島村英紀の恩師と友人たち

1954年3月   東京学芸大学付属大泉小学校卒業(15回菊組)

1948年の入学時には東京第三師範・附属大泉小学校だったが、その後東京学芸大学付属に名前が変わった。教育制度が変わった新制の第1期生である。1947年4月に学校教育法が公布されて、国公立学校では、男女共学が初めて、始められたばかりだった。

ちなみに1948年は、夏に時計を1時間早める制度「サマータイム」が導入された年だった。これは
GHQ(連合国軍総司令部)の指令で「夏時刻法」が制定され、同年5月2日から実施されたものだった。しかし、寝不足になる、労働強化になる、との反発が強く、約4年で廃止されてしまった。それ以後、とくに特需で儲けたい産業界を中心に何度かサマータイムの議論は出るが、反対も根強く、実現はしていない。

当時は、まだ食べるものも十分にはなかった。第二次大戦の終戦約1年後の
1946年6月に共同通信が行った調査では、「米の飯を一日に一度だけ食べる」が71%、「ないから食べない」が15%もいた。「三度食べる」は、わずか14%しかいなかった時代だったのである。

小学校ではクラス替えはなく、担任は、福田(旧姓久礼)美恵(1-2年生の担任)、永嶋浩一(3-4年生の担任、故人)、染田屋謙相(5-6年生の担任、故人)の各先生だった。

学校の場所は西武池袋線・大泉学園駅の南方、練馬区の西端で、ちょっと西に行くと北多摩郡(のちに保谷市、いまの西東京市)、ちょっと北に行くと埼玉県(いまの新座市)というところにあった。大泉学園駅は池袋から西へ9番目(いまは10番目)の駅であった。普通電車で約21分。当時の西武電車はくすんだ緑色で、二両連結だった。

当時の池袋はまだ焦土になった戦後の色が濃く残っていて、とくに西口には、バラック建ての、猥雑で怪しげな店やマーケットや飲み屋がならんでいた。

一方、大泉はいまの密集住宅地からは想像もつかないくらい、まわりは一面の畑に囲まれていた。小学校は1学年に2クラスしかない小さな学校だった。授業としての畑作業もあった。見回すとあちこちに雑木林があり、郊外というよりも田舎の学校という雰囲気であった。

永嶋先生は、私が人生でもっとも影響を受けた先生だった。東京教育大学(東京高等師範)を出たばかりの若い先生だったが、権威を疑うこと、詩を書くこと、また当時、日本ではまだ珍しかったサッカーを楽しむことを教えてくださった。

なお、永嶋先生は、のちに教師を辞めて朝日新聞に入社し、各地で記者を勤め、最後に甲府支局長になった。

まだ独身で大酒飲みの先生だったので、朝も自分では起きられなかった。小学校のある大泉学園駅の近くのアパートの部屋に、私たち数人の男女の生徒が先生を起こしに行ってから、先生と一緒に学校へ行くのが常だった。

管理教育の厳しい今の教育現場ではとても居られそうもない、ユニークで、かけがえのない、いわば無頼派の先生であった。

染田屋先生は、その後板橋区の教育長などを務められ、教育関係の著書も多い。


【50年後の私の小学校の後輩から2005年2月に、突然、メールが舞い込んで、現在の大泉小学校についてレポートをくださいました。ありがとうございました。匿名希望の生徒です】
私は、現在「東京学芸大学付属大泉小学校」に通っている、小学5年生の者です!(5年ふじ組です。)

私は、大泉小学校の歴史を知りませんでした。(1階の廊下に写真が貼ってあって、説明を読んだことはあります。)でも、1948年はあんな学校だったとは思いませんでした。

でも、一つだけ今と共通点があります。それは、ヒマラヤスギがある事です。今でも、すごく大きく伸びています! そして、クラスは『きく(K)』・『うめ(U)』・『ふじ(H)』・『たけ(T)』そして、帰国子女特別教室の『ゆり(Y)』です。

そして、今は、1学年120人(4年生からゆり組が増えます。5年生からたけ組が増えます。)1クラス40人(5年生は30人です)。あと、畑は授業ではなくて、「生活団」という団で1団で2つずつ育てています。(場は狭いですが...)生活団では、掃除をしたりします。(たて割りみたいなものです)。

校舎は、南東と北東があり、2つの校舎が「学習ホール」でつながっています。3年前に校舎改修をしました。 同じ敷地には、付属中学校・高校もあります。

「島村英紀のホームページ」は、菊の子(私たちの事です)にも「へぇ〜」と分かりやすく説明があり、なんだか嬉しくなりました。 なんか、「現在の東京学芸大学付属大泉小学校」になってしまい、すいませんでした。 是非、学校のホームページに来てみてください!


同クラス生には佐藤秀隆(元都市機構埼玉地域支社、元ニチメン海外営業部長)、遠藤邦彦(日大文理学部教授、地理学)、山崎 晋(元国立がんセンター外科医師)、堀江礼一(元文藝春秋)、筒井隆一(元清水建設土木本部営業部長、日本地域冷暖房協会事務局長)、小藤田礼章(胃腸科・内科医。大泉で開業)、足立有功(元第四管区海上保安本部長、東燃ゼネラル石油海事顧問)、相澤 勲(山種商事社長)、松本 喬(元運運輸省航空局、航空保安協会)、長田緩男(元農林省官僚、元日本豆類基金協会)、牛山宇三郎(元角川書店)、池田正雄(池田設計)、小沢克彦(元岐阜大学教育学部教授、ギリシャ哲学)、恩田志鶴子(旧姓中。元松蔭高校教諭)、川嶋行彦(東京国際大学商学部教授、マーケティング)らがいる。6年間クラス替えもなかったせいもあり、いい先生に恵まれたこともあって、同級生はいまでも親しい。

川嶋君には1年上の学年に兄がいて、他の同級生と同じく、東久留米にあった家によく遊びに行ったりしたので、兄や母上とも親しかった。兄川嶋辰彦氏はその後学習院大学教授(交通経済学)になってからも北海道大学の私の研究室を何度か訪ねてくれた。なお彼は、令嬢の秋篠宮との結婚を機に、同大学でいちばん有名な教授になった。

私の父、喜久治が結核の勤務医として当時の国立清瀬病院院長をしていたので、私は小学校4年までは病院内のはずれにある病院の木造平屋建ての官舎に住んでいた。他の医者や事務官と同じ大きさの官舎だった。

通学は清瀬駅(大泉学園駅からさらに西へ4駅)まで歩いて40分、あと電車で4駅だった。当時、西武池袋線は地味な緑色の2両連結で、農産物や肥料や、石灰石など秩父の鉱産物を運ぶ鉄道の色合いが強かった。沿線には一面の農地が拡がっていた。

私が4年のときからは、大泉学園駅の東隣にある石神井公園駅の北に両親が作った自宅から歩いて通った。東京商大(現一橋大学)が不要になって払い下げた土地とかで、境界になっていたらしい土手が残っている。まわりは原っぱや農地が多かった。

ところで私が生まれたのは、今は池袋から西へ4駅目の桜台にあった家だった。これは母、千枝子が東京芸大(母が卒業したときは東京音楽大学と言った)のピアノ科の教師をしていたので、父の勤務地との間を選んだためだ。なお母はのちに武蔵野音楽大学の教師になった。

なお、父は『院長日記』(筑摩書房、1953年発行、
214頁、本の高さ:19cm)で1954年に第2回エッセイストクラブ賞を(秋山ちえ子とともに)受賞したことがある。第2回でもあり、今と違って、父がマスコミの寵児になることはなかった。

この本には、当時「赤い病院」といわれ、政府と政治患者との板挟みにあって苦労したさまが描かれている。

また、私の母方の祖母は吉行あぐりさん(吉行淳之介、吉行和子、吉行理恵の母)の姉である。父はまた、結核を病んだ吉行淳之介の主治医でもあった。

第二次世界大戦中、父は当時、社会病だった結核と闘うために清瀬病院に志願して入っていた。

その清瀬病院から軍医として招集されて、中国へ行っていた。病気に蝕まれた兵士ではなくて人によって傷つけられた兵士の命を救うことの不条理を感じ、せっかく直した兵士が、また前線に駆り出されて他人を殺しにいくことに強い疑問を持っていたという。

また、多くの若い兵士が死んでいくのを目にしたが、誰一人として「天皇陛下万歳」、と言って死んでいった兵士はいなかった、「お母さん」と言って死んでいく兵士がほとんどだったという。一人か二人を殺したら殺人で、50人か100人を殺したら英雄なのか、というのが父の口癖だった。戦場の医者の感慨であったろう。

なお、父が出征している間、東京は激しい米軍の空襲(いまでいえば空爆)に毎日のように襲われ、十数万人の死者を出すほどだった。多くの人たちは「疎開(そかい)」して田舎暮らしをしていた。私の家も、母が私たち子供3人を連れて山梨県に疎開したが、そこでは食べるものが少なく、子供3人とも弱り切った状態で終戦を迎えた。そして、私は一番下の妹をわずか1歳で失ったのであった。

ところで、そのほか私の小学校には、教頭の大井安美先生や、美術の川村浩章先生(戦後の美術教育を風靡した『現代図画工作教育』の著者として有名だった。のちに文教大学教授になって18年間を勤められた。現国画会会員、日本美術家連盟会員)にも、それぞれ大いなる影響を受けた。川村先生のお宅にもしじゅうお邪魔して門前の小僧をやっていた。

なお、小学校のすぐ近くには牧野富太郎の自宅兼仕事場があり、その後、ここは、高知市五台山にある牧野植物園よりはずっと小さくて、ほとんど一般の住宅の敷地の大きさと建物だが、植物園と、自宅兼仕事場をそのまま鞘堂で覆って保存している資料館になっている。練馬区の管理で、一般に開放されている。


1957年3月   東京教育大学付属中学校卒業(1年は2組、2-3年は4組)

じつは私は、私立武蔵中学(武蔵高校に連続していた)の入試にも合格していたが、迷ったすえ、こちらに進学した。

場所は文京区音羽(おとわ)町。音羽の谷にある講談社を見下ろす崖の上で、お茶の水女子大の隣、跡見女学園(のちの跡見女子大学)や東京教育大学(のちの筑波大学)の近くだった。つまり、先年問題になった「狂騒お受験地区」のまっただなか、当事者のひとつである。

幸い、私の小学校、中学校、高校当時は入試の抽選もなく、先生の転勤もなく教育熱心な先生が多くて、また先生が管理者である校長の顔色をうかがう必要もないという時代だった。古き良き時代であったというべきであろう。

この中学には、入学時にちょうど開通したばかりだった池袋から茗荷谷までの地下鉄丸の内線がなければ通えなかった。この中学は、既存の電車からは遠く、この地下鉄だと池袋から2駅目、5分だったからである。

一方の武蔵中学は、高校や武蔵大学と同じく、家からは西武池袋線で5駅池袋寄りの江古田にあった。武蔵は男子中学と男子高校、教育大附属は共学だった。この選択で人生は変わっていたに違いない。

中学時代はサッカー部のメンバー(フォワード。ウィングまたはセンター)として、3年間、東京都で不敗を誇った(日本経済新聞2005年2月17日・朝刊文化面・『交友抄』「ディフェンダー」)。これには、サッカーを教えて下さった体育の松木正忠先生(のちに群馬大学教授、2008年現在は群馬県サッカー協会の名誉会長)の指導が大きい。(なお当時は中学生には県外の中学との試合や全国大会は許されていなかった)。1学年は4クラスだったが、2年のときから5クラスになった。

中学1年のときの担任は佐藤喬先生(英語。のちに慶応大学教授になり、現在同大学名誉教授)だった。佐藤先生にとっては、最初に担任を持ったクラスだったので、印象は深い、とおっしゃっておられる。中学2-3年は長南光男先生(美術。のちに千葉大学教授)だった。2007年4月に東京で開かれた中学卒業50年の全クラス合同のクラス会では、お二人とも、お元気なご様子でかくしゃくとしておられた。

そのほか、朝倉隆太郎先生に地理を習った。フィールドノートの選び方(たとえば、どんなノートが頑丈なのか、罫線よりも方眼のほうが書きやすいことなど)や、つけかたを習ったことは、私のその後のフィールドワークにたいへん役立った。いや、私の進路そのものにも強い影響を与えてくださった。先生は、その後東京教育大学の教授になられた、日本有数の地理学者であった。

この中学(と高校)は、水泳には不思議な伝統を持っていた。日本の古式泳法で「水府(すいふ)流太田派」と言われる泳法で、夏休みに千葉県の富浦にあった寮に行って習った。「先生」は学校の先生ではなくて、かなり年輩の先輩たちのボランティアだった。

早く泳ぐための泳法ではなく、ゆっくり、周りを見ながら泳ぐ泳法で、優雅なものだ。私が出来るのは、背泳のように後ろを見ながら、しかし頭は水に漬けず、泳ぐ泳法である。頭を濡らさないし、エネルギーも消耗しない。しかし、知らない人が見たらびっくりするかも知れない泳法である。

また、高いところから飛び込んでも、底に身体を打たないよう、なるべく沈まない飛び込み方など、実用的なことを教える泳法でもあった。

なお、男子は海水パンツではなくて、一枚の長い布である、白い褌(ふんどし)を着用した。溺れたときに掴んで救いやすいし、サメが来たときは、ほどいて長くすることによって、自分の身体よりも長いものは襲わないというサメの習性を利用して助かるという触れ込みであった。

しかし、スクール水着を着ている女子生徒がサメに食われた、という話はなかったから、用心よりは鍛錬に近い、ほとんど精神的なものだったのであろう。


1960年3月   東京教育大学付属高等学校卒業(68回2組)

高校の3年間を通してクラス替えはなく、担任は石川光泰先生(故人)だった。中学・高校と東京高等師範附属中学(通称「高師附中」)以来の連綿として引き継がれた、受験勉強にあくせくせず、高校生活を余裕を持ってすごす伝統を楽しみ、一方で、いかにもお坊ちゃん・お嬢ちゃん学校だったその伝統にしばしば反発もしながら、生徒生活を終えた。1学年は5クラスだった。

高校の場所は、やはり文京区音羽で中学と同一の敷地。サッカー部も続けた。

この時期のサッカー部は附属高校の歴史に残る繁栄期だった。いまでも親善試合などには1チーム分の同期生が集まる。

それにくらべて、附属高校が受験高化してしまった最近は、なんとだらしないことか。私たちのときは目をつぶっても勝てると言われていた学習院大学付属高校との定期戦(私たちの言う院戦、向こうから言えば付属戦)にも負けるほどだという。

高校では、いわゆる大学受験科目の特訓はなかった。その一方で、大学受験には関係のないドイツ語も教わった。選択肢としてはフランス語もあった。当時の高校としては珍しかったろう。

なお、私の高校はいまはすでになくなってしまったが、筑波大学附属高校として引き継がれている。教育大は筑波大になって文京区大塚から茨城県筑波市に移ったが、高校と中学は相変わらず、文京区音羽に残っている。

一方、兄弟高校である後発の教育大付属駒場高校は私たちの高校と違って男子高校だが、当時から文芸誌の活躍などに見るべきものがあり、私たちの高校(駒場と比較するときには「大塚」と呼ばれた)とくらべて、すでに私たちの高校を追い抜く飛躍を暗示していた。また、同じく兄弟高校には、埼玉県坂戸にある農業高校と、盲学校があった。

同級生には、市川 熹(千葉大工学部名誉教授、福祉工学・音声工学)、松本 元(理化学研究所・筑波大学、脳型コンピューター研究。ノーベル賞の候補者だった。以前から患っていた肝炎で2003年3月9日に死去)、長塚進吉(元朝日新聞出版局)、沖中道雄(元ソニー)、小川史雄(元三菱石油)、加藤淳一(元旭化成)、増田浩一(元トヨタ自動車)、小島弦(元旭化成)、中川洋吉(フランス映画評論家)、向後隆男(元北海道大学歯学部教授)、山田通夫(元産経新聞、元テレビ静岡)、江見昭吉(元日本郵船、元クリスタルヨットクラブ社長)、芦澤正哉(元川崎市中原中学教諭)、青田英輔(元リコー)、藤木英夫(元青山学院大学)、小林彬男(元横河ハネウェル)、横田洋三(国際基督教大学教授から東大法学部教授を経て現在中央大学教授、国際法)、筧 一彦(元名古屋大学人間情報学部教授)、広川紀子(旧姓小林。相模女子大教授)、岩崎洋一(筑波大学学長、物理学)、木村 賛(元東京大学理学部教授・日本人類学元会長)、片山倫子(旧姓岡林。東京家政大学教授。家政学会会長。私とは弟同士も上記の学芸大附属大泉小学校で同級生だった)、前野右子(旧姓樋口。陶芸家)、愛川紀子(元ユネスコ文化局文化遺産部無形遺産課長)、川口順子(旧姓土田。元外務大臣)、畔柳信雄(前東京三菱銀行頭取)
林嘉宏(センチュリー・リーシング・システム常務取締役。中学と高校のサッカーについて書いている)らがいる。

テレビで活躍したジャーナリスト内田忠男氏(元読売新聞)は2年先輩、社会党代議士から広島市長になった秋葉忠利氏は1年後輩である。

ところで、歴史が長い高校だけに、各界で活躍している「付属」の卒業生は多いが、私の専門である地球物理学でも、坪井忠二(元東京大学理学部、私の先生の一人、寺田寅彦の直系の弟子の一人でもある)、末広重二(元気象庁、2003年12月没)、藤木忠美(元北海道大学理学部)、金森博雄(カリフォルニア工科大学)、久城育夫(元東京大学理学部)、小嶋美都子(元東大物性研究所・元気象庁地磁気観測所)、渋谷和雄(国立極地研究所教授)、末広潔(海洋科学技術センター)、松浦律子(ADEP)など、各氏がいる。

また、日本の南極観測を拓いた先人の一人である村山雅美氏(2006年没)は私より24回上の同窓であり、国立極地研究所の上部機構である情報・システム研究機構の機構長・堀田凱樹氏も私の先輩である。


1964年3月   東京大学(理学部物理学科・地球物理コース)卒業

学生だった時代、はじめはサッカー部(同好会ではない、本格的なサッカー部。とはいっても大学が大学だから、能力は知れていますが)に所属していたが、すぐに「転向」し、東京大学新聞の編集に携わる。

駒場にあった教養学部の時代(1-2年生)のときにも、毎日、駒場から本郷まで通っていた。安保の激動期だった。

当時の東大新聞は”生意気にも”ほかの数多の学生新聞(この中に東大教養学部で発行されていた通称駒場新聞も含む)とは違って、(あの時代だからこそ)自ら叫ぶことを拒み、対象から距離を置きながら、それでも変革の意志に燃えていた時代だった。

つまり、自ら叫ぶことによって、かえって影響力を失うのを避けたい。しかし、学生の目からしか見えない報道があるはずだ、というのが私たちの方針なのであった。

なお、当時の東大新聞の発行部数は約1万部あった。当時の他の学生新聞よりは抜群に多かったし、現在の東大新聞と比べても、数倍はあった。

私がいたころの編集長は、北川重彦、のちに池田信一であった。一方、新聞には営業部もあり、江副浩正(のちにリクルート社長として政界を巻き込む大騒ぎを起こした)が活躍していた。なお、当時の東大新聞は財団法人であり、ほかの大学の学生新聞のような学生のサークルではなかった。私たち記者も「給料」をもらっていた。樋口恵子、伊藤成彦などは新聞の先輩であった。

この当時、(学芸や文化も担当する)記者として、多くの方々にお会いして話をお聞きできたことは貴重な体験だった。

当時、お会いして原稿を依頼したり、取材させていただいた方々には、中根千恵、久野収、進藤純孝、小林直樹、坂本義久(たまたま、私の高校の先輩でもあった)、針生一郎、稲葉三千男(故人)、日高六郎、荒瀬豊、高木教典、星野芳郎の各氏らがいる。

なお、私が入ったころと、そのちょっと前の
東大新聞社には、北川重彦(元読売新聞社会部長、前読売日本交響楽団事務局長)、天野勝文(元毎日新聞、元筑波大学教授、元日大教授、マスメディア論)、池田信一(ジャーナリスト)、滝澤睦夫(元コマツ)、亀谷欣作(元東急エージェンシー)、土屋博司(元サントリー)、岡田守彦(人類学、筑波大名誉教授、学術会議会員)、武部啓(医学、元京大教授、近畿大学教授。放送大学でも活躍)、小塚直正(編集者)らが編集部に在籍していた。

また、私がいたころの編集部には、加藤尚武(元京大教授、元鳥取環境大学学長)、渡辺武信(詩人、建築家)、天沢退二郎(詩人、明治学院大学教授。専門領域は中世フランス文学と宮沢賢治研究がメインで、前者は徹底的にアカデミックに、後者は徹底的に非アカデミック、反アカデミックにというのが基本方針という)、菅孝之(劇作家、映画監督)、故広松 渉(哲学者)の各氏らが、しじゅう出入りしていて賑やかであった。

そのほか私は、一時は東京大学新聞研究所(東大新聞とはまったく別のアカデミックな組織である)の研究生(14期)になって「勉学」を志したが、出席日数が足りず、中退した。言い訳に聞こえてもやむをえないが、当時の東大新聞研究所の研究生の多くは中途退学で、最後まで全うしたのは少数だった。

なお、前述の高木教典氏は7期で、当時は助手をしていた(のちに、日本マス・コミュニケーション学会会長、東京大学新聞研究所長、関西大学総合情報学部教授)。

この新聞研究所での同窓には長塚進吉(のちに『科学朝日』編集長、『朝日ジャーナル』副編集長などを勤め、元朝日カルチャーセンター千葉社長。高校の同窓でもあった)らがいる。長塚進吉が文科系出身の最初の編集長として『科学朝日』を縦書きにした「英断」は、その後、理科系の中間読み物や企業パンフレットなどに、多くの追随者をよぶことになった。

なお、柴田鉄治氏(国際基督教大学客員教授、元朝日新聞論説委員、社会部長、科学部長)は私の地球物理学科の先輩であると同時に、新聞研究所の先輩でもある。また、朝日新聞の編集局長をしていた外岡英俊氏やNHK外信部の青木紀美子氏は、後輩にあたる。

その後、新聞研究所の名前が変わった社会情報研究所も、2004年に東大の学制改革で、学科に吸収されて、なくなってしまった。しかし、新聞研究所の同窓会は、いまでも、年輩の人たちを中心に、熱心に続けられている。

一方、政治的な一種のクーデターで私も含む東京大学新聞の当時の編集部が追い出されてからは、池田信一、駒場新聞を出て東大新聞に合流していた小塚直正と高木 信、1962年の五月祭(東大の大学祭)委員長だった川戸康暢らとともに、学生のための総合オピニオン雑誌『大学論叢(だいがくろんそう)』の発刊(企画・編集・表紙製作まですべて)に携わった。

また、その発行資金を稼ぐために小学館の取材記者を勤めた。小学館としては最初で、張り切って創刊した女性週刊誌の『女性セブン』の、創刊前後の手伝いをしたのである。しかし、志は高かった肝心の『大学論叢』は、残念ながら発行を続けられるだけは売れず、「三号雑誌」に終わった。

(図をクリックすると『大学論叢』の説明へ行きます)

なお、下の写真は『女性セブン』のテスト版だ。週刊誌や雑誌を創刊する前に作る、いわば見本版である。女性向き週刊誌としては『週刊女性』が1957年に創刊され、『女性自身』が翌年、後を追った。そして、先行誌の成功を見ていた小学館は、同社らしく、後追いをしたのが、この『女性セブン』だったのである。創刊は1963年だった。

(図をクリックすると『女性セブン』テスト版の表紙の写真へ行きます)


1969年3月   東京大学理学系大学院地球物理課程修了(理学博士学位取得)

大学院に入学した年に起きた新潟地震(1964年6月16日。死者26名。マグニチュード7.5。液状化でアパートが倒壊した)が人生の転機になった。

もっとも、後で知ってみたら、私の誕生日(11月23日)は1703年に元禄大地震(房総半島の沖を走っている相模トラフを震源とする大地震で、関東大地震より一つ前の関東地方を襲った海底大地震。川崎から小田原まで壊滅した)が起きた日だった。

また、その4年後のちょうど同じ日には、富士山が大噴火(宝永の大噴火。富士山の三大噴火の一つで、関東から見ると富士山の左肩にある宝永火山を造った)をした日でもあった。

それだけではない。1980年の同月同日には、南イタリアで(欧州の地震としては最大規模であるマグニチュード7.2の)大地震が起きて5000人に上る死者行方不明者を出すなど、甚大な被害をもたらした日でもあった。

当時の東大では、学部学生までは、特定の教授に師事することはなく、大学院に入ってから、指導教官につくのが習慣であった。私の場合、故・浅田敏先生(私の大学院入学当時は助教授、のちに教授。1919.12.15-2003.1.10)と故・佐藤良輔先生(当時助手、のちに助教授・教授。1929.2.6-2004.5.12)が指導教官で、ご両人ともに、たいへんお世話になった。また、教室は違ったが小嶋稔さん(地球電磁気学科・地球史の教授、のちに大阪大学教授)にも、大きな影響を受けた。

1969年4月   東京大学助手(理学部地球物理学教室)

1972年8月   北海道大学助教授(理学部地球物理学教室)

その後、北海道大学理学部教授、国立極地研究所所長を経て、2008年現在、武蔵野学院大学特任教授。日本文藝家協会会員。

この間にお世話になった「恩師」たちは数知れない。なかでも、安井正さん(元気象庁海洋気象部長、函館海洋気象台長、舞鶴海洋気象台長。地球熱学の著名な研究者でもある)には、まだ、海のものとも山のものともつかない初期の海底地震計を海底に設置する機会を、じつに好意的に与えてくださったほか、海洋観測について、また科学について、数多くのことを教わった。また故・佐藤孫七船長(元海上保安庁水路部測量船「明洋」船長、のちに東海大学「東海大学丸二世」船長。1910.12.5-2006.1.23)には、「海」について、そして海洋観測の実地について、これも多くのことを教えていただいた。

その他

1983年6月

『地震をさぐる』(国土社、1982年発行)で吉村証子記念第3回日本科学読物賞を受賞。(1986年3月、王 安邦によって中国語に翻訳されて、中国北京市の「地震出版社」からも出版、題名は『探索地震的奥秘』。)

1989年5月

『地球の腹と胸の内――地震研究の最前線と冒険譚』(情報センター出版局、1988年発行)で第5回講談社出版文化賞(科学出版部門)を受賞

1992年1月

13回沖縄研究奨励賞(1991年度)を受賞。

なお、この賞は、「沖縄を対象とした自然科学・人文科学・社会科学の研究者の中から将来性豊かな優れた研究を行っている新進研究者(原則として50歳以下)に贈るもの」と奨励賞規定にある。

13回までの候補者322名のうち、沖縄が48%と多いが、以下東京16%、茨城5%、宮城4%、愛知3%、大阪3%と続き、北海道は2%弱であった。しかし、実際の受賞者は圧倒的に沖縄在住者や沖縄出身者が多い。

1997年5月

ポーランド科学アカデミー外国人会員に。

2002年5月

『地震と火山の島国--極北アイスランドで考えたこと』(岩波書店・ジュニア新書、2001年3月発行)で第49回産経児童出版文化賞を受賞

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