科学者も人間なのだ じつはノーベル賞だって策を弄して分捕るものだ

『私のイチオシ(一押し)』「読む。知るそして考える」(読書)面。その1。

『社会新報』。1994年5月31日{1300字}

 私の職業は科学者である。ある統計によれば、日本には300人に1人しかいない職業だというから、職業としては珍しいほうだ。

 マレには秋山仁さんのような変わりダネもいないわけではないが、科学者というと、象牙の塔に暮らす気むずかしい学者を思い浮かべるのがふつうだろう。いや、好きなことをやって給料がもらえる気楽な商売、と思っている人もいるに違いない。

 しかし科学者も人間なのだ。カール・ジェラッシ『カンター教授のジレンマ』(中森道夫訳。文芸春秋。1994年1月・2400円)を見るとよくわかる。ノーベル賞とは優れた業績を上げた科学者が選ばれて授けてもらうものかと思っている向きも多いだろうが、じつは策を弄して分捕るものなのである。相手の足を引っ張ったり、だまし討ちにもする。現役の科学者が書いたものだけに、フィクションとはいえ、迫力がちがう。

 山口栄一『試験管の中の太陽』(講談社。1993年4月・1600円)とガリー・トーブス『常温核融合スキャンダル』(渡辺正訳。朝日新聞社。1993年12月・3200円)とは、常温核融合というまったく同じ題材を扱っているのに、真っ向正反対から描く。前者の本では常温核融合という劇的な新発見が科学者の歓喜として描かれている。

 一方、後者の本では、常温核融合とは科学者の売名と、科学者として生きるために必要な研究費獲得のためのペテンなのである。

 さて、どちらが正しいのか。世界の誰も、まだわからないホットなテーマである。しかし、いずれにせよ科学者が持つオモテとウラ、二つの顔であることにはちがいない。

 私の持論によれば、最前線の科学者は孤独な戦士なのである。科学者とは、外から見れば研究の成果というエサを追って車輪を廻し続けるハツカネズミにすぎないのかも知れない。

 学問の最前線というものは、それを担っている孤独な戦士たち、つまり研究者たちの人間じみたドラマが演じられている世界なのである。

 そして、そういった競争の末に創られるものは、癌の特効薬かも知れないし、地震の完全な予知かも知れないし、また、新しい核爆弾のような恐ろしいものかも知れない。

 じつは、そのどれを研究している「ハツカネズミ」も、同じような顔をして、同じように車を廻し続けているのだ。科学とは、そのようなものなのである。

 科学者とは、ときには国家という見えない巨大な掌の上で踊ることにもなる。その大きな掌から見れば、科学者とは、悪く言えば使い捨ての消耗品にしかすぎないのかもしれない。

 しかし、たとえ掌の中の研究とはいえ、その中で喜怒哀楽に生きざるを得ないのが科学者というものなのである。

 種を明かそう。この文章の後半は私の最近の本の後書きからとった。その本は『日本海の黙示録――地球の新説に挑む南極科学者の哀愁』(三五館。1800円。1994年3月)である。これは自分の本だから一押しというワケにはいかないが、科学者も人間、という実像に興味がある方は、科学者が描いてあるこれらの本に目を通してみてほしい。

敵=マスコミを知るために・・・ 小沢一郎さんだけではなく われわれ科学者もヒヤヒヤしている

『私のイチオシ(一押し)』「読む。知るそして考える」(読書)面。その2。

『社会新報』。1994年8月30日{1300字}
その新聞紙面はこちらへ

 私たち地球科学者にとって恐いものはマスコミである。新聞の読者やテレビの視聴者が知らない、科学ニュースの裏側がある。それは科学者と記者との確執と葛藤である。

 たとえば群発地震が起きはじめる。噴火が始まる。住民が不安を訴える。殺気だったマスコミが科学者のところへ詰めかける。林真理子さんではないが、マスコミが殺到してきたときの恐さや強引さというものは、襲われた人でないと分からない。

 マスコミには言い分があろう。

 放送や夕刊の締め切りが迫っているのに、科学者は、くどくど、まわりくどい説明ばかりする。読者や視聴者が知りたいのはなにか、という肝心なことが分かっていない。分かりやすく説明することもできない。科学者の分かりにくい言い回しや専門用語を、分かる言葉に翻訳してあげているというだろう。

 一方、科学者側の不満はこうだ。

 マスコミは科学者の言うことを正確に伝えることはめったにせず、白か黒かの結論だけを拾い出したがる。

 科学的に正確な言い方は、AだとすればBに違いないとか、Cの可能性はあるがDの可能性の方が高い、というものが多い。前段が省かれてしまえば、話はすっかり違ってしまう。そのうえ取材攻勢のおかげで現場の観測や研究がズタズタになってしまうことさえある。

 それゆえ、マスコミを恐れているのは、芸能人や人気作家や小沢一郎氏だけではない。私たち科学者も、ヒヤヒヤしているのである。

 そのためには「敵」を知らなければならない。ところが肝心の新聞もテレビも、それぞれ自身について語ってくれることは驚くほど少ない。

 かくて私が愛読しているのは、『東京人』という雑誌に連載されたものをまとめた丸谷才一さんのシリーズ(『丸谷才一と17人のちかごろジャーナリズム大批判』、青土社、1600円など4冊)である。雑誌そのものはすでに米国で定評がある雑誌『ニューヨーカー』のパクリだ。しかし、この丸谷さんのシリーズはマスコミ自身が語らないマスコミ像を明らかにしてくれる貴重な本だ。

 本の題名にビックリしてはいけない。これは知性と上品なユーモアに裏打ちされたマジメなジャーナリズム論、そして、ジャーナリズムを通して見た日本社会論なのである。

 前前前作『丸谷才一と16人の東京ジャーナリズム大批判』、青土社、1500円、前前作『丸谷才一と16人の世紀末ジャーナリズム大批判』、青土社、1500円、前作『丸谷才一と17人の90年代ジャーナリズム大批判』、青土社、1600円など四冊では朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞、週刊朝日、タブロイド夕刊、スポーツ新聞、NHKテレビニュース、文芸春秋などが取り上げられてきた。私がいちばん笑ったのは、「毎日新聞は京都大学」説で、ともに管理されていないうえ、組織としては時代に対応していない。個人プレーの組織だ、と喝破したことだ。

 これらの本に取り上げられているのは、新聞やテレビには限らない。岩波文庫、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、クレア、現代日本文学全集、日本史大事典、漢和辞典といった出版物もある。それぞれが博識で柔軟な論者を得て、飽きさせない。

 残念なのは、4冊、36もテーマがあって、ひとつとして科学に関するものがないことである。

 私の勉強にはならないって? しょうがない、私はひとりぼっちでマスコミ科学論を組み立てていっている最中なのである。

日本の自動車技術『神話』をあばく 役人が見ている時だけ排気がきれいで いつも垂れ流しになる電子タイマー  まさに悪魔の発明だ

『私のイチオシ(一押し)』「読む。知るそして考える」(読書)面。その3。

『社会新報』。1994年11月29日{1300字}

 よくて安い日本の車は世界一のもので、日本の自動車技術のレベルは世界に冠たるものだ、と信じている向きも多かろう。

 しかし「日本で進歩したものはエンジン技術ではなくて、工業ロボットやトヨタの看板方式に代表される生産・管理技術にすぎない」という辛口の批評に満ちた本がある。兼坂弘が書いた『新・究極のエンジンを求めて』(三栄書房、2900円)である。

 メーカーを蹴飛ばして独立したエンジン技術者だけに、日本の自動車のエンジンをマナイタに載せて自動車産業を語る内容は遠慮がなく、技術に裏付けられた毒舌に満ちている。この本は『究極のエンジンを求めて』(2900円)、『続・究極のエンジンを求めて』(同)に続く三部作で、もともとは自動車雑誌『モーターファン』に1983年から現在まで連載されているもの(*)を集めて、一部書き直したものだ。

 「万日残業。これがヒデエことに日産では15時間、トヨタで60時間、これ以上いくら残業しても残業料は支払われないのだ。それでも休日出勤、そして代休願いを出して労働基準監督署の目つぶしをし、犬のごとき忠誠心の証として休暇出勤までもあえてする。」と書く。ほとんど鎌田慧か佐高信の世界なのである。

 日本の高性能エンジンの問題点や、石油という資源の乱費や排ガス公害に対しても手厳しい。「どのメーカーも安価な油圧ポンプが燃費を悪くしていることを知っている。安いから使うという精神だから、ドイツの車のように排気弁をナトリウム冷却せず、むりやりに馬力を引っぱり出してはガソリン冷却するのだ。ユーザーがバカにされている限り日本の車からガソリン冷却がなくならない。」

「ガソリンをハチャメチャに噴射して、ガソリン冷却を使ってノッキング(異常燃焼)を押さえ込む。そして排気ガスをきれいにする触媒が働かないようにコンピューターでコントロールする。さもないと大量のガソリンが触媒で燃焼して、触媒を溶かしてしまう。このとき自動車が垂れ流す排気中のHC(炭化水素)はハチャメチャに高いが、自動車メーカーにとっては人間の命より触媒のほうが大切なのだ。」

 排ガス規制。「学者と環境庁と運輸省の役人とメーカーがナレ合って毒ガスをたれ流しにした」「H自動車は悪魔の発明をしたのだ。役人が見ているときだけ排気がきれいで、いつもは垂れ流しになる電子タイマーだ。学識経験者として環境庁に依頼された教授たちがNox(窒素化合物)を減らしながらパワーを高め、燃費も改善できると信じたならばバカというほかはない。」

 読書の楽しみのひとつは、大新聞やテレビが教えてくれないものを知ることである。大新聞やテレビには何百万人という読者や視聴者を相手にしなければならない制約があり、広告主への配慮も必要なのである。

 「俺は新技術が消化しきれずに未完成のままでいるエンジンに愛着を感じる。進歩がなくなると、Yシャツや船のように中開発国、韓国で作ったほうが安くなる。そもそも日本もヨーロッパやアメリカの自動車の進歩の速度が落ちたとき、なんの新技術も開発しないのにマネだけで追いついたのだ。」という。車からも世界が見えるのである。最先端の工業に潜む問題点を鋭く見つめ、未来のエンジンを熱っぽく語る、これは技術者の心意気の書でもある。


(*)自動車雑誌『モーターファン』は、日本の自動車雑誌の草分けだったが、その後1996年7月号を最後に廃刊になった。


【2011年6月に追記】自動車メーカーの体質は21世紀になっても、変わっていないようです。

排ガス規制 いすゞ車886台「違反」 
東京新聞ウェブ 2011年6月4日 朝刊

 東京都は三日、いすゞ自動車(東京都品川区)が低公害・低燃費車として昨年五月に売り出した中型トラック「フォワード」(四トン)の車載コンピューターに国の排ガス規制を逃れるようなエンジン制御プログラムが見つかったと発表した。国の適合試験と違う走り方をさせると、規制値の三倍超の窒素酸化物(NOx)が排出されるという。石原慎太郎知事は「規制逃れのいんちき。企業の犯罪だ」と批判している。

 都は道路運送車両法違反で国土交通省に通報。同社は新車の販売を停止し、既に販売した八百八十六台についてはユーザーに連絡、プログラムを書き換え、秋までにエンジンも積み替える。

 都によると、同車には二系統の制御プログラムがあるコンピューターを搭載。適合試験の公定走行モードで走らせると、制御系統が作動し、NOx濃度は最新の排ガス規制に合うが、違う走り方をすると、コンピューターが適合試験ではないと判断し、別の制御系統で高い濃度のNOxを排出した。

 エンジンの構造上、燃費を良くしようとすると、NOx濃度は必ず高くなる。同車はNOxを抑える脱硝装置を付けていないため、その分、価格が安くなり、脱硝装置に尿素を補充する必要がなく、メンテナンス面でも楽になるという。

 排ガス低減装置・機構を無効化する機能は米国や欧州連合(EU)では禁止されており、米国では、高額な賠償金などが命じられた例もある。都の担当者は「意図的かは分からないが、無効化機能のある制御プログラムを開発したのは間違いない」としている。

いすゞが検査逃れ? ディーゼルトラックが高濃度のNOx排出 同社「意図的ではない」と否定
産経ウェブ 2011.6.3 20:56

  いすゞ自動車のディーゼル4トントラック「フォワード」が、平成22年の排出ガス規制(ポスト新長期規制)に試験段階では適合しているとしていたにも関わらず、実際の走行状態ではNOx(窒素酸化物)が基準の3倍以上排出されていたことが3日、東京都環境科学研究所の調査で分かった。同社は同日、国土交通省にフォワード計886台のリコールを届け出た。

 
都は「排出ガス低減性能を無効化させる機能を搭載していた」と判断した。こうした事例がみつかるのは初めてという。都は国交省に道路運送車両法違反の疑いで通報している。

  都環境局によると、トラックは時速60キロで200秒程度走行すると、車載コンピューターが自動的に作動し、基準を約3倍上回る360ppmの濃度の
NOxを排出するという。これを「無効化機能」と指摘した。

 都は国に対し、排出ガス規制では明文化されていない「無効化機能」の禁止について規定を設けるように求めるとともに、都の環境確保条例の規定も見直していくという。

 これに対し、同社は「エンジン制御プログラムの影響で、低速状態での継続走行や急激な加速の際に、
NOxの排出値が悪化する恐れがある」と説明。「検査逃れなど、意図的なものではないが、誠意を持って対応する」と話している。

 同社は都の指摘を受け、社内調査を実施した上で、5月25日以降、出荷を停止。販売済みの全車両について、プログラムを書き換え、エンジン本体の対策も検討するという。

 都によると、アメリカでは1998年、燃費向上のために無効化機能を搭載したとして、フォード社が大気浄化法違反などで総額780万ドルの賠償金などを支払った事例があるという。

『いかがわしさ』漂わせ始めた近代科学 鋭く、確かな目で突く別役実さん

『私のイチオシ(一押し)』「読む。知るそして考える」(読書)面。その4(最終回)。

『社会新報』。1995年2月28日{1300字}

 私がよく行く札幌市立図書館では、動物学の棚に別役実『虫づくし』(ハヤカワ文庫、400円)が並んでいたことがある。また私の大学の本屋では『別役実の人体カタログ』(平凡社、1800円)は、いまでも医学書の棚に置いてある。

 これを著者別役氏が知ったらほくそえんだにちがいない。これらの本をはじめ『魚づくし』『鳥づくし』といった本は、一見学術書や生物学の本のように見せかけながら、じつは科学のうさんくささを、強烈な毒をもって徹底的にコケにするのがねらいだったに違いないからである。

 多くの科学者がそれぞれの先端を研究しているわけだが、先端の数は星の数ほどもあるから、科学者どうしでも他人が研究していることはほとんど分からない。一方、その科学者どうしでも分からない科学というものに社会全体が依存しているのが現代なのだ。別役氏の一連の本は、その危うさを鋭く突き、うさんくささをひん剥いてみせる。

 『当世もののけ生態学』(早川書房、1500円)では「良識は当初、錬金術であり魔術であり占星術でありその他の術であった諸科学をも、「いかがわしい」ものとして無視してきたのだが、それらが「近代科学」と装いを改めることにより、一転してこれを認めることにしたという歴史がある」と書き、「そして今日に至り、あらためて振り返ってみると、かって妖怪変化のたぐいがそうであった「いかがわしさ」とまったく正反対に位置しながらも、同様のいかがわしさをほかならぬ近代科学が、そこはかとなく匂わせはじめている」「しかも「試験管ベビー」や「遺伝子の組み換え」や「臓器移植」や、その他この種の匂いに接する機会が、ここへきて急激に増加しつつある」「良識そのものが、いったんは自らの陣営に引きいれた近代科学に眉をひそめはじめている」という。

 これは鋭い。あらゆる詭弁、あらゆるレトリックを駆使しながら、その底には社会や人間や科学の危うさに対するたしかな目が感じられる。

 もちろん、科学をバカにしていいわけではないだろう。しかし科学を押し進めている私たち科学者にとっては、まさに『当世もののけ生態学』にあるとおり「進歩というものは中毒するのであり、何ものかがいったん進歩をはじめると、きりがなくなる」のである。

 かって私も「研究の成果というニンジンを求めて馬車馬のように走り続けるのが科学者なのだ。癌の研究でも、地球の研究でも、また新兵器の研究であってさえも、科学者の研究のやりかたも、また科学者としての生きがいも、そう変わるものではない」(『日本海の黙示録――地球の新説に挑む南極科学者の哀愁』三五館)と書いたことがある。

 つまり誰かが外で見ていてくれない限り、科学は危ないものになる可能性を秘めているのである。

 氏が突くのは科学だけではない。『眠り島』(白水社、1500円)では第二組合について、また『思いちがい辞典』(リブロポート、1545円)ではマスコミでタブー語とされていて伝統的だが絶滅に瀕している言葉を、それぞれ、だれも斬ったことのない切り口で戯画化している。

 最新作『カナダのさけの笑い』(弥生書房、2060円)は氏の本の中ではいちばん毒がないのは残念だ。新聞などに書いた再録だが、あまりに多数の読者を相手にするのは氏には不得意なのであろうか。

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