出ています。私も毎朝ヒゲを剃るたびに、首筋の衰えを実感しています。この永遠のスターも私たちと同じ老人なんだと確認しました。ケータイで話しデジカメを撮る健さんは奇妙な感じです。ただ、最後の最後で、黙って「タテマエ」を貫く健さんがいました。

高倉健は1960年代の後半、「昭和残侠伝」「網走番外地」など、新宿や池袋の深夜興行で、まとめて観ました。それは、あてもないままに出版社を辞めてしまい、仕事もたいしてないときに、どうしたら暇つぶしができるかということで、夜中は長篇小説を乱読し、週末には映画を観ていた時代のこと。

私はまっとうな出版社に勤めていたのですが、友人が「オマエ、そんなことしてていいのか?」といってきました。入社して4年で、会社ごっこが面白くなっていました。

一緒に学生運動をやり、同人雑誌を作ってきた仲間からすれば、「会社が面白い」などといってはダラクです。私も「それはいえるな」とあっさり辞めることにして、とりあえず一緒に編集事務所を作りました。

その時代、事情があって赤坂のマンションに住んでいました。便利な場所なので、夜中にだれかが訪ねてきました。それは女友達から指名手配中までいろいろでした。

だれかが泊まることはあっても、同棲するまでには至りませんでした。だれにもとらわれない生活といっていいかもしれません。

ただ、「だれにもとらわれない」ということは寂しいものです。つまりウイークデイは仕事でも麻雀でも、なにかありますが、土日になるとみんな家庭に帰ってしまい、私だけが取り残されます。まっとうな道を歩くのは止めようと決意して「自由」になったのに、ではなにをしたいのか、わからなくなってしまった時代でした。

そんな鬱屈した中で観た深夜映画が「昭和残侠伝」です。とくに池部良の風間重吉が好きでした。義理のために、はからずも健さんと敵対する立場。しかし最後の最後で義理の重みを投げ捨てて健さんに協力、そして撃たれ、斬られて死んでいく。主役よりも脇役の行動美学に惹かれたのです。

がまんにがまんを重ねた挙げ句、最後に殴り込みに向かう健さんに、途中で待っていた池部良がさっと傘を差しかけていいます。

「ご一緒させていただきます」

あれは雪が舞っているシーンでした。この瞬間、深夜の映画館では「イギナーシ」との声がかかりました。大学はちょうど全共闘の時代で、私は学生運動とは無関係だった二十代後半なのに、このシーンがとても好きでした。

自分は主役ではないけれども、主役を助けることはできると、等身大の自分の役回りを考えていたのかもしれません。そういえば学生時代にやった五月祭委員会では、川戸が委員長、池田が企画部長、私は後始末の事務局長でした。

あの時代から四十数年、突然暴風雨に巻き込まれたかつての仲間・島村英紀に、さっと傘を差しかけることが私たち4人の役柄になりました。

少なくとも私がやったことは、その程度。「国家の罠への抵抗」とか「冤罪を暴こう」などという問題意識を持っていたわけではなく、島村がシャバに出てきたとき、彼の友だちが温かく迎えられるよう、誤解を解き真実に迫りたいと考えただけなのです。

  白を黒だと言わせることも 所詮畳じゃ死ねないことも 

  百も承知のヤクザな稼業 なんで今更 悔いは無い(映画版唐獅子牡丹)

昨年観た映画に「グッドナイト&グッドラック」があります。50年代のマッカーシズムに抗したキャスターの話。また先日はテレビで「紅衛兵インタビュー」を見ました。

いずれも権力側の人間が「異端」「異論」を暴力的に排除していく話で、「自分は関係ない」と思っている人も渦の中に巻き込まれていきます。

島村の奇妙な有罪判決を伝えながら、いまの日本がその方向に向かっていることは確かだと感じていました。

私は昨年、親しかった友人からつまらないことで絶縁されてしまいました。いまでも私に理があり友人の始末は間違っていると思っています。しかし・・。

同じように考えた島村英紀は国家によって有罪を宣告されました。

島村も私も、もしかしたら、自分の中に、オルゴールのように棘があるのではないかと思い至りました。

音楽を鳴らすためには「棘」が必要です。でも、「棘」の存在に気づかずうっかり触れた人は傷ついたのかもしれません。

島村は有罪となり、私は友人を失いました。

しかし二人ともそれ以上の友人ができたと考えています。この「裁判通信」を通じて、多くの方々と知り合い、メールを交わせたことをうれしく思っています。こんな経験はもうないでしょう。

その意味で、私はハブ(hub)の役割に徹したつもりですが、それは気軽に現地に出かけ取材し、ものごとをきちんと分析し、解明してくれた池田、滝澤、川戸らがいたからこそできたことでした。

また私たちが行けないときに、公判取材をしてレポートを送ってくれた太田克亮さんたち北海道の方々にも感謝します。

そしてそして、読者としてサポーターとして、付き合ってくださったみなさまに、厚くお礼申し上げます。みなさまがいたから続けることができました。

長い間、ありがとうございました。

お別れに、
自転車徘徊ボケ隠居が詠んだ素人俳句。

除夜の鐘青き時代がまた遠く


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ノンフィクション・島村英紀の家宅捜索・逮捕・連行劇
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島村英紀が書いた「もののあわれ」

誰も書かなかった北海道大学
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