島村英紀・『青淵(せいえん)』(渋沢栄一記念財団)、2015年4月号。
27-29頁。
島村英紀・科学論文以外の発表著作リスト地球上に人類(現生人類)が初めて生まれたのは約4万年前だと言われている。初めての人類は、そのとき空を見て何を思っただろう。
まず気がついたのは太陽が照る昼間と、星が輝く夜が規則的に繰り返していることだったろう。しかもこれは人間が寝起きしたり、昼間食べ物を漁ったりするのにちょうどいい時間の配分だった。
ちなみに46億年前に地球が出来たときは、一日の長さが5時間しかなかった。これではなんともせわしない。地球の自転はどんどん遅くなっていて人類が地球に誕生したときに24時間になっていたのである。
そして、太陽の動きには年の周期があって、毎年同じことが繰り返されていることも、早い時期から分かっていたのだろう。いちばん日が長くて太陽が高く登るのは夏至、いちばん日が短くて太陽が低くしか昇らないのは冬至。その両方に気がついたに違いない。
でももちろん、なぜこうなるかは分からなかった。地球が丸い星で、太陽のまわりを地軸が傾いたまま楕円軌道を周回していることが分かったのは、もちろんはるかに後、近代科学が進歩してからのことだからだ。
見つかった夏至と冬至は、一年のうちでも特別な日として記憶されたにちがいない。
たとえば英国にあるストーンヘンジでは、夏至の朝には太陽はヒールストーンという石の付近から昇り、太陽の最初の光線は馬蹄形になっているストーンヘンジの中央に直接当たるように作られている。
またマヤ最大の神殿都市ティカルのピラミッドの神殿は、正確に夏至の日の出の方向を向いている。かつてマヤ文明の天文台として使われていたもので、いまのグアテマラにある。ストーンヘンジは紀元前2500〜2000年前、マヤ文明は4〜9世紀のものだ。ともに地動説が世の中に広く受け入れられるよりはずっと前のものだ。
太陽のほか、夜の星空や月も不思議なものだった。
月にはほぼ一が月の周期で満ち干を繰り返しながら、空を動いている。また月が欠けている方向が太陽と反対側であることも、わりに初期のころ、気がついたに違いない。
また夜空は時間とともに動いていくが、なかには北極星のように、ほとんど動かないものもある。そして星のなかにはいつも停まっている恒星と、よく見ると日によって場所が違う惑星がある。
これらは、いずれも、とても不思議なものだったに違いない。
古代ギリシャでは、見る場所によって北極星の高さが違うことがすでに分かっていた。
このことから紀元前4世紀ごろには、地球が球形をしているのではないか、そして太陽が載ったり、月が載ったり、それぞれの惑星が載っている何重にもなっている透明な球殻に地球が取り囲まれているのではないかという説が出されるようになっていた。
いまの知識から言えば、半分は当たっていて半分は違っている説だ。しかし当時の考えとしてはとても革新的なもので、いくつかの疑問を解消できる説であった。だがもちろん、まだ一般に受け入れられる説ではなかった。
そして、その延長上にあったのが、丸い地球の大きさを測ることであった。
エジプトの南部、ナイル川の上流にあるシエナでは、夏至の日の正午には立てた棒に影ができない。そして井戸の底にまで太陽の光が入る。ここは北回帰線の真上にあったからだ。シエナは現在のアスワンである。
ところが当時の文明の中心のひとつであった中心都市アレクサンドリアではそうではなかった。夏至でも井戸に太陽の光が入らないし、立てた棒には影ができてしまう。アレクサンドリアはシエナの900キロほど北にある。
この違いはどこから来るのだろう。もしも地球が平らなら、これらの場所では同時に井戸の中に日が届くはずだ。
これを地球の表面が曲がっているから、つまり地球は丸いから、と気がついたのはじつに卓抜な着想だった。
丸い地球の大きさをこうして最初に得たのはエラトステネス。ギリシャ人でアレキサンドリアの図書館長だった。紀元前200年ごろのことだった。
二つの地点間の距離と、そこでの太陽の角度の差が分かれば、地球の大きさが計算できる。角度の差は7.2度だった。角度はかなり正確に計れる値だ。
エラトステネスの計算では地球の円周は44500 キロと算定された。現在の知識からは16%ほど大きい。だが、これは上出来というべきである。
誤差が出たのは、ひとつにはアレクサンドリアからシエナまでの距離の誤差だった。900キロ、東京から札幌までよりももっと遠い距離を正確に測る方法はなかった。またもうひとつの理由はシエナとアレクサンドリアは、厳密に南北ではなかったことだ。
シエネとアレクサンドリアの距離は当時の単位で5000スタディアと見積られた。1スタディオンは185メートルほどである。
長距離を測るには専門の「歩行者」が距離を測るのが唯一の方法だった。時計もない時代だから、一定の速さで歩いたとしても、歩行時間から距離を計算できるわけではない。おそらく歩幅だけで距離を測ったのであろう。
当時、ナイル川は毎年、氾濫を繰り返していた。じつはその氾濫が肥沃な農地を生み出していたのだが、地形も氾濫のために変わってしまう。このため、土地を測り直すために専門の歩行者が使われていたのだ。測量の原点である。
また、シエネはアレクサンドリアの真南ではなく、南北、つまり経度の線からは2度ほどずれていた。しかし正確な地図も、磁気コンパスもない当時としてはこれは知りようもない事実だった。
だが2000年以上も前にこれだけの精度で地球の大きさを決めたというのは驚くべきことである。天動説を否定して地動説を唱えたガリレオ・ガリレイよりも1800年も前のことだったのだ。
じつは、地球は完全な球ではない。赤道付近が出っ張ったカボチャのような形をしている。
その出っ張りは、赤道部分の地球の半径が北極や南極での半径よりも約300分の1だけ大きいものだ。
これは外から見ても、眼で見て分かるほど大きな出っ張りではないが、出っ張った理由は地球の自転にある。一回転に24時間というゆっくりした回転だが、それでも遠心力が働く。この遠心力のために、地球が出っ張ってしまったのである。
出っ張ったところにも地球の引力は働く。このため、地球のカボチャ型の形は、遠心力と引力が釣り合った形になっているのである。
地球が中まで硬いものならば、自転したからといって形が変わるものではない。私たちが住んでいる表面は硬い岩に覆われていても、その中は柔らかい。それゆえ回転すると形が変わってしまうのである。
じつは地球の形は、地球が全部、液体で出来ているとしたときとそれほど違わない。つまり、地球を全体として見ると、表面にある硬い部分よりは、中の柔らかい部分のほうがずっと量的にもたくさんで寄与も大きいのである。
もっと厳密に言えば、過去の地球の自転の形が残っている。つまり地球はもっと早かったときの回転を「憶えて」いるのである。地球は図体が大きいから、すぐには変われない。
もし、地球を巨大な堅い板の上に置いたらつぶれてしまう。空中に浮いているからこそ、図体が大きい地球がいまの丸い形になっているのだ。
かくも地球は柔らかく、そして脆い(もろい)ものなのである。
この文章の記事は
この文章は2015年に秀英予備校の国語の公開模試に使われました。
『青淵(せいえん)』いままでのエッセイ
14:世界一高い山『青淵』、2020年3月号。{3200字}。33-35頁。
13:地球の中はダイヤがいっぱい 『青淵』、2019年2月号。{3200字}。29-31頁。
12:世界の終末が遠のいた?『青淵』、2018年4月号。 25-27頁。
11:地球外に生命はいるのだろうか『青淵』、2017年3月号。{3200字}。28-30頁。
10:空は落ちてくるのだろうか『青淵』、2016年5月号。33-35頁。{3200字}
8:地球物理学者にとっての「一日の長さ」『青淵』、2014年5月号。28-30頁。{3200字}。
7:日本の「地球物理学的な」歴史『青淵』、2012年3月号。27-29頁。{3200字}
6:南極の火事『青淵』、2012年5月号。16-18頁。{3200字}
5:人間の方向感覚、動物の方向感覚『青淵』、2011年4月号。 28-30頁。{3200字}
4:地震学者が大地震に遭ったとき---今村明恒の関東大震災当日の日記から『青淵』、2010年5月号。36-38頁。{3200字}
3:外から見た日本『青淵』、2009年6月号。19-21頁。{2500字+写真4枚}
2:アフリカの仮面の「眼」『青淵』、2007年12月号 (705号)。34-37頁。{3500字+写真6枚}
1:アフリカの仮面との出会い『青淵』、2005年5月号。12-14頁。{3200字+写真3枚}