留萌市民文化誌『波灯』第5号。1992年4月発行。24-32頁、連載その2。原文に一部加筆

世界でいちばん過疎の国

一 : 科学者だけの国

 科学者だけの国に行ってきた。

 ここでは科学者だけが住むことを許される。

 国としては大きいのだが、人口はごく少ない。あちこちに、小さな村があるだけだ。国全体でも何十という村しかない。村と村を結ぶ道はない。この国は世界のどの国とも隔絶していて、手紙は年に一度だけ、まとめて配達される。

 私は、そのうち6つの村を訪れたのだが、そのうち飛行場があるのはわずかひとつ。ここに飛行機が着くのは年に数回しかない。私が訪れたいちばん大きな村でも、家は30戸ほどしかなかった。

 この村は海際にあって、ごく小さな港がある。小さくても村だから、公民館も教会も、小学校もある。

 しかし小学校は寺小屋のようなものだ。それは、この村に家族で暮らしているのはわずか3家族にすぎず、あとはすべて単身赴任の科学者たちと、科学者を支援する人たちだからである。

 科学者たちは、容易に想像されるように、不器用な人間が多い。だから自分たちだけでは、とても暮らせない。このため、コックや、車や発電機の整備をするエンジニアや、家を作ったり直したりする大工や、通信のための無線技師や、医者たちが、科学者の支援のために村に住んでいる。

 村の規模が限られているために歯医者はいない。年に一度、3月にだけ、訪問の歯医者が来てくれるだけだ。歯医者は忙しい。ひとつの村に二、三日ずつ滞在しながら村をまわる。

 そうそう、神父も年に一度だけ、村を回ってミサを行うのだ。

 科学者だけの国とはいっても、物理学者や化学者や天文学者は、国中を探しても、まずいない。いちばん多いのは私と同業の地球科学者で、次に多いのが生物学者である。

 ところで、この国に科学者がいるのは、この国を調べれば「地球が見える」からだ。地球規模の世界の異変はこの国から始まることが多い。それゆえ、この国で観測していることが、地球の将来を占う上で大事なデータになるのだ。

 もうひとつ、科学者がいる理由がある。それはこの国そのものが、まだほとんど知られていない国だからだ。地形も、気象も、地質も、地下構造も、住んでいる生物も、未知のことが多い。これらのことを調べるために、それぞれ専門の科学者が取り組んでいる。

 この国の地下には、石油や鉱物資源が埋蔵されている可能性が高い。

 しかし、誰も、これら資源の試掘をしてはいけないことになっている。つまり、どんな科学をやってもいいが、資源調査だけは国際的な話合いで、凍結されているのだ。

 こんな未知の国が地球上に残っていた理由は、この国が世界でも最後に発見された国だからだ。発見されて調査が始まってから、まだやっと百年にしかなっていない。しかも、オーストラリアやアメリカと違って、この国が「発見」される前には先住民族はいなかった。つまり、本当の発見だったのだ。

二 : 世界でいちばん厳しい自然

 しかも、自然条件は世界でももっとも厳しいほうだ。私が訪れたのは真夏だったが、それでも寒い日には雪が降った。数メートル先が見えないくらいの猛吹雪にも見舞われた。

 隣の国との間の海は荒れるので有名だ。マゼランが世界一周の航海で、一番てこずった海である。

 私の乗ったポーランドの観測船は、丸4日間も左右に30度ずつも傾くほど揺すられ続けた。そればかりではない。波に叩かれて船の舵が曲がってしまったのである。

 この厳しい自然条件のために、農業は不可能だ。食糧はすべて輸入する。しかも、運んでくるのは一年に一度だけ。夏にしか船が近付けないからだ。

 村を離れてフィールドで暮らしている科学者もいる。私はその一つ、地質学者が一カ月を過ごす前線を訪れたことがある。大変な生活だった。

 そこは古ぼけた木造の避難小屋で、2部屋しかなかった。暖房は小さな薪ストーブ一台。照明はガスランプが一台あるだけだ。

 中は昼間でも暗い。部屋に一つしかない窓はガラスの代わりに透明なビニールを張ってあるが、凍るような隙間風が容赦なく吹き込む。小屋にはトイレもシャワーも流水もない。

 私が訪れたときは、前の週のうち4日間はフィールドに出て地質調査が出来たが、その後悪天候が続いて、一週間、テントから外へ出られなかったという。狭い小屋の中で、膝を抱えて座っておしゃべりするだけの生活だった。

 三、四〇センチに切った丸太の薪が飛ぶくらいの風も珍しくはないし、ブルドーザーが風で吹き倒されたことさえある。外へ一歩出るだけで危険なのだ。

 私がこの国に行った理由をお話ししよう。

 この国のすぐ沖で、太平洋プレートが沈み込んでいて、地震が起きたり火山が噴火したりして、日本列島のような島島が出来た。

 しかもその列島のすぐ後ろ側には、日本海のような「縁海」と言われている海が拡がり始めている。日本海も、オホーツク海も、東シナ海も縁海だ。西太平洋では、太平洋プレートが日本列島をぎゅうぎゅう、押しているのに、その後ろに日本海が出来た。これは地球科学のナゾなのだ。

 この国には、ちょうど今、日本海の「赤ちゃん」が生まれたばかりなのである。

 ブランズフィル海峡と呼ばれる、幅150キロほどしかない狭い海が、その赤ちゃんだ。

 この海は、いずれは拡がって行くに違いない。だから、この日本海の赤ちゃんの地下がどうなっているかを研究すれば、世界の縁海のナゾが解けるかも知れない、というのが私たちの研究だった。

 海の地下構造を調べるためには、地球のレントゲンを撮らなければならない。人工地震がX線源、私たちが日本から持って行った海底地震計がX線のフィルムというわけである。

 実験にはてこずった。今年のこの国の天気は異例に悪かった。

 台風なみの低気圧が次々に襲ってきて、強風や吹雪が吹き荒れ、私たちの乗った船は波に翻弄された。島陰での荒天避難が続く。

 この国には天気予報がない。気圧計だけが頼りだ。しかも天気は局地的で場所毎に違う。避難場所から半日もかかかって実験現場に行ってみないと海況は分からない。そして、着いてみれば、海が荒れていて、危険で実験どころではないことが多く、スゴスゴと帰って来る日の繰り返しだった。

 この研究は国際的な共同研究だった。ポーランド科学アカデミーの研究所やアルゼンチンの研究所や、米国の大学の研究所から私たちが招待されたのである。

 この国に行くには、旅券も査証も要らない。私たちがアルゼンチンからこの国へ行ったときも、アルゼンチンの観測船からポーランドの観測船へ乗り移ったときも、なんの手続きもなかった。

 この国をご存じだろうか。南極である。

 厳しい自然のなかで、科学者たちは、それぞれの研究を続けている。

 ある者は南極そのものを調べている。ある者は、地球の温暖化や、上空のオゾン層を調べるなど、南極から地球を見ている。ペンギンの躯の中の僅かな重金属を調べている生物学者もいる。南極も、もはや無垢ではないのだ。

 南極には、地球が温暖化したときに、真っ先に溶け出すはずの特別の氷河がある。私が行ったところのすぐ近くだ。

 ここの氷が溶け出せば、いずれ世界の海水面が上がるのは避けられない。オゾンの減少も、南極の上空で一番敏感に検知される。

 南極は、未知の大陸であると同時に、地球環境のバロメーターでもあるのだ。

 では南極では誰が、どんな生活をしているのか、見てみよう。

三 : 野菜が作れない国

 アルゼンチン国立南極研究所が西南極に持つジュバニー南極基地の朝は、萎びたジャガイモ剥きから始まる。西南極とは、経度が西経にある南極、つまり南米に面した南極のことだ。

 まだ研究者が昨夜の疲れをベッドの中で癒している早朝、中老のコックは、ひと気のない食堂の机の上で、倉庫から出してきたジャガイモを剥きはじめる。

 そのジャガイモは、とうに萎びてしまって、芽も出てしまったものだ。無理もない。基地の食糧は、すべて一年も前、夏になって海を覆う氷が少なくなったときに、補給の砕氷船で一年分を持って来て以来、新しいものは何も来ていないからである。

 それでもひと昔前と違って、食糧は随分豊富になった。肉類は冷凍庫に十分すぎるくらいある。パンを焼く小麦粉も、懐血病にならないためのビタミンCの錠剤も十分にある。

 もっともこれらは、補給の船が次の夏に来てくれるとは限らないための予備を持っているためでもある。

 げんに、アルゼンチン国立南極研究所の研究者は、氷の状態が悪くて交代要員と補給の食糧を載せた砕氷船が二年続けて来れずに、3年続きの越冬を余儀なくされた苦しい経験さえ持っている。食糧ひとつとっても、最悪の場合に備えなければならないのは、南極に生きる鉄則である。

 さて、食糧で一番困るのは、生野菜だ。長期の貯蔵が効かない野菜類は、夏の間だけの贅沢な食べ物なのである。それを食べ尽くしたあとは、乾燥野菜や缶詰という、加工野菜の長い長い繰り返しになる。歯ごたえも味も格段に落ちるわけだ。

 野菜を育てるのはどうだろう。日本の昭和基地でも「農協」があって、鉢植えに毛が生えたくらいの栽培をやっている。しかし量も種類も知れたものだ。

 さらに、南極には別の問題がある。ポーランドのアークトウスキー南極基地では、野菜作りのための20畳ほどの温室を、最近、やめた。

 「企業」としての採算のためではない。ただでさえ弱い南極の生態系を壊すかも知れない土の持込みが問題になって、全ての土をポーランドに持ち帰ってしまったのだ。土の中の微生物や細菌の拡散を恐れたのである。

 しかし、このように気を遣っている国がある一方、他の国の心配をよそに、チリの南極基地のように、砕石や砂を持ち込んで、観光用を兼ねた飛行場の滑走路を造ってしまった国もある。

四 : いちばん恐いのは火事

 南極基地はいわば「塀の中」の社会だ。厳しい自然の中で狭い基地に閉じ込められて長い日時を過ごさなければならないことは、誰にも辛いことである。

 アルゼンチンは越冬する南極基地を6つも持ち、そのほかに夏だけ観測隊員が滞在する基地を5つも持つ「南極基地大国」で、南極観測の歴史も長い。そのアルゼンチンの基地では刃傷沙汰があった。気がふれた隊員の放火で、ある基地が全焼してしまったこともあった。

 南極基地で一番恐いものは火事だ。消防能力は低いし、夏でも雪が降るほどの厳しい気候の中で焼け出されたら、命の問題だ。もちろん家を建て直すための資材が現地で入手できるわけでもない。

 南極基地の造り方には二つの方式がある。ひとつは、小さな単位の小屋を幾つも独立に造る方式で、エスペランザ南極基地(アルゼンチン所属)がひとつの典型だ。ここには20余りの独立した家があり、村の体裁を作っている。教会も、小学校も、公民館もある。

 しかし、この方式には重大な欠点がある。僅か十数メートルしか離れていない別の小屋に行くことが命がけになるような気象条件が南極では珍しくないからである。

 私が滞在した真夏でも、激しいブリザードで、数メートル先のものがまったく見えないことさえあった。南極では、雪がなくても風も強く、近くのマランビオ南極基地(アルゼンチン所属)では、ブルドーザーが風で吹き倒されたことさえある。

 この面からは、大きなひとつの建物を造って、中ですべての生活が出来るようにするほうが安全だ。

 この方式の南極基地は多い。マランビオ基地もそのひとつだ。また二、三の大きな建物を渡り廊下でつなぐのも、この方式に近い。

 しかし、もちろん火事という最悪の場合に備えなければならない。これらの南極基地でも、普通は食糧庫だけは別にしてある。これも災害への備えだ。

 しかし、十分注意していても火事は起きる。マランビオ基地では3棟の大きな建物のうち2棟を、数年前に焼失した。資材にも建築能力にも限りがある南極ゆえ、焼け落ちて鉄骨だけになった無惨な焼け跡が、いまだに残されている。

 この火事の原因は老朽化した電気配線のショートだと言われている。放火でなくても、思わざる原因はいろいろあるのだ。

五 : 「塀の中」で心の病が

 さて、南極基地という閉じた社会で長い期間を過ごすためには、どういう人間を選ぶか、各国の悩みの種である。容易に想像がつくとおり、よき科学者がよき越冬隊員ではない例は、どの国にも多い。

 このためアルゼンチンでは、今では二重の厳しい心理テストにパスしなければ南極観測隊員にはなれない。長文のアンケートに答えなければならないほか、長時間の面接テストもある。

 しかし、心理テストは難しい。たとえば南極観測だけではなくてスピッツベルゲンでの北極観測にも永い経験を持つポーランドでは、最近は心理テストを止めた。多くの実例が、心理「テスト」と「実際」の矛盾を露呈したからだ。人間を読むことはかくも難しい。

 心理テストだけではない。各国とも、肉体的にも精密な検診を義務づけられている。日本の場合でも、精密に調べ上げると、何も問題がない人間が珍しいくらいの徹底した検診が行われる。

 アルゼンチンの場合は、たとえ健全でも、南極に行く前に、盲腸は手術で取り去ってしまうほどだ。

 心理テストと医学検診。しかし、それでも問題が解決されたわけではない。

 各国の南極基地にはそれぞれ特色がある。隊長に誰がなるか、もそのひとつだ。科学者が隊長を務めるのが一般的な中で、アルゼンチン国立南極研究所のジュバニー南極基地の越冬隊長は伝統的に医師が勤めている。隊員の健康や心理面を重視した起用である。

 ジュバニー基地では夏には25人が暮し、12人が越冬する。

 現隊長マリアーノ・メモリー氏によれば、一番多くて、しかもてこずる病気は「落込み」だという。うつ病だ。

 この落込みには有効な手段はない。紫外線を当てたり、特別な食物を与えたりするが、なかなか直らない、という。「塀の中」にいる限り、良くはならないのが普通かも知れない、厄介な病である。このほか、幻視や幻覚を訴える隊員も多い。

 長い越冬を終わって夏を迎えたジュバニー基地を最初に訪れるのは心理学者である。越冬隊員が本国に帰る前に「現場」でデータを取ることが彼らの使命なのである。

 南極は観測の面では「探険」の時代から「科学」の時代へ入ってから久しい。しかし、その現場を支えている科学者一人一人にとっては、まだ探険の色を濃く残した、辛くて長い生活なのである。

六 : 基地にならぶ墓標

 観測隊員の敵は精神的な病気だけではない。

 アルゼンチンの夏だけの南極基地、カマラ基地では補給用のヘリコプターが墜落して10人もの犠牲者を出したことがある。

 南極では、天候に恵まれた日はごく少ない。限られた時間のうちに、より多くの人員や資材を砕氷船から陸揚げするために無理をしたのだろうか。基地を見おろす丘の上には墓標が立っている。

 アークトウスキー南極基地では、心臓発作で隊員が急死した。もちろん精密な医学検診をパスしてきた隊員だったが、急な発作で、手のつけようがなかった。この基地でも、ビリヤードや電気ピアノやギターが置いてある図書室兼娯楽室、つまり基地で隊員がくつろぐ「居間」の窓から良く見える丘の上に、大きな十字架が立っていて、この隊員の霊を慰めている。夜は照明が当たって、闇の中に十字架が浮かび上がっている。

 アルゼンチンのオルカダス南極基地では越冬隊員が行方不明になった。クロスカントリースキーの選手で、夕方の散歩に出たまま帰って来なかったのだ。八方探したが見つけることは出来ず、翌年、片方のスキーだけが見つかった。この基地では、このほか、今までに6人が死んだ。

 こうして、私が訪れたどの南極基地にも、いくつもの十字架が立った墓があった。観測を続けるためには多くの人柱が避けられなかったことを物語る墓標の列なのである。

 かって南極では、英国、アルゼンチン、チリなど7ケ国が領有宣言をした。しかし1961年に発効した南極条約によって、南極の領有権は凍結され、資源調査も、経済利用も、軍事利用も出来ないことになっている。条約は日本を含む12カ国で採択され、その後参加国は26カ国に増えた。いま南極は、科学者だけの聖域なのだ。

 この南極条約の有効期間は30年間だった。つまり、今年までである。この期限切れを睨んで、各国の水面下の思惑は複雑に交錯している。当面は、他の国を満足させる代案を出さない限り南極条約は自動継続されることになっているが、その先の資源や利用を読む各国は、南極観測という「足場」を築こうとしているのだ。

 南極観測はカネ喰い虫だ。アルゼンチンも南極観測の維持に四苦八苦している。アルゼンチン国立南極研究所はこの春から職員の数を半減した。ポーランドも経済事情の悪化から、西南極で有数の大きな基地であるアークトウスキー南極基地の越冬隊員を一昨年までの20名から昨年は15名。そして今年は12名に減らした。

 しかしそれでも、将来の南極についての発言権を得るバスに乗り遅れないために、中国や韓国は最近、そしてオランダは今年から南極観測に参入した。じつはオランダはアークトウスキー基地に「寄生」する道を選んだ。オランダは南極観測に手っとり早く足がかりを得たい。ポーランドはオランダの研究者を受け入れて分担金を得たい、というわけなのである。

 そのアークトウスキー基地の越冬隊長はプゼミスラウ・ゴネラ氏。地形学者である。

 アークトウスキー基地の越冬隊員には個室がある。ジュバニー基地は机も置けないくらいの狭い2人部屋だから、こちらの方が条件は少しはいい。しかし個室は3畳あまりと狭い。

 ゴネラ隊長の部屋も皆と同じだ。片側に造り付けのベッドとその上に本棚。窓際に小さくて質素な机。20巻ほどのカセットとラジカセ。窓際に観葉植物。9歳と6歳、2人の愛娘の写真を個室に飾って寂しさを紛らせる。部屋に時計が二つ。片方はポーランド時間だ。家族の生活を思っているに違いない。

 アークトウスキー基地では1986年から2年続きで女性越冬隊員2名ほどを派遣したが、その後、止めた。男女の混在は、心理的な安定には男女どちらにとってもマイナスだったという。

 基地の壁には各年度の越冬隊員の記念集合写真が飾ってある。男も女も、屈託がない笑顔だ。しかし、その笑顔の陰に何があったのか、知る人は少ない。

 いま、ゴネラ隊長が一番気を遣うことは、隊員の酒の量をいかにコントロールするかだ。単調な日々。閉じた組織。酒に溺れる科学者がいても不思議はない。

 基地の人間模様は社会の縮図なのである。

【参考:島村英紀、今までの『波灯』寄稿】
■:地震学者が大地震に遭ったとき-----関東大震災から二ヶ月間の今村明恒の日記・注釈付きの現代語訳 『波灯』第23号(2010年6月発行)、連載その11{400字で約100枚}
■:世界でいちばん人口が減った島 『波灯』第20号(2007年6月発行)、連載その10{400字で約50枚}
■:ウサギの言い分 『波灯』第19号(2006年5月発行)、連載その9{400字で約35枚}
■:世界でいちばんたくましい国 『波灯』第17号(2004年5月発行)、連載その8{400字で約35枚}
■:世界でいちばん雨が多い国 『波灯』第16号(2003年5月発行)、連載その7{400字で約33枚}
■:世界でいちばん危ない国 『波灯』第14号(2001年5月30日発行)、92-114頁、連載その6{400百字で約62枚}
■:世界でいちばんケチな国 『波灯』第8号(1995年6月10日発行)、16-24頁、連載その5{400字で約23枚}
■:流浪の科学者 『波灯』第7号(1994年5月20日発行)、13-19頁、連載その4{400字で約19枚}
■:世界でいちばん楽天的な国 『波灯』第6号(1993年5月10日発行)、100-112頁、連載その3{400字で約35枚}
■:世界でいちばん過疎の国 『波灯』第5号(1992年4月発行)、24-32頁、連載その2{400字で25枚}
■:オトギの国で過ごした夏 『波灯』第4号(1991年4月発行)、172-181頁、連載その1{400字で25枚}

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