北海道新聞・文化面、2005年2月3日(木曜)夕刊

崩れた大地震説 1741年の渡島西部大津波は「火山崩壊」

 インド洋を大津波が襲って大変な被害を出した。地元インドネシアは日本と同じように世界有数の地震国だが、この地震は何百年に一度という規模のものだった。つまり、地球物理学的には以前にも繰り返し起きていたに違いないが、前回の地震は、人々の記憶や言い伝えにはないほど昔のものだったと考えられている。

 北海道にも、何百年に一度、という大津波があって、当時としては大変な被害を出したことが知られている。今回の津波と同じように、別の国まで被害を及ぼした。

 寛保元年7月19日(西暦1741年8月29日)早朝、渡島半島の西側を、いきなり大津波が襲った。

 じつは6日ほど前から対岸に望める渡島大島が噴火をしていた。もっと大きな噴火があって、火山灰くらいは降るかもしれないと地元の人たちは覚悟していたが、まさか大津波が襲ってくるとは思っていなかったのである。

 この大津波で、北海道だけで死者1467人、津軽半島でも死者20余も生んでしまった。この津波は、佐渡や能登半島や、さらに遠く若狭湾や朝鮮半島にまで達したことが記録されている。渡島半島・江差にある法華寺では亡くなった人たちの過去帳(左の写真:島村英紀撮影)が残されていて、境内に石碑も建てられている(右下の写真:島村英紀撮影)。

 家屋は北海道だけで700軒以上、津軽半島でも100に達した。また、1500以上の船が破壊された。


 ところで、沖合、少なくとも50キロメートルも離れている火山が噴火して、このように大きな津波が発生するものなのだろうか。これは、長い間、学問上の謎だった。
 

南西冲地震で複雑化

 事情を複雑にした、もう一つの要因がある。それは北海道南西沖地震(1993年)である。奥尻島をはじめ、北海道南西部に大きな被害を生んだこの地震は、じつは日本のローカルな地震ではなくて、地球物理学からいえば、世界的なプレートの事件だったことが、地震後に確認されたことだ。

 この北海道南西沖地震は、ユーラシアプレートと北米プレートの衝突で起きた地震だったことが分かったのである。その10年前に日本海中部地震が起きたときには、この2つのプレートの衝突で起きたかもしれない、という仮説はあった。

 しかし、多くの地球物理学者がこの2つのプレートの衝突を信じるようになったのは、北海道南西沖地震がきっかけだったのである。 ユーラシアプレートも北米プレートも、ともに大西洋で生まれたプレートだ。大西洋の海底の中央部を南北に「中央海嶺」というものが這っている。これは延々と続く大火山脈で、この火山脈からマグマが出てきて、それが海水で冷やされて、次々に新しいプレートが生まれていっている。

 そして、この2つのプレートが、おたがいに地球を反対まわりに半周して、再び会って衝突するところが、じつは北海道南西沖地震や日本海中部地震の震源だったのである。

 この2つのプレートの衝突するプレート境界は、サハリンから東北日本にかけて、それらの日本海の沖を通っている。そして、プレートが動き続けているかぎり、いままでも、そしてこれからも、北海道南西沖地震のような大地震が繰り返される。

 この2つのプレートの衝突が分かって以来、昔の地震の見直しが行われた。そして積丹半島沖地震(1940年)や、新潟地震(1964年)も、じつは同じ仲間の地震に違いない、ということが分かってきたのである。

 そして、このプレート境界に渡島大島が位置していた。それゆえ、渡島大島で起きた「事件」は、噴火とともに、じつは大地震が起きていたのではないか、という説が唱えられるに至ったのである。北海道南西沖地震も日本海中部地震も大きな津波被害を生んだ。もし、渡島大島の「事件」が同じような大地震だったとしたら、大津波が生まれても不思議ではなかった。

海底の地形を精査

 一方、火山の噴火で大きな津波が生まれた例もいくつかある。たとえば1883年にはインドネシアのクラカトア火山が海面近くで噴火して大津波を発生し、3万7千人もが亡くなったこともある。今回の津波までは、この被害がインドネシアにとっての史上最大の津波被害だった。

 また日本でも、雲仙普賢岳が1792年に噴火したときは、噴火とともに火山が崩れ、崩れた岩が島原湾に流入したために津波が生まれ、20キロほど離れた対岸の肥後(いまの熊本県)を襲って、1万5千人もの死者を出す大被害を生んだ。「島原大変、肥後迷惑」と言われている事件だ。このように火山が崩れることを山体崩壊という

 
渡島大島にも、この山体崩壊が起きたのだろうか。しかし地形を見る限り、大規模な山体崩壊が起きたようには見えない。他方で、大地震が起きたのだとしたら、地震の揺れによる被害があったはずだが、それも記録されていない。こうして、何が起きたのかは、長い間、謎だったのである。

 この謎は、ようやくこの一、二年の間に、解かれつつある。それは海底の精密調査によるものだ。海底の地形や、海底に積もった堆積物を調べたことによって、この1741年の事件は、大地震ではなくて、山体崩壊によるものらしい、ということが分かったのである。

 事件から3世紀近くがたって、雨が多い渡島大島の植生も回復した。一見すると、山体崩壊したように見えなかったのも、そのせいなのであった。

道北部日本海岸も

 学問的にはめでたし、めでたし、ということになるのだろうか。ところが、私たち地球物理学者にとっては、そうでもないのである。それは、もしこれが大地震でないとしたら、このプレート境界には、まだこれから大地震を起こすだけのエネルギーが溜まっていっていることを意味するからだ。

 日本海岸沖のこのプレート境界は、太平洋岸沖のプレート境界ほどには、地震のエネルギーが早く溜まるわけではない。しかし、いずれは、北海道南西沖地震なみの地震が起きる可能性がある、ということなのだ。じつは、積丹半島沖地震が起きた、もっと北、つまり北海道北部の日本海岸沖にも、いままで大きな地震が起きたことが知られていない。ここにも、地震のエネルギーが溜まっていっている可能性がある。

筆者注:山体崩壊は、八ヶ岳でも、また、アメリカのセントヘレンズ火山や磐梯山でも起きている。

【2013年5月に追記】この1741年の山体崩壊で崩れた量は日本の過去の火山噴火の中でも十指に入るほど大規模なもので、火山体から崩れた量は1億立方メートルを超えた。なお、このほか火山から噴出した火山灰や熔岩や火山弾など総噴出量が1億立方メートルを超えた大規模な噴火としては、1707年の富士山の宝永噴火(東北地方太平洋沖地震なみの巨大地震と考えられている宝永地震の49日あとに噴火した)や1783年の長野・浅間山の噴火1914年の鹿児島・桜島の噴火などがある。

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