今月の写真
数万年は地球にとってみれば、ほんの昨日のことなのです

この写真の八甲田山塊は、関東から北海道・千歳空港に向かう定期航空の飛行機から撮った。写真の右手が北にあたる。

左上に写っている丸い火口は大岳(1584m)で、八甲田山の最高峰だ。その右、中央部にある大きな火口は井戸岳、その右にある小さな火口は赤倉岳である。しかし赤倉岳はこの小さな火口だけではなく、そこから大きな爆裂火口が右方に拡がっているのが見える。これは上部を吹き飛ばしてしまった大きな噴火の跡である。大岳と井戸岳の間の鞍部には小さな避難小屋がある。

他方、左の手前(大岳の手前)にあるやや低い山は小岳、その手前の尖った山が高田大岳(1552m)だ。(これらの山の名前は関西山の会・「山があるクラブ・U」の清水信吉さんから教えていただいた)。なお、「八甲田山」という名がついた単独峰はない。

左上の写真を撮ったのは 2013年1月。八甲田山は深い雪に覆われて夏は山頂まで覆っている植生も雪でカバーされてしまっているので、火口が特別に目立つ。

雪の八甲田山といってすぐに思い出されるのは、1902年(明治35年)に青森の歩兵第五連隊が雪中行軍の演習をしていて記録的な寒波と吹雪に見舞われて210名のうち199名もが遭難死した事件(八甲田雪中行軍遭難事件)である。日本での冬の軍事訓練で最も多くの死傷者が発生した事件であった。
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日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬の寒冷地での戦いに苦戦していた。そしてもっと厳寒地での戦いになるにちがいない対ロシア戦を想定して準備していた。こうした軍部の目論見通り、事件から2年後の1904年(明治37年)に日露戦争が起きたのであった。

多くの死者を出したこの演習は、ロシア軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が動かなくなったとしたら、冬場に「青森〜田代〜三本木〜八戸」のルートで、ソリを用いての物資の輸送が可能かどうかを調査するために、冬に、日本有数の豪雪地帯である八甲田山を超えるのが目的であった。

しかし、この失敗に終わった雪中行軍の詳細は明らかになっていない。戦争に向かって突き進んでいっていた軍部への批判をかわそうと、軍部の圧力や情報操作のために真実が隠されたり、歪曲された。また数少ない生存者の証言も食い違っていて、真相が解明されていないのである

いずれにせよ、戦争や、それを常に準備している軍部の行動は人命を軽んじる無謀なものなのである。

なお、写真の火口を含めて、八甲田山には数万年以上前の噴火以来、歴史時代の記録で溶岩が流れ出した大きな噴火はないが、地下のマグマはまだ生きている。

このため山群の所々から火山ガスの噴気があり、1997年には訓練中の自衛隊員3名が、地下から噴出して窪地に溜まっていた高濃度の炭酸ガスのために窒息死したことがある。また2010年6月には、酸ヶ湯温泉の上(この写真では左上の隅)で山菜採りをしていた女子中学生1名が、火山ガスによって、中毒死した。


数万年前にしか噴火がなかったとはいえ、それは地球にとっては、ほんの昨日のことなのである。

【追記】右上の写真は2016年5月下旬に撮ったもの。厳冬期よりも減ったものの、まだ、かなりの雪が残っている。見えている三つの火口付近が黒っぽくなっていて、地肌が出ている。地熱の影響だろうか。しかし、晴れた日が続くと、日当たりがよくて風が強い尾根筋や、傾斜の急な斜面、つまり多くの場合は山頂に近い上のほうから先に黒くなってくるのは山では一般的なことだ。どちらかは、分からない。


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