「自作を語る」(『月刊国語教育』1993年11月号、東京法令出版


生命の淵から還った喜び

 私が乗って海底から帰ってきた深海潜水艇ノーティール号は、軽いショックを感じて突然、激しく揺れ始めた。私はびっくりしたが、じつはノーティール号が海面に着いて波で揺すられ出したのだった。

 しばらくしてノーティール号は海面から母船のクレーンの強い力で荒々しく引き上げられた。

 副パイロットのシアロンさんは大きな気圧計を見ながら、艇内の気圧をコントロールするコックを回している。出入り口のハッチを開けるときにハッチの周りに付いている海水の滴を外に吹き飛ばすために、艇内の気圧を外よりも高くするのだ。耳が少し痛くなる。
 そしてシアロンさんはハッチに付いているハンドルを回す。大きくて重いハンドルだ。シュッ、という音がして空気が外に逃げていく。

 息をするのが急に楽になった。やっと海の上に帰ってきたという実感が湧く。

 梯子を上がって艇外に出た私は、驚くほど多くの人の笑顔に取り巻かれていた。写真のフラッシュが光る。日本語やらフランス語やら英語やらで、海底傾斜計の設置おめでとう、とか、よくやったね、とか、ごくろうさま、とかの言葉が私に浴びせられる。私は握手ぜめになった。みんなは私が海底で見たことや、やってきたことについて私を質問ぜめにした。

 あとで知ったのだが、じつは、もうひとつ別なものが私たちを待っていたのだ。それは初めて海の底へ行った人を祝福するための、いささか荒っぽい儀式だった。私たちの潜水が一三時間にも及んで母船に帰ってきたのがあまりに遅い時間だったので、遠慮してくれたのだ。

 その儀式は、海底から帰ってきたノーティール号のハッチが開く前から準備が始まっている。バケツを持ったフランス人が、あちらの階段を登ったり、こちらの屋根に登ったりしはじめる。

 儀式が始まるのはハッチが開くときだ。ハッチの脇で待っているエンジニアが、ノーティール号から出てきた科学者から、カメラや着物が入った袋を、いかにも、持ってあげる、というように、取り上げてしまう。科学者は、なにも知らないで、高いところにあるハッチから階段を降り始める。

 そのときだ。いままでニコニコしていた、階段の上にいるフランス人が、その科学者の頭の上から、いきなりバケツの水を浴びせるのだ。いや、ただの水ではなく、青や黄色の色のついた水なのである。

 それをきっかけに、あちこちの屋根の上や階段の上から、バケツの水が降ってくる。ときにはバケツごと落ちてくる。誰が振り回しているのか、ホースの水もあちこちに飛び回る。

 もちろん科学者はびしょ濡れになる。しかし水を掛けるほうは容赦はしない。

 そのあとはパイロットと副パイロットの番だ。二人は外でなにが起こるか知っているので、なかなかノーティール号から出てはこない。外の人がもう諦めたころ、ようやく出てきて、走って階段を降りようとする。

 しかし、待っているほうもしつこい。みんなが帰ってしまったあとでも、一人だけ、屋根の上でバケツを持って隠れていたりするのだ。

 そしてパイロットや副パイロットがびしょ濡れになると、隠れていたみんなが顔を出して、それからは、おたがいに水の掛けあいになる。甲板の上は大騒ぎになるのだ。

 じつは私は帰ってきた時間があまりに遅かったので、この儀式はされないですんだ。しかし、そう思ったのは、早とちりだった。最後の潜水を終わって、明日は日本の港に帰るという晩のパーティで、私は、貸してあった分を返すかのように、びしょ濡れにされてしまったのだ。

 その日は大騒ぎだった。サメと闘うためのダイバーのナイフで、ネクタイをちょん切られてしまった科学者もいた。母船の二等航海士がスカートを穿き、アイシャドーを引いて若い女性に扮して、エンジニアや科学者や船乗りとダンスに興じ、夜遅くまで、歌ったり踊ったりのたいへんな騒ぎが続いた。

 深海潜水艇の帰還の儀式といい、潜水が全部終わったときのこの騒ぎといい、私から見れば、度肝を抜かれるような騒ぎかただった。

 もしなにかの事故がおきれば、命がなくなるかもしれない、そんな生命の淵のようなところから無事に帰ってきたり、また、その大仕事を無事にやりとげた、という心からの喜びがこのように激しく出るのだろう。深海への潜水は現代でも「冒険」なのである。

 生きていることの喜びを、みんなで噛みしめているような賑やかなパーティだ。いつもは厳めしい潜水隊長も、人が変わったようにニコニコしている。

 こうして日本とフランスの共同計画で行ったノーティール号の潜水は終わった。私たちを日本の港に降ろしたあと、母船ナディール号はノーティール号を甲板に載せてフランスへ帰っていったのである。

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