『魚眼図』(北海道新聞・文化面)、2001年02月15日夕刊〔No.279〕

地球物理学者の呟(つぶや)き

 トルコには北アナトリア断層という長さ1000キロもある大断層が走る。これに沿って東から西へ、次々に大地震が起きた。震源は60年かかって移動し、1999年8月のトルコ大地震でトルコの西端に達した。この大地震では少なくとも15000人もの犠牲者が出たから、憶えている人も多かろう。

 じつは、この断層の先には、マルマラ海という長細い海がある。この海で次に何が起きるかが、地球物理学者の関心事なのである。

 私たちは、フランス、トルコと3国共同でマルマラ海に行く計画を立てていた。私たちの海底地震計を使えば、大断層がこの海底で終わっているのか、あるいはもっと西で、ときに大地震を引き起こすギリシャの海底にまで続いているかを解き明かすためだった。

 ようやく金策や借りる船の手配がつき、この夏に実験を始める手はずになっていた。

 しかし、思わぬことが起きた。フランスとトルコの外交関係が急激に悪化し、トルコは駐仏大使を引き上げる事態に発展してしまったのである。

 発端はフランスの議会が先月末、「20世紀初め、オスマントルコ帝国が少数民族だったアルメニア人多数を虐殺した」と認める決議を可決したからだ。フランスや米国に多く住むアルメニア人たちが何十年も活動して、ようやく勝ち得た決議であった。

 オスマントルコを引き継いだとはいえ、いまのトルコは別の国だ。しかし、人権問題はフランス、トルコの双方にとって、最もデリケートな問題なのである。

 かくて私たちの科学は、政治や外交にもみくちゃにされることになった。

 もしマルマラ海で大地震が起きれば、目の前にある大都会イスタンブールをはじめ沿岸に大被害をもたらすかもしれない。

 私たちができることは、地元のためにもこの研究は大事なのですがね、と弱々しくつぶやくことだけなのである。

【2009年に追記】 この「虐殺」で150万人が殺され、150万人が国外へ離脱したといわれている。指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンや、ロッキード事件で有名なコーチャンは、その末裔である。なお、「・・ヤン」はアルメニア人に多い名前だ。

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