1994年のラバウルの大噴火

 ラバウルはパプアニューギニア国の東ニューブリテン州の首府で人口は約10万人。1994年9月19日の早朝、ラバウル市の南端にあるタブルブル火山が噴火し、1時間もしないうちに、こんどはシンプソン港をはさんだ市の南西端にあるブルカン火山も噴火をはじめた

 ブルカン火山の噴火は開始後急激に活発化し、流下距離は2kmと小規模ながら火砕流も発生した。やがてプリニー式噴火(大量の火山灰や軽石を吹き上げ、大規模なきのこ型の噴煙柱を形成する噴火)に移行した。噴煙柱の高さは約20kmにも達した。ブルカン火山が海際にあったせいで最大波高5mの津波が襲って船や沿岸部に被害を与えた。先に噴火したタブルブル火山もその後活発化し、噴煙柱は6kmの高さに達した。

 この二つの火山の噴火によって、ラバウルの市街地一帯には最大6mもの厚い火山灰が積もった。火山灰は市の中心部を狙ったように降り、州政府や市役所や警察や消防がある官庁街と商店街を直撃して建物を押しつぶした。空港も廃虚になった。また噴火直後に熱帯特有のスコールが降ったために泥流と洪水が発生し、降灰の被害はさらに大きくなった。

 しかし、これだけ大量の火山灰が市街地の広い範囲に降りながら死者の数が少なかったのは幸運であった。火砕流の規模が小さいうえに、たまたま火砕流は町を襲わなかったことと、火山岩塊や火山れきが降らず、毒性のガスもほとんど出ないで、細かい火山灰だけが雪のように降り積もったことが幸いした。

  噴火がようやく収まったのは3ヶ月後であった。州の政治や商業の中心であるばかりではなく近隣の農業や漁業の中心でもあったラバウルが壊滅的な被害を受けたために、家や職を失った避難民は5万人に達した。

  現在、市の中枢機能や商店街の一部は20kmほど離れたココポに臨時に移されている。噴火後2年たったいまでも、市の中心部はほとんど廃虚になったままで、町にいた人々は近郊にあるジャングルで不便な生活を強いられている。

 再建は、オーストラリアや日本など各国の支援で少しずつ進められている。たとえば日本の援助で病院は郊外に新設され、噴火で使えなくなった空港から30km離れた新空港の建設も日本の援助で進められている。

  そもそも私たち地球科学者から見れば、ラバウルは火山カルデラの中に町を造ってしまったところだ。天然の良港と言われたラバウル港があるシンプソン湾もじつは昔の噴火口なのである。

 ラバウルに限らず、同市があるニューブリテン島とそのまわりの海には火山が多い。ラバウルでの噴火の歴史は歴史的な文書が残っている最近200年だけでも7回もあり、1937年の噴火では507もの人命が失われた。また地質学的な調査では、少なくとも過去数万年以上にわたって噴火がくり返してきたことが確かめられている。

  ここでは、今後も同様の噴火がくり返す可能性が大きい。また1994年の噴火の際にはマグニチュード5.1の地震も起きており、将来の地震の被害も心配される。

【噴火の詳細】

1994年9月18日朝(日曜)から火山活動による地震が始まり、最大地震のマグニチュードは 5.1を記録した。

(1)噴火の経緯


タブルブル火山

19日 06:03 山頂火口西外輪より白煙上がる

3分後 1937年火口の南西部から火山灰噴出
 勢いは弱く、噴煙は数100m。

同日  噴火は活発化。噴煙柱は 6kmにまで達する。
火砕流の発生はない。

その後数日、活動は弱まる。噴煙柱高度は1〜2km。

30日 溶岩流を確認。小規模で流下速度は遅い。
溶岩流を出す活動は、10月25日まで間欠的に続いた。

ブルカン火山

19日 07:17 1937火口の北斜面から小規模な爆発。その後活発化。

07:37 火砕流発生(流下距離2km)。噴煙柱は勢いを増す。

07:43 火山からの噴出物が海岸から1kmの海中に達するのを確認。

07:45
最大規模の噴火。噴煙柱は高さ20kmに。

08:30 プリニー式噴火終わる。

18:30 - 19:30 この間、2回のプリニー式噴火。前回よりは小規模

その後数日に渡って火砕流が発生(最大流下距離3km)。 出された軽石がシンプソン港を埋めるように浮かんでいた。

(2)過去の噴火歴

タブルブル 1767
タブルブル 1791
サルファー・クリーク 1850
ブルカン、タブルブル 1878
ブルカン、タブルブル 1937 死者507人
タブルブル 1940
タブルブル 1941
タブルブル 1943


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