正月の雑文
『テレスコープ・島村英紀の「地球タマゴの旅」その11』(講談社の科学雑誌『クオーク』)、1990年3月号を一部改変
(この文章は島村英紀著『地震は妖怪 騙された学者たち』に収録しました)

亀の長旅

 私の大学の先輩のMさんはいま、ある国立大学の教授をしているが、保守的な人といわれるにちがいない。東京から長野に転勤になっても、何年も東京の昔の床屋に通いつづけていたからである。

 Mさんは、昔なじみの床屋でなければ、安心して座っていられなかったのだろう。

 人間だけではない。

 動物にとっても、ものを食べたり、卵を産んだり、寝たりする場所が決まっていて、敵でも現れない限りは、同じところで生活を繰り返すだろう。

 ところで、毎年、墓参りをするたびに、あなたの家の墓が2センチずつ遠くなっていたとしたら、気が付くだろうか。あなたも、あなたの子も、孫も、気が付かないに違いない。

 不幸なカメも同じだった。

 ブラジルの北部は大西洋に突き出している。この海岸近くには多くのアオウミガメがいる。

 このカメは2000キロも離れた大西洋のまん中にある絶海の孤島、アセンション島まで、わざわざ卵を産みにいく。ここは大西洋中央海嶺のすぐ近く。伊豆大島くらいの大きさで、人口1000人。英国の軍事基地があるだけのさびしい火山島だ(アセンション島の地図や島の写真はこちら)。

 なぜ、カメがわざわざこんな遠い島まで行って卵を産むのかは、大きなナゾだった。

 しかし、プレート・テクトニクスがこのナゾを解いた。

 アオウミガメは、本能の中に刷り込まれている先祖の指示に従って、片道に百日もかかる大冒険を毎年繰り返していたのだ。

 アオウミガメは古くからいる生物だ。先祖は数千万年前までもさかのぼれる。

 先祖はやはりブラジルの海岸に住んでいた。

 もちろん当時は「ブラジル」はなかった。それどころか、南米大陸のすぐ前には、海というよりはまるで川のような狭い大西洋をはさんで、アフリカ大陸が拡がっていたのである。

 そう、当時は大西洋が生まれてホヤホヤのときで、大西洋中央海嶺で生まれた海底は大陸を二つに割って海を拡げはじめていたのだ。

 大西洋はちょうど今の紅海のように狭かった。海底火山の活動が盛んで、海底からは熱い水が噴き出していたに違いない。

 南米大陸側に住んでいたアオウミガメの先祖は、産んだ卵がほかの動物にさらわれるのに頭を悩ましていたに違いない。

 海岸の砂浜に穴を掘って産みつけるだけの、軟らかくてムキ出しの卵は、栄養があるし苦労しなくても採れるので、動物の格好のエサだった。いや、現代の人間にとってさえ、アオウミガメの卵のスープは世界の美味として珍重されているくらいだ。

 そのうちアオウミガメの先祖は、まだ狭い大西洋に浮かんでいる小さな島に目をつけた。これらの島は大陸が割れたときの破片だったり、大西洋中央海嶺の海底火山活動で新しく生まれた火山島だった。

 アオウミガメにとっては、少し泳げば着ける、敵のいない天国だったに違いない。泳ぐことが出来ない動物は島には来られなかったからだ。

 この安全な産卵天国は、アオウミガメの親から子、子から孫へと継がれていった。

 じつは、この島は大西洋のプレートの拡大とともに、1年に約2センチずつ、南米大陸から遠ざかっていったのだが、もちろんアオウミガメにとっては知る由もない。

 100年で2メートル。1万年で200メートル。まだ、気が付かないにちがいない。こうして何千万年もの年月が流れていった。

 このカメは海草を食べるための特別の形をした顎を持っている。しかしそれだけではない。肩の筋肉が発達していて、いかにも泳ぐのが得意そうな身体つきをしている。年月に鍛えられたのだ。

 昨年も、アオウミガメは12月になるとブラジルの海岸を離れて東に向かった。いまはちょうど、航路の後半を一生懸命泳いでいるところだ。

 早ければ2月、遅いアオウミガメは5月にアセンション島にたどり着く。

 磁石も距離計も持っていないアオウミガメが、どんな航海術を使って絶海の孤島にたどり着くのだろう。

 ブラジルを12月に発ったアオウミガメは、毎日、日の出の太陽の方角をめざして泳ぐ。

 冬至を越えた太陽は、日毎に北から出るようになるから、アオウミガメのコースは、はじめ東南東だったものが、次第に東向きになり、やがて東北東へと向きを変えていく。つまり南へ大きな弧を描く。

 このコースは、このまま行けば、島よりも南を通りぬけてしまう。

 航海術の秘密はアオウミガメの鼻にあった。

 やがて島に近づくと、火山島から出る特有の臭いが、この辺では南西に流れる海流に乗ってきているのをアオウミガメは敏感に感じる。すると、コースを変えて島に向かうのだ。なんとも巧妙な航海術である。

 もし生物学が進歩して、アオウミガメの記憶や本能をつぶさに辿れるようになったとしたら、地球の昔の姿がわかる。

 地球科学者が知らないことを動物に教えてもらうことが出来る時代が来るかもしれない。

 プレート・テクトニクスは生物学のナゾをひとつ解いた。こんどは生物学に地球科学のナゾを解いてもらう番である。

(イラストは『クオーク』掲載時に、イラストレーターの奈和浩子さんに描いていただいたものを再録しました)


【追記】2011年に、このテーマを再使用して、「人間の方向感覚、動物の方向感覚 を書きました。その後の生物学の(驚くべく遅い)進歩についても書いてあります。

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