今月の写真
世界で唯一残っている「実際に飛べる零戦」を見てきました

 「零戦(ぜろせん)」(零式艦上戦闘機)は第二次世界大戦中に日本で開発され、大戦中に使われた一人乗りの戦闘機だ。日本海軍の主力艦上戦闘機で、1万機以上が作られた。

 1940年という太平洋戦争初期から運用され、2200kmにも達する長大な航続距離や、優れた「格闘性能」を生かして米英の戦闘機に圧勝していた「名機」として有名だった。取り外して写真下部の台の上に写っているのは20mm機関砲2門で、当時の戦闘機としては重武装だった。なお、その右手の小さいものはエンジンをかけるための手動のスターターである。

 だが零戦が優位に立てたのは大戦の初期だけであった。中期以降には、アメリカ陸海軍が零戦対策の戦法を編み出したことや、米軍が、零戦の倍もある2000馬力級エンジンを装備するF6FヘルキャットやF4Uコルセアなどの新型戦闘機を大量に投入したことによって劣勢になった。大戦末期には特攻や本土防空にも使われ、終戦まで日本海軍航空隊の主力戦闘機であった。

 写真の零戦は、戦争末期に、米軍がサイパン島の日本軍基地を急襲して奪って米国に持ち帰ったもの。その後、エンジンの気化器を米国製のものに取り替えたり、傷んでいた主翼を急旋回や急降下に耐えられるように作り直したりしたが、「栄二一型」エンジンなど、それ以外の部分は日本製のままである。現在、飛べる状態のものとしては、世界でこれ一機しか残っていない。

 この機体は臨時に日本に運ばれ、埼玉県所沢市にある所沢航空発祥記念館で2012年12月から2013年8月まで展示され、エンジン始動やtaxiing(プロペラを使っての地上走行)も行われた。

 この零戦の開発は三菱重工業の堀越二郎があたった。優れた才能を発揮して、当時としては世界一の性能を生み出したエリート技術者であった。すぐれた技術者ではあったろうが、以下の私の文章(以前も著書で発表しているが、最近は『人はなぜ御用学者になるのか--地震と原発』)のうち「科学者」を「技術者」と読み替えてもらえば、そのままあてはまるだろう。

 私の持論によれば、最前線の科学者は孤独な戦士なのである。科学者とは、外から見れば研究の成果というエサを追って車輪を廻し続けるハツカネズミにすぎないのかも知れない。

 学問の最前線というものは、それを担っている孤独な戦士たち、つまり研究者たちの人間じみたドラマが演じられている世界なのである。

 そして、そういった競争の末に創られるものは、癌の特効薬かも知れないし、地震の完全な予知かも知れないし、また、新しい大量殺人兵器のような恐ろしいものかも知れない。

 じつは、そのどれを研究している「ハツカネズミ」も、同じような顔をして、同じように車を廻し続けているのだ。科学とは、そのようなものなのである。

 科学者とは、ときには国家という見えない巨大な掌の上で踊ることにもなる。その大きな掌から見れば、科学者とは、悪く言えば使い捨ての消耗品にしかすぎないのかもしれない。

 しかし、たとえ掌の中の研究とはいえ、その中で喜怒哀楽に生きざるを得ないのが科学者というものなのである。


 会場ではこの機体が実際にカリフォルニアの空を飛んでいるビデオも放映されていた。誇らしげに機体の解説をし、嬉々として操縦している米国人を見ていたら、思い出したことがある。

 かつて私がラバウル(パプアニューギニア)で地震と火山の観測をしていたときのことだ。当時、地元の火山が噴火したり、治安が極端に悪かった現地のホテルで会った米国人は、趣味で世界中で潜水をしている男だったが、近くで沈んでいる多くの日本軍の軍艦は見物(みもの)だ、廃墟の中で熱帯魚が舞う景色は世界にもないものだ、と自慢していた。

 沈んだ軍艦の中には、まだ多くの遺骨が眠っている。獲物をねめまわすような目つきの米国人が、この零戦を嬉々として操縦している米国人とだぶって見えたのである。


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