『公認「地震予知」を疑う』(柏書房)から。20-25頁
(すでに拙著をお読みになった方には、再録で申し訳ありません)

島村英紀が書いた最初のフィクション・その1

首相が「警戒宣言」を発令した-----ある庶民の一日

 空気を切り裂いて駆け抜けていく鋭い新幹線の音や地響きが、なくなってみると喪失感があるのは不思議だった。

 あれほどうるさくて嫌だった音も、止まったままだと寂しい。この静岡市用宗(もちむね)は、静岡市のすぐ南西の海際にある港町である。新幹線が開通した40年前までは、小さな漁港がある静かな漁業の町だった。あんな新幹線はなくなればいい、元の静けさを戻して欲しい、と思い続けてきた久保田真吉は、40年ぶりに音がなくなっても、決して昔の平安に戻っているのではないことに苛立っていた。

 この夏は、いつになく暑い日が続いていた。日が暮れてからも熱気が残っていて、海からの風が運んでくる湿気とともに、寝苦しい夜が続いている。

 寝苦しいのは、もちろん、この夏の気候のせいだけではなかった。東海地震の警戒宣言が一昨日の朝に出されてから、地元の静岡県は、すべてが変わってしまった。

 新幹線が全面的にストップされただけではなくて、東名高速道路も通行止めになった。東海道在来線も私鉄も、町を走るバスも止まってしまって、静岡県は完全に孤立した陸の孤島になってしまった。

 観光客も海水浴客も、蜘蛛の子を散らすように、その日のうちに逃げ帰ってしまった。いま残っているのは地元の人たちだけである。

 銀行も閉まってしまった。一部の自動支払機だけは開いているとはいっても、シャッターを固く下ろしてしまった銀行は、町の活気を一気に失わせてしまった。町のスーパーや商店も、ほとんど閉まってしまった。ネオンサインや照明が消えた商店街は廃墟の町のようだ。

 生活の不安が渦巻く。これから食べるものは買えるのだろうか。どんな大地震が襲ってくるのだろう。今、62歳の真吉にとっては、1944年(昭和19年)に起きた東南海地震以来の大地震になる。当時3歳になったばかりの真吉にとっては、その地震の記憶はほとんどない。しかし、両親や姉から聞かされた地震の恐怖は、真吉の身に染みついている。しかも、今度の東海地震は、震源が静岡に近いので、東南海よりも大きく揺れるといわれている。

 どのくらいの津波が襲ってくるのだろう。家も流されてしまうのだろうか。津波に襲われないにしても、阪神淡路大震災のときのように、大火で家が燃えてしまうのだろうか。

 耐震性が低い建物だという理由で、多くの病院や老人ホームも閉まってしまった。これは命令だ、というので87歳になる老母を病院から家に引き取ってきた。だが東海地震が来たら、家が保たないかも知れない。

 この家は真吉の父が東南海地震のあとに建てた家で、戦争直後だったために建築資材も十分にはなく、かなりの安普請だった。真吉はこの家で生まれ、この家で育った。真吉が成長していった背の高さを父が刻んでいった柱も、兄弟との悪戯で汚してしまった壁もある。子供の頃からの思い出が、そのまま残っている家だ。

 県の指導で幾分の耐震補強はしたが、新しい家に建て替えることは経済的に難しかった。地震予知情報が出たときに家から逃げ出せば、命だけは助かる。建て替えするにしても地震の後でするつもりだ、と親戚が言っていた。その言葉も影響して、建て替えをしなかったこともある。

 老母は昨年冬に脳梗塞を起こして、体が不自由になった。言葉も失いかけている。警戒宣言が出ている間、そして地震が来てから、母の面倒を、どうやってみるのか、病院も役場も、なにも答えてくれないのである。一昨日の朝に警報が出て、昼前に病院からの電話で呼び出されて母を引き取らされたとき、病院も混乱の極みだった。皆が殺気立っていた。悪くなったら病院に連れてくれば診てもらえるのか、薬は貰えるのか、病院もはっきりした答えを出してくれなかった不安がよぎる。

 今までの人生が走馬燈のように思い出される。小学校の時に楽しかった雪見遠足。静岡県でも静岡市から御前崎にかけての太平洋岸は、霜も降りない温暖の地だ。鹿児島にも雪が降るから、この辺が日本でいちばん暖かいところだ、と地元の人は考えている。生まれて初めて触ってみた雪のひんやりした感触が、汗が噴き出してくる夏に、不意に思い出される。新幹線や東名高速道路が通る前の、松並木が東海道に沿って並んでいた牧歌的なたたずまいも思い出す。

 真吉は魚もミカンも茶も、地元のものが日本一だと思っている。用宗の知り合いの漁師が取ってきてくれる魚はとくにうまかった。目の前の駿河湾は深さが2千メートルを超える。陸から漁船で2時間も出たところにこんな深い海があるところは他にはない。浅い海の魚から、深い海の魚、そして回遊魚まで、どんな魚も豊富に捕れる海なのである。目の前の深い海は海溝というもので、これが大地震を起こす原因だ、と聞いたことがある。しかし、そんなことよりは、地元の人にとっては、まずは恵みの海だったのである。

 テレビのどのチャンネルをつけても画面の隅に出続けている「警戒宣言発令中」というテロップが一層の不安を煽る。コマーシャルがあるはずの時間になると、アナウンサーは「平静にしてください。政府と県の用意は万全です」とオウムのように繰り返している。しかし、一昨日から同じ言葉を聞き続けると、いらだちが募るだけだ。他の地方ではお笑い番組を楽しんでいるのに、なぜ、ここ静岡だけが、という疎外感が募っていく。

 真吉は昨日のテレビ特番での1人の役人を思い出していた。その役人は、東京にある首相官邸に作られた東海地震非常対策本部の医療担当の職員らしく、東海地震が起きた直後のトリアージについて、淡々と解説していた。トリアージとは、医療現場の手に余るほどの怪我人が出たときに、治療の前に、負傷者をあらかじめ仕分けする仕組みなのだそうだ。

 そこでは瀕死の重傷を負った者たちは手当をせずに、放っておかれる。手間がかかっても助かるかどうか分からない負傷者を救うよりは、手当をすれば助かる負傷者を優先する。もともとは軍隊の仕組みだ。

 放送を聞きながら、真吉は、地震で怪我をして病院に運び込まれた自分を否応なしに想像していた。怪我人が、水揚げされたばかりのマグロのように固い床に並べられている。うめき声を上げたり、出血が止まらない者も多い。倒壊した家から救出されたのか、手足が紫色になって壊死しかかっている無惨な負傷者も見える。

 そこに係官がやってきて、表情を押し殺したまま、負傷者の手首に、次々にリボンを結んでいく。真吉は意識が薄れていきながらも、せめて黄色いリボンを付けてくれ、赤いリボンだけは付けないでくれ、赤いリボンを付けられたら死を待つだけだ、と必死に黄色いリボンを願っている自分を想像して、思わず身震いした。

 昨日のテレビでの役人の無表情な解説を聞きながら、その役人が勤めている、東京・千代田区永田町にある首相官邸の本部を思った。その雰囲気が、いまいましくさえ感じられる。

 対策本部では、冷房がほどよく効いた部屋で、役人たちが、黙々と仕事をしているはずだ。緊張感こそ漂っているかもしれないが、所詮、彼らにとっては他人事だ。東海地震が起きても、東京では普通の建物には被害が出ない。建て直したばかりの首相官邸は要塞のような頑丈な造りで、もちろん安全地帯だ。交代時間が来れば、彼らは家に帰って風呂に入り、ビールを飲んで家族と談笑するに違いない。

 彼らの仕事は医療には限らない。食糧支援、交通網の復旧、治安の維持、自衛隊の出動、企業の経済活動の復旧。彼ら役人は、すでに定められた分厚いマニュアル通りに、有能に仕事をこなしているに違いないのである。

 いやいや、いまいましく思ってはいけないのだ、と真吉は反省もする。彼らも私たち地元によかれと思って、彼らの任務を果たしているに違いない、とも考え直す。

 でも、とすぐ考えてしまう。彼らには、この真吉の脂汗がにじんでくるような恐怖感が分かるのだろうか。いや、彼ら役人だけではない。他の地域に住んでいる人のほとんど誰もが、この地元の恐怖感や緊張をほんとうのところは分かってくれないに違いない。

 耐えがたい緊張が続く。こんなことならば、いまにでも、大地震が来てしまえばいい、ともときどきは思う。来てしまえば、たった数分で、揺れは終わる。そのあとは、もちろん大変だろうが、この恐怖感からは解き放たれることは確かだ。

 もっと恐ろしいことも考える。大地震が来て、御前崎の近くの浜岡町にある原子力発電所も壊れてしまえばいい。風に乗って首都圏まで運ばれる死の灰を、他人事だと思っているやつらにも味わせてやりたい、死ぬなら道連れにしてやる、と悪魔のささやきが脳裏をかすめる。

 これで2日目。真吉は自暴自棄になりかかっている自分を諫める。酒を飲んでもちっとも酔えない。ささいなことからの家族の諍いも増えた。

 いっそ、行く先のあてはないが、県外に逃げ出そうかとも思う。しかし、寝たきりの老母や、家族や、思い出をともに過ごした家を見捨てるわけにもいかない。それに、肝心の交通機関が、全部、止まっているのである。走り回っているのは、県や警察の車と、許可を得てコンビニに商品を配達するトラックだけだ。自分の車を運転することは警察に禁止されている。

 この町中の緊張がいつまで保つだろうか。誰かが気が触れて家に火を放つのではないか。真吉の心配は1時間毎に高まっていく……。

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